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関連ページへのリンク  2006/09/17のブログ 山田城 谷城 山崎城 羽尾城 羽尾堀の内
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象3 総合23
所在地
埼玉県比企郡滑川町大字山田小字城原1710付近
歴史と沿革

経緯不詳
 「豆相記」によれば山内・扇谷の両上杉氏の内乱である「長享年中の大乱」のころ、付近の滑川町福田郷にて両氏による合戦が行われたとものと記されています。(「滑川村史」より) この記述を事実とすれば、早ければ15世紀末の一時的な陣城とも、或いは後北条氏の支配が浸透していく16世紀中頃のものとも想定されますが、城館として利用されていた時期を推定する史料を欠いています。 なお、別途この付近の在地領主階層とされる贄田氏、小高氏あるいは有力農民である土豪階層に関わるものと推定することも可能かと思われますが、何れにしても詳細については全く不明の模様です。
 また、城館の呼称については地元の教育委員会に確認したところ「じょうはら」と読むとのことで、「滑川村史 通史編」においても山田村の小字としてふり仮名つきで同様に記されています。恐らくは小字名が「城原」(じょうはら)なので、このことから「城原城」(じょうはらじょう)と呼称されたものと推定されます。

確認できる遺構
土塁?、空堀?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

またしても、遺構があるような無いような
  山田城の南東約500mほどの位置にほぼ独立した丘陵を形成し、その東側には東松山カントリークラブのゴルフ場が沼池を挟んで隣接。 南側300m付近を滑川が蛇行しながら東流し天然の防御線となっています。 また、戦国時代の成田氏の家臣で南族23騎に登場する、この辺りの在地領主階層とされる贄田氏の墓所が所在する谷城も北東約600mという指呼の間に所在しています。
 「埼玉の中世城館跡」などでは「畑と丘陵」がを遺構の所在地である旨を示しています。 麓には写真のように水田地帯の低地が広がっていることから、ことによると「畑」というのは写真「9」の腰郭状の平坦地を指しているのかも知れません。

文化財指定
訪城年月日
2006/09/17
訪城の記録 記念撮影

( 2006/09/17 )
筍の時期には接近注意
 麓の山田下集会所に車を駐車させていただいて、登口が見つからないので北西側付近の切岸のような斜面から草木に掴まりながら直登を敢行。 とはいえ、比高差は僅か20m足らずなので、あっという間に主郭と思われる丘陵の平坦部分に到着。 山田城・山崎城、谷城も指呼の間ではありますが、現在は叢生する樹木のため城原城の丘陵地帯からの眺望は全くありません。 戦国時代の遺構とされる山田城、谷城などとの位置関係を想定すると贄田氏、小高氏などの在地勢力との関わりが考えられますが、城館跡に関する伝承さえもそれほど明確なものではないようです。
 しかし、この付近の中世城館の立地条件としては申し分ないようで、山頂の尾根筋は思いのほか平坦な地形で、郭跡や平場のようにも見ようによっては見えなくもありません。 また地元の旧家の方々の墓地が各所に所在し、このため墓参のための里道があちこちに見られます。墓石を拝見すると年代の古いものでも近世の延宝(1673-1681)、正徳(1711-1716)年間あたりのものが確認されるのみでした。 比較的人の出入は多いようですが、秋の彼岸前なので蜘蛛の巣の多さには些か閉口..
 さて、遺構らしきものは殆ど確認できないのですが、僅かに土塁や空堀跡にも見えなくもない個所や、小口のように見えなくもない地形も所在。 然し何れもそれほど明確なものではなく、希望的観測の域を出るものではありませんでした。
 なお、一部に孟宗竹の竹林が所在することから、その時期になると筍を不法に持ち去る不心得な人間がいる模様で、「不法侵入すると警察に通報」する旨の告示が設置。 このため、地元の方に出会ったら必ずご挨拶することは勿論のこと、間違っても筍の時期には訪れない様に自粛することが肝要かと思われました。

画像クリックで部分拡大します
県道250号線の南側の独立丘陵に所在する「城原城」
( 2006/09/17 撮影 )
訪城アルバム
「谷城」方面 画像クリックで拡大します
■1■谷城方面 画像クリックで拡大
 贄田氏の墓所が中腹に所在する「谷城」とは、正に谷津により大きく隔てられていますが、直線にして僅かに600mほどの距離しかありません。山田城が贄田氏を城主とする伝承があることから、同様に贄田氏との関連も想定されます。
「山田城」方面 画像クリックで拡大します
■2■山田城山崎城 方面 画像クリックで拡大
 「山田城」の主郭部分までは、直線にして僅か北西500m程の距離に過ぎません。このことと併せて「谷城」とそれぞれを直線で結ぶと、ちょうど逆三角形の下の頂点の位置に「城原城」が所在しているという位置関係になります。 山田城に対抗するために築城されたものか、山田城などと共に熊谷方面への街道或いは水田地帯を監視するためのものか興味が沸くところではありますが..
画像クリックで拡大します
■3■画像クリックで拡大
 「ミソハギ」かも知れませんが、現在のところ鋭意調査中(笑)
洪積台地の崖
■4■「切岸?」の様にも見える洪積台地の斜面
 思いのほか急角度で、この麓の部分は傾斜角度にして45度ほどあるため、ともかく手当たり次第草木に掴まらないと這い上がれません。 このため危険作業用の丈夫な手袋を常時携行していることが、秩父方面の山城めぐり以来久しぶりに役立ちました(笑) ゴルフ場の西側からの道もあるようですが、遠回りするのも面倒なのでこの場所から直登。 
本郭付近の平坦地
■5■丘陵の頂上の「主郭?」近辺
 登り始めるとすぐになだらかな斜面となり、この麓の里道から直線距離にして100mも進まないうちに丘陵の頂上部分である平坦地に到達します。
 地形上から判断すると、この杉林辺りがおそらく主郭部分に相当するのではないかと思われますが、それ以上の確証などはあろうはずもありません。
土塁にしては都合がよすぎる地形(笑) 画像クリックで拡大します
■6■「土塁」と思い込みたいのですが..画像クリックで拡大
 高さ1m前後、長さ約4mほどの地面の盛り上がりですが、杉木の根の張り具合の状況から推定すると実に微妙な具合なのですが、結論から言えばさほど古いものの様には思えません。
 「5」の場所からやや東側へ進んだ位置に所在し、墓所の工事などにより削平した残土を積み上げたようにも見えますので困惑する一方に..
「堀跡」か「里道・竹林の境界」? 画像クリックで拡大します
■7■「堀跡?」にも見える溝 画像クリックで拡大
 「6」の地点から更に東側へ進んだあたりで、丘陵の先端部分を防御する横堀のようにも見えなくもないのですが、どちらかといえば推定されている城域との位置関係やその配置からは、何処となく「里道」や「竹林の境堀」のようにも見えたりします。
 大きさは幅約1間、深さ約0.8メートル、延長約20mほどのL字型。
「堀跡」か雨水の流路か? 画像クリックで拡大します
■8■「堀跡」か雨水の流路か 画像クリックで拡大
 「6」の個所よりも西側に所在していることからも城域に含まれるとは思うのですが、自然に形成された「雨水の流路」である可能性の方が高いのかもしれません。
画像クリックで、多少接近した拡大画像へ
■9■「小口?」のように見えなくもない地形も 画像クリックで拡大
 西側の民家の裏手には「小口」のように見えなくもない地形が所在し、しかも左側の開墾されたと思われる畑は「腰郭」のようにも見えてくるので更に困惑の度を深めていくのでありました。
「ヤブラン」画像クリックで拡大します
■10■「ヤブラン」(園芸種) 画像クリックで拡大
 ユリ科ヤブラン属の多年草で花期は8月から10月頃。この種類は葉に斑が入っていますが、本来種には斑は無く頑健な山野草の一種でその名の通り林床などのヤブに生育。この園芸種も本来種の頑健な性質を引き継いで半ば野生化しているような印象でした。
 城原城の麓の民家の裏山にて撮影。
「セトクレアセア・パリダ」 画像クリックで拡大します
■11■「セントクレアセア・パリダ」 画像クリックで拡大
 本来は鉢で育てる種類のものですが、このように地植えされている場合も少なくなくありません。 晩秋から冬季にはたぶん低温や降霜で枯れてしまうはずなので、細長くか弱い地下茎だけが生き残るとも思えません。 現在、自宅にて同種のものを地植して実験中ですが、やや虫害に弱いものの繁殖力は旺盛でかなりの匍匐性があることなどが判明しました。 別名を「パープルハート」とも。 ツユクサ科トラデスカンチア属の多年草で城原城の麓の民家の庭先にて撮影。
交通案内

・森林公園の南口から見て南西方向に見える丘陵。北西側の麓には「山田下集会所」の建物が所在します。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 徳川家康の関東入府の後、文禄元年(1592)に三河以来の譜代である森川金右衛門氏俊の所領の一部とされたことなどが記されているものの、「山田城」なども含めて山田村のこの城原城を含む4か所の城館についての記述はその一切がありません。
■武蔵志
 山田村の項に、「塁跡アリ 居人不知」との記述以外には特段の記述はありません。 なお、この「累跡」が4か所のうちの何れを指すのかについては必ずしも明確ではありませんが、遺構としての残存状況などから推定すれば「山田城」と想定するのが妥当かもしれません。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史 通史編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村の沼とその民俗」(1981/滑川村村史編纂室)
「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行) 

・2006/11/11 HPアップ
・2006/11/13 城館呼称の説明を一部訂正

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