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蓮沼氏館
関連ページのリンク  2005/07/11の日記  荏原氏館  伝幡羅太郎館  内ケ島氏館  人見氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合21
所在地
埼玉県深谷市蓮沼578ほか
歴史と沿革

14世紀半ば以降の東国の戦乱の背景の一つに豪族の相続争いが
 蓮沼氏は猪俣党内ヶ嶋国綱の子国家が蓮沼の地に居館を構え蓮沼六郎を名乗ったことに始まりますが、同族の江原氏と同様に、15世紀の始め応永23年(1416年)発生した山内上杉家の家宰である上杉禅秀(氏憲)の乱において、禅秀側につき敗北し滅亡したとされています。
 上杉禅秀の乱には多くの豪族・国人領主たちが加わりましたが「埼玉県史通史編2」によれば、その背景には分割相続を基本として一族が結合する惣領制が廃れ嫡子による単独相続の傾向が強まり、その相続をめぐり一族が対立する傾向が増え、血縁的結合から「一揆」と呼ばれた地縁的結合に変化してきたという状況があり、その結果一族が足利持氏と上杉禅秀に分かれて戦ったという事例も多いようです。
 なお、敗北し滅亡または大きく勢力をそがれた一族にはこのほかに毛呂山の大類氏、熊谷の別府氏、本庄の本庄氏、寄居の藤田氏、深谷上杉氏の一族上杉憲国などがいます。

確認できる遺構
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

 深谷市の北東部群馬県に近い利根川南部の水田地帯にあり、周辺には北東に荏原氏館、北西に新開氏館、南に増田氏館などが所在してます。また、明治の中頃までは館の遺構につながると思われる土塁が確認されたとのことですが、1991年に市道建設のために行われた発掘調査では関連する遺構・遺物は出土していないそうです。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会) 「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」
「角川日本地名大辞典 11 埼玉県」(1980/角川書店)   

文化財指定
1958年11月3日 深谷市指定史跡
訪城年月日
2005/07/11
訪城の記録

( 2005/07/11 )
水田の真ん中で...
 国道17号線パイパスの北側の「淡島神社が目印」という事前の情報ですが、水田地帯の中に民家が一軒だけポツリと所在するだけで、例によってまたしても場所を間違えたのかと。しかし場所そのものはぴったりの正解でした。要するに神社とはいうものの、そこに所在する民家の敷地の中にある社が淡島神社となっていました。どう見ても、遠目には民家の付属家のようにしか見えないのですが、近くに行けば確かに鳥居があり、注連縄が飾られていました。
 「神社辞典」(1997/東京堂出版)によると淡島神社は和歌山市加太の淡島神社を根本社とし、少彦名命と神宮皇后を祭神とするとと共に民間信仰では「粟島明神」として婦人病に霊験があるとされ、人形を流し病を除くというその伝承は「ひな祭り」の起源の一つともなったとも。
 また、隣の道路沿いの場所には高さ40mほどのNTTドコモの携帯電話の電波中継塔がややもすると場違いな感じで空高く聳え、地面に目を移すと田植えの終わった水田にはきれいに稲が並び、所々に園芸用のビニールハウスが点在するのどかな田園風景が広がっていました。

Best Shot?



  周辺は平坦な水田地縦で目印の「淡島神社」は電波中継塔の隣民家の敷地内に所在していましたが、耕地整理や道路の新設などにより周辺の景観は大きく変わっているようで伝承などに基づくとはいうもののとても中世の館跡が存在していたとは思えない場所でした。
 ( 2005/07/11 撮影 曇 )
交通アクセス

・国道17号線バイパス深谷市蓮沼の信号を北へ300m MapFan Web の案内図です  


 
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