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増田氏館 |
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2005/07/11の日記 堀米堀内 荏原氏館 蓮沼氏館 伝幡羅太郎館 人見氏館 内ヶ島氏館 高見城 |
おすすめ評価 |
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯3 印象3 総合29 |
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所在地
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埼玉県深谷市上増田218付近 |
歴史と沿革
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■古河公方家臣の増田氏の館跡
「新編武蔵風土記稿の幡羅郡上増田村の記述によれば、「古城跡 村の東にあり、堀形土居のみ残りて百姓の屋敷となれり、東西94間、南北69間ばかりの地なり、増田四郎重富と云うもの住せりと云う」との伝承が記されています。増田氏は秩父党あるいは児玉党の出身とも伝わっているとのことですが明確ではないようです。
増田四郎重富は古河公方足利成氏に仕えて、永享の乱当時は山之内上杉氏に属する深谷上杉氏と正面から対立する地理関係にあったようですが、文明10年(1478年)に高見城(四津山城 現在の比企郡小川町)を築いてその拠点を移したと考えられています。
また「増田家系譜」によれば、増田重富は長享2年(1488年)11月の高見原合戦が行われた際に扇谷上杉氏に加勢した古河公方足利政氏の家臣として四津山城を守りましたが山内上杉顕定側に攻略され落城し自刃したとされています。またこの館跡は家臣の菊池氏が居住し現在に至っているとのことです。
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確認できる遺構
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土塁、堀跡? |
構造的特徴および
周辺の地理的特徴
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■「新編武蔵風土記稿」の古城跡の規模ぐらいあてにならないものはないのですが、珍しいことに南北の大きさは現在の宅地の大きさに一致しています。また東西方向約180メートルというと東側の水路部分から西側の市道の少し手前あたりまでということになりますが、昭和の終わり頃の圃場整備により景観が大きく変わっているとのことで余り意味のない推測ということになるのでしょうか。
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参考資料、古文書、
記録
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「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」
「角川日本地名大辞典 11 埼玉県」(1980/角川書店)
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文化財指定
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1958年11月3日 深谷市指定文化財史跡指定 |
訪城年月日
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2005/07/11 |