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おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯2 印象3 総合23
所在地
埼玉県比企郡滑川町大字福田字馬場
歴史と沿革

成田氏の家臣団の一人か
 成田氏の家臣団として、滑川周辺の在地領主階層の筆頭的存在である贄田氏を中心とする「南族23騎」の分限帳ともいうべき「成田左衛門佐家中之覚」(永禄元年-1558-当時のものを享保年間に筆写)のなかに「40貫 下福田 小高大和守」「20貫 同村 小高監物」と記されています。(「贄田家所蔵文書」)このことから多くとも2人あわせても10人前後の軍役を果たすくらいの規模をもつ在地領主であったことが推定されます。 また成田下総守氏長が下野烏山城主(3万7千石)へ移封されたときには随行したものの、成田氏の改易により福田の地に帰農したとされています。(「享保17年馬場七観音碑文」) ただし所謂「成田氏分限帳」の写本とは一致する部分が少ないため、些か疑問の余地があることが指摘されます。
 ※「馬場七観音」は福田馬場集会所北側の丘陵先端部分に所在しています。
 なお、「滑川村史 通史編」の496頁に掲載されている滑川地域の略図によれば、小高氏館と推定される丘陵の南方約700mの地点に所在する曹洞宗成安寺の東側に徳川家の旗本であった酒井重勝の陣屋跡が所在していた模様です。

確認できる遺構
空堀?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

尾根筋から派生した丘陵の先端部分
 南側の低地にはご覧のような水田地帯が広がっり、東側と北側には思ったよりも深い谷が入り込んでその独立した地形を際立たせていました。 東側の小高い丘陵地帯とは山頂付近の尾根筋でひとつになっており、その北側には「土井城」に関係すると推定される「土井城入沼」が所在しています。
 「堀跡」らしきものがあるような無いような..生茂る夏草のため確認できず仕舞いに。

文化財指定
訪城年月日
2006/09/17
訪城の記録 記念撮影

( 2006/09/17)
本格的に前倒しに..
 城原城と同様に登り口不明かとおもいきや、よく見ると麓の民家を50mほど西へ過ぎたところに南側から斜面を斜めに登っていく「道」がありました。 「道」といっても腰の辺りまで夏草が生茂り、全く地面の見えない代物ですが道には違いなく。
 館跡と推定される山頂部分は最近までプレハブ小屋のようなものが存在していた形跡も設けられます。その部分は別としても、予想外に平坦で広々としています。 また西側を除いて大きな木も余りないので、東側の稜線との地形上の関係もある程度明確に把握できました。 なお、稜線に繋がる東側に堀切などの形跡があるかどうか念のため確認したものの、結果は夏草の繁茂に妨害されて不詳。
 さて、帰り道にてトラブル発生。 草を掻き分けて登ってきた所をそのまま戻ったつもりが、10mほど北側にずれており、このため自分の背丈を越える2mほどの草叢に突入し、
強行突破を試みましたが見事に失敗。 蔓性の植物が足首付近に絡みつき前進不能。
而して、斜面のため上体のみが前進。 当然の結果として、これがホントの前倒しに。
後から思い起こすと、もしかすると目の前の地面が大きく窪んでいたような感じもしたので、ことによると「堀跡」かとも。 しかし、本当に進退窮まっていたので地面を観察している余裕もなく。
 このような恥ずかしい行動を繰り返しているうちに、貴重かつ未使用の500mlペットボトルのお茶を紛失。 喉の渇きを癒すことに失敗したのみならず、リサイクルすべき資源ごみを、こともあろうに山中に放置するという初の屈辱的体験。 車に戻ってから喉の渇きを癒そうとして、やっと紛失に気がついた故に再び戻って探す気力と時間が...結局、登ってきた場所とは少し別の草丈の低い個所から「下山」することに成功。 
 もっとも、一応車中には常に「草刈鎌」「鉈」「2リットル入りお茶のペットボトル6本」「耐加重500sの30mと50mロープ」「寝袋」「懐中電灯」「ヘルメット」などの各種装備を配備しているのであります。 然し、「鎌」を持参していないことにはどうにもならず、僅か比高20m程度でも蔓草を含む背丈を越える夏草の茂みはけっして侮れないという貴重な教訓を身をもって体験してしまったのでありました。


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苦戦した比高僅か20mの「小高氏館」の丘陵
南側の水田脇の町道から撮影
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( 2006/09/17 撮影 )
訪城アルバム
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■1■「大字福田字馬場」であることの証かと.. 画像クリックで拡大
 公立集会所の駐車場はがっちりとバリカーとチェーンが設置されておりました故、やむを得ず幅員の広さの割には至って人通りや車の交通利用の少ない未舗装道路の脇の方に駐車させていただくことに。
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■2■小高氏館の遠景 画像クリックで拡大
 「1」の集会所の脇から撮影したもので南側の低地にはご覧のような水田地帯が広がっています。東側と北側には思ったよりも深い谷が入り込んでその独立した地形を際立たせていました。
 手前の小高い丘陵地帯とは東側の尾根筋でひとつになっており、その北側には「土井城」に関係すると推定される「土井城入沼」が所在しています。
■3■館跡の平坦地を北側から撮影
 この草刈が行われたような15m×20mほどの場所は古い墓地跡などにしては余りにも広すぎるような..夏草に覆われていたものの辛うじて車1台分くらいが登れる程度の道が造成されていたので、おそらく近年までプレハブの作業小屋・倉庫?などが建てられていたのかもしれません。
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■4■山頂の平坦地と東側の稜線との合流点 画像クリックで拡大 
 館跡の所在する丘陵地帯は概ね独立した比高差20m弱の地形ですが、東側の大きな尾根筋から派生したような地形と成っています。 このことから堀切などの存在を確認すべく歩き回りましたが、地表上からは踏み跡以上のものは見当たりませんでした。
 強いていえば拡大画像の右手の夏草の茂み付近に、自分が転んだ原因となった窪地が潜んではいるのですが..殆ど負け惜しみのようなもので。
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■5■稜線との合流点から館跡を望む 画像クリックで拡大
 尾根筋からは比高差5m足らずの緩斜面なので、堀切が欲しいところではありますが、いくら念じても無いものは無く..始めから無かったのか、埋もれたのか、はたまた埋められたのか..何とも判断のしようが在りませんでした。
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■6■館跡に生育していたエノコログサ 画像クリックで拡大
 通称「ネコジャラシ」とも呼ばれるイネ科の植物。
 自宅に棲息する2匹のネコたちも、後ろ足で立ち上がり猫背を精一杯にのばした格好で、よくも飽きずに「ねこパンチ」などの仕草を見せます。 画像のものはおそらく「キンイロエノコログサ」。 犬の尻尾に似ていることから「エノコロ」とはは「イヌコロ」の転訛とも。
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■7■萩(「ハギ」)であることは確か 画像クリックで拡大 
 「秋の七草」のひとつ。ヤマハギかと思われるのですが..同じく館跡の杉林の近くにひっそりと咲いていました。
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■8■アメリカフヨウ
 やはり「外来種は派手で大きい」とやや斜に構えるのは、明治以来の伝統的な日本人の西洋列強諸国に対する劣等感から来ているのでありましょうか。直径約20cm以上の大きさで、丘陵麓の民家の庭先に生育していました。さらな大きなものは直径が30cm前後のものもあるようですが、なにもそこまで大きくなくても..自然と「鬼畜○○」という言葉が頭に浮かんでしまうのであります。
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■9■コスモスその1
 花弁の中心に近い部分が薄くグラデュエーションになっているのがとても上品な印象をあたえてくれました。尤も原産地はメキシコだそうですが、何処と無く日本的な風合いを感じます。
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■10■コスモスその2
 上記のものよりもいくらかピンク色が濃く艶やかな印象。双方とも県道沿いの民家の庭先にて秋風に微かに揺れていました故、実は左手で茎の下の方をそっと押さえてかなり無理な姿勢で撮影敢行(笑)
交通案内

・県道307号線の北側、滑川町立福田馬場集会所の北西約200mの独立丘陵に所在。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 文禄元年(1592)に徳川家の旗本酒井作右衛門重勝の所領とされ、父の重元(法名は成安)の菩提を弔うため曹洞宗成安寺を開基した旨の記述が見られる程度であり、小高氏やその館についての記述はありません。
■武蔵志
 「新編武蔵風土記稿」を更に簡略にした記述のみ。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史 通史編」(1984/滑川村編集発行)・「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村の沼とその民俗」(1981/滑川村村史編纂室)  

・2006/11/14 HPアップ

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