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関連ページへのリンク  2006/09/17のブログ 土井城 小高氏館 城原城 山田城 谷城 三門館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合25
所在地
埼玉県比企郡滑川町大字福田字富士根
歴史と沿革

源義賢の旧臣が勧請したと伝わる浅間神社が所在
 「豆相記」や「甲陽軍鑑」によれば山内(鉢形城を本拠)・扇谷(川越城を本拠)の両上杉氏の内乱である「長享年中の大乱」のころ、付近の滑川町福田郷にて両氏による合戦が行われたとの記述がありす。 この記述を信頼すれば、早ければ15世紀末の一時的な陣城との関わり、或いは後北条氏の支配が浸透していく16世紀中頃に「物見の砦」として利用された可能性の存在が推定されます。 しかし何れにしてもそうした城館として利用されていた事実や時期を推定する史料を全く欠いています。
 なお、小高氏館がほぼ隣接していることから小高氏との関連を想定することも可能性のひとつかもしれません。小高氏については、
成田氏の家臣団である「南族23騎」の分限帳ともいうべき「成田左衛門佐家中之覚」(永禄元年-1558-当時のものを享保年間に筆写)のなかに「40貫 下福田 小高大和守」「20貫 同村 小高監物」と記されています。(「贄田家所蔵文書」) しかし、残念ながら、この小高氏との関連を示すような史料はおろか故事などさえも伝わってはいない模様です。 
 また、福田郷に居住した後北条氏の家臣とされる馬場氏(栗本氏)も、さらに興味深い存在ですが直接関連付けるような史料が見当たりません。
 従って、単なる妄想或いは思い過ごしと指摘されればそれまでの存在ではありますが..(汗)

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

戦国時代の物見砦に相応しい地形
 周囲との比高差が25mほどの山頂には浅間神社などが祀られています。 凝灰岩質の屹立した独立した岩山で山頂には湧水池が現存し、旧鎌倉街道の枝道に沿い東西に流れる和田川の水田地帯の低地を睥睨するという立地条件を有するため、享徳の乱以降の戦国時代の「物見や砦」としてはまさに絶好の地形です。山頂の平坦地はやや南側に緩く傾斜し、南北約80m、東西約20m程の規模を有しています。 つまり水の手が確保された眺望のよい水田地帯の低地に屹立した要害の地という存在です。
 南西側には小高氏館、土井城(あくまでも憶測による比定地)などの城館が隣接して所在。 また、北方1.5kmには大規模な堀跡が現存する江南町に所在する古河公方の有力家臣である搏c氏館、南南東約2kmには山田城、山崎城、谷城、城原城などの城郭群、西には高根山の丘陵地帯を挟んで三門館、泉福寺館などの城館遺構が所在しています。

文化財指定
訪城年月日
2006/09/17
訪城の記録 記念撮影

( 2006/09/17 )
「土井城」よりも遥かに城館跡らしく
 必ずしも中世城館跡という伝承などがあるという訳ではなく、唯一歴史に関わる部分では源義賢の遺臣が勧請したとの伝承があるようです。 それにしても余りにも見事な水田の中に独立した丘陵の地形。
「凝灰岩質の岩山」であるとの解説板が麓の鳥居の所に設置されていました。
 「砦」「物見」などの小規模な城郭としては正に絶好の地形で、南側以外の方向からの直登は勿論道などは存在せずほぼ困難に近い勾配。 その南側に所在する参道の石段も石が浮いて半ば崩れかけ、凝灰岩の岩盤が露出している個所は苔が繁殖して滑るの何の...しかし、ここで転がったら間違いなく大怪我は必定の様相。 結局は蟹の横歩きの要領でトレッキング・シューズの摩擦係数をぎりぎりまで高めて、多少なりと草の生えている個所を探しつつ参道を登り無事登攀に成功したものの、命がけとまではいわないまでにしても些か「冷や汗もの」なのでありました。
 山頂の社殿の前には、かつては神水とされたと伝わる透明度の高い小さな泉が現存し、トノサマガエルが2匹ほど棲息中...時ならぬ人の気配に慌ててその姿を池の底に隠していました。
 さて、よくよく考えれば不思議な光景かと。 何故岩山の山頂にかような泉が存在しているのか、「湧水」だとしても一体何処から湧き出すのか、およそ物理的に全く理解し難い現象であり、その意味でもまさに「神水」かと按ずる次第。 なお、下りルートは関係者以外通行止めといった按配の車道のような安全な道から下山。 そのまま参道から下山すれば90パーセント以上の確率で滑落間違いなし。 「土井城」のついでに訪れた「浅間山」ではありましたが、思わぬ拾い物をしたような..ただし、残念ながら中世城館跡に関連するような人工的な加工の施された地形の確認には至りませんでした。


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独特の山容を有する浅間山
物見としては絶好の地形なのですが傍証は皆無で..
( 2006/09/17 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで「浅間神社」の由来へ
■1■麓の鳥居 画像クリックで神社の解説へ
 参道は石段が緩み岩の上は滑りやすいので「4」の道を迂回すべき旨の掲示が欲しい所でありました。
 義賢の旧臣の一人である馬場氏はときがわ町に居を構えたとされ馬場地区には馬場姓の旧家も所在し、過日所用で訪れた特別擁護老人ホームの名称は何と「馬場館」でありました..(笑)
画像クリックで拡大します
■2■山頂への尾根筋 画像クリックで拡大
 参道のある南側から見た浅間神社の所在する北側方向を撮影したもの。 画像の左右に相当する東西方向の斜面は「5」の画像のようにかなりの急傾斜のため、手当たり次第に木の枝にでも掴まらないと登れません。 なお、地元では同所に所在する浅間神社、女浅間社、雷電社の三社を総称して浅間様とも呼ばれているようです。
■3■山頂の浅間神社 
 まさに岩山の山頂に所在する浅間神社の社殿と現在も枯れることのない一坪ほどの大きさの清泉で、この本殿の裏側に当たる北側はほぼ急崖を形成しています。 祭神は「木花咲耶姫命」(このはな さくやひめの みこと)と「大蔵の戦い」で源義朝の嫡子悪源太義平の奇襲に敗れた叔父の「源帯刀先生義賢」(みなもとの たてわき せんじょう よしかた)とされています。
■4■この道から登ればよかった..
 神社だからたまには正式に低頭して鳥居をくぐりぬけ参道からアプローチしようなどと殊勝な行動を取ったのがそもそもの間違いで、この道からブラブラと登ればあのような危うい目にあうこともなく..せめてこちらから登るようになどの「注意書き」が欲しいなどと八つ当たりを(汗)
■5■東西方向の崖の様子
 ほぼ北側方向から撮影した浅間山の東西方向の傾斜は45度前後を有することから登攀は著しく困難を極めます。
■6■マルバルコウ 植物図鑑へリンク
 熊谷東松山有料道路沿いの水田脇に咲いていたもので、本来は観賞用に輸入された外来種ですが、生育環境に順応する力が強いのか日本各地で事実上野生化しているようです。 葉の形がサツマイモによく似ていますが小さい朝顔型の花をつけます。
■7■概ね東側からの様子
 のんびりと熊谷東松山有利様道路の歩道を南に向けて散策しすると、眺める方向によって形状が異なってくるので益々思い入れが募ってくるのでありました。。
画像クリックで拡大します
■8■南南東側からの様子 画像クリックで拡大
 熊谷東松山有料道路の歩道橋の上から撮影したもので、このようにどの方角から見ても険しい独立した丘陵を形成していることが分かりますが、何分にも史料はおろか伝承さえも欠くところが実にもどかしいのでありました。
交通案内

・熊谷東松山有料道路(県道385号線)沿線西側で国立武蔵森林公園西口の南南西約400m。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 比企郡福田村の項に「浅間社 当社は帯刀先生義賢の霊を祀れりと云う。久寿2年(1155)義賢討たれし時、その家の家臣等此辺に落来たりて土着せしもの八人あり。その子孫等天福年中(1233-1234)此社を造建して鎮守と崇めし由..」と記されています。なお、旧都幾川村の「市川家系図」、旧福田村の栗本氏が文禄元年(1592)に記したとされる「木曽家引略記」などによれば、大蔵館滅亡の時に搦手を守っていた7氏9名の内、市川・馬場・荻窪の3氏は明覚郷(現ときがわ町)、横川・小林・加藤・伊藤の各氏は腰越(現小川町)、馬場氏の弟は福田郷(現滑川町)に土着したとされています。
 またこの福田郷に土着した馬場氏は、戦国時代には後北条氏の家臣となり栗本氏と改姓。その一族である栗本備前守義高は山中城の守将の一人として攻防戦に加わり討死を遂げ、その子孫は福田の地に帰農したとされています。(「関八州古戦録」「木曽家過去帳」「「木曽家引略記」」より)
■武蔵志
 福田村の項に浅間神社の名称に関する記述と、鎌形村(現嵐山町)の鎌形八幡の神事に関連して義賢の旧臣にあたるとされる後裔の人々の姓が記されている。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史 通史編」(1984/滑川村編集発行)・「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村の沼とその民俗」(1981/滑川村村史編纂室) 

・2006/11/21 HPアップ
・2006/11/22 所在地など一部記述訂正

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