凸地誌としての性格
徳川幕府官撰の武蔵国22郡全域を網羅する総合的な地誌で、郡別に村の配置略図と総説が付されている。長期にわたる編纂作業のため調査を担当した編纂者などの交代などの事情も生じ、地域的に精度に差異が見られる事例も少なくない。また重複・矛盾した記載が一部存在するものの、埼玉の中世城館跡探訪に際しての基礎的資料の一つとしての評価は不変とされている。
凸編纂の経緯
編集総裁として事実上の編纂責任者であった間宮庄五郎士信(1777-1841)は、一説によれば天正18年(1590)に山中城で討死を遂げた後北条氏家臣間宮康俊の後裔にあたるとされている。文化7年(1810)大学頭林述斎の建議により地誌調所が設立され、19年の歳月を費やし漸くにして浄書稿本が献上されたものの、最終的に公刊には至らず「稿本」として伝わることから「新編武蔵風土記稿」と呼称された。なおこの編纂の過程で蒐集し書き写されたものが、内閣文庫の「武州文書」「相州文書」である。
凸エピソード
未刊となった事情の背景には、一つには徳川家の治世であるにも拘らず、戦国時代の関東の覇者である後北条氏の関東支配の足跡に関する記述の多かったことが原因とも思われるが、士信自身は世襲の御書院番士(300俵高)から浄書稿本献上の翌年に西丸御小性組与頭(400俵高くらいか)に転じ、最終的には天保11年(1840)に二の丸御留守居(700俵高)まで昇進を遂げていることから全く別の理由が介在したのかもしれない。
凸頻繁に登場する用語について
「御打入」(おうちいり)
天正18年(1590)の後北条氏滅亡のあと、秀吉の命により徳川家康が駿河・三河・遠江・甲斐・信濃から関東240万石に移封され関東の支配者となったことを指す。「関東御打入」「御入国」などとも記されている。
「里正」(りしょう)
名主などの豪農階層をいい、後北条氏の滅亡後に徳川家に仕官せず従来の本拠地などに土着した旧後北条氏家臣であるばあいも少なくない。また、姓を有し「舊家者」として登場する農村の有力者等も同様の場合が少なくない。
「御料所」(ごりょうしょ)
代官により支配される徳川幕府の直轄領をいい「御料」ともいわれ、大名や旗本の所領から収公されることについては「御料に上りて」と記されている場合が多い。
凸中世城館跡の記載個所
じっくりと辞書などを片手に読めば、およそある程度の内容は理解できるものの、そうなかなか時間が取れるわけでもないので、中世城館跡に関する記述だけを「手っ取り早く拾い読みする」方法は次の通りかと。
1.各巻の巻末についている「要目」から「壘蹟」「城蹟」「屋敷蹟」「陣屋蹟」などの項目を探して該当ページを拾い読みする。
2.「舊家者」の個所を見る(旧後北条氏家臣の家系の人々が少なくない)
3.「寺院」あるいは「神社」の来歴の個所を見る。
4.村の概要が記された冒頭の「御打入」以前の記述を見る。
5.「太平記」「吾妻鏡」「北条役帳」などの引用個所を見る。
6.小名の記述の個所で根古屋、堀ノ内、馬場、館、竹之内など中世城館と関連のある地名を探す。
以上の手法により「雄山閣版全12巻」を拾い読みすると、短時間の内に一応それなりの成果がありそう。
■参 考■
「国史大事典」(1990/吉川弘文館)
「江戸の旗本事典」(2003/小川恭一著/講談社)
「新編武蔵風土記稿(全12巻索引1)」(1996/雄山閣)
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