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高見城(四津山城)
関連ページのリンク  2005/03/07の日記  越畑城  杉山城  奈良梨陣屋  奈良梨館  武田信俊館 
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態7 探し易さ4 交通利便4 体力消耗3 歴史経緯4 総合26
所在地
埼玉県比企郡小川町高見四津山1008付近
歴史と沿革

■「青木家系譜」によれば治承4年青木氏久の家臣石井九郎左衛門政綱が篭居したとの記述があるが、「小川町の歴史」では高見城の築城形式から、伝説の域を出ない伝承との評価を下している。
 「新編武蔵風土記稿」高見村の条では、増田四郎重富の居蹟であるとの伝承を紹介している。また「増田家系譜」によれば、増田重富は長享2年(1488年)11月の高見原合戦が行われた際に古河公方足利政氏家臣として四津山城を守ったが山内上杉顕定側に攻略され落城自刃したとされている。しかし、合戦そのものは扇谷上杉・古河公方側の勝利に終わった。
 更に「関八州古戦録」によれば、天正18年(1590年)秀吉の関東侵入に際し、松山城の落城の時北条氏邦の家人400人が籠っていた本田郷四山城を攻略したが、城兵は戦わずして鉢形城へ後退したとされており発掘調査でも合戦が行われた形跡は確認されていないとのことである。

確認できる遺構
土塁、空掘
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■高見城は市野川南岸のほぼ独立した北西から南東にかけて伸びる細長い丘陵の中の南端部分の標高200mと飛びぬけて高く峻険な地形に所在している。郭の配置は西側から三の郭、二の郭、本郭と尾根筋に沿って直線的に配置されている。郭の間はそれぞれに堀切が施され、元来の地形と合わせて比高差を増すことにより防御効果を高めている。また、本郭部分には北東側に2か所、南東側に1か所の腰郭が残されている。
 山容全体として非常に勾配がきつく、唯一の弱点は西側の尾根続きであるが、本郭に到るまでは4か所の堀切と2から3か所の郭を攻略する必要がある。残りの南北と東側は、当時としては登るのも困難を極めたものと思われるほどの勾配である。

参考資料、古文書、
記録

・「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
・「新編埼玉県史 通史編2」(埼玉県/1988編集発行)
  ・「小川町の歴史 通史編上巻」(小川町/2003編集発行)
・「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行) 読下し文・解説付で非常に親切
・「小川町の歴史 資料編1考古」(小川町/1999編集発行)
 中世考古学の視点からまとめられた中世遺跡の資料を多数掲載し、埼玉の郷土史の中で小川町に限るとはいえ、中世城館関係をこれだけ詳細に纏めてあるものは他に例を見ないといってよさそう。
・「小川町の文化財」(小川町教育委員会/2001年編集発行)

文化財指定
小川町史跡 1992年3月25日指定
訪城年月日
2005/03/07
訪城の記録

( 2005/03/07 )
親切な指道標
 杉山城の辺りからでも、その特徴のある台形状の山容はすぐにわかります。従って、その山の方向を目指していけばよいので、地理的には大変分かりやすいコースです。しかし途中の道路は、車のすれ違いがやっとというぐらいの狭さで、カーブが多くガードレールの無い水路も道路脇にあったりします。暗くなったら間違いなく車ごと水没する可能性があるのでかなり注意が必要です。途中からは懇切丁寧に「四津山神社」というハイキングコースの木柱の指道標が各所に建てられているので、これもまた間違えようがない親切さです。現地に駐車場そのものはありませんが、四津山神社への入口付近に2台ぐらいなら駐車可能な道路わきのスペースがあり、車を止めてとっとと訪城へ向かいました。ま、初詣や神社の縁日以外にはそれほど賑わいを見せるとも思えない山道なので。
 神社への上りはコンクリート舗装の歩道や石段などが整備されているものの途中からかなりの急傾斜で、ここでもひぃーこら言いながら犬走、本郭、二の郭、三の郭とめぐって、三ヶ所あると資料に記載されていた腰郭も一応全部確認して合計所要時間40分ほど。到着時点ですでに2時半でしたが、午後4時までと考えていましたが予想外に早く城跡めぐりが完了しました。

どこから見ても急勾配の山城
 城跡のある台形の山容は、どこから見ても斜面の傾斜角度は30度から40度というように急傾斜であり、唯一の地形状の弱点は三の郭の北西側の尾根筋ぐらいのものです。当然郭ごとに数ヶ所の堀切が施されており、地形的には杉山城よりもはるかに堅固な状態となっています。ものは試しと30度ぐらいの斜面の登攀を試みましたが、木の枝などに掴まらなくては滑り落ちる状態になりました。予想していた降雪による影響は殆どなく、山頂からの期待通りの眺望のよさに満足しつつ退城。
 しかし、春の陽気のせいもあり、のども渇き腹が減ったのには参りました。越畑城でかなり時間を潰してしまったために、食事抜きで回っていたもので。帰りにいつもの高谷の信号のコンビニでサンドイッチとジュースで腹ごしらえを。

Best Shot?


 四津山神社社殿のある本郭の木立の間からの遠望で、正面が多分青山城のある仙元山方面のはずですが。高見城は小川町の北端にあり寄居町に接しています。東流する荒川まで直線で約3km、鉢形城までは4.5kmの距離です。
 ( 2005/03/07 撮影 晴 )
交通アクセス

・東武東上線小川町駅下車徒歩60分、男衾駅下車徒歩40分MapFan Web の案内図です


( 2005/03/07 撮影 )

■南西側の高見城に向かって真直ぐに伸びる町道より撮影。南西側からの山容は間違えようの無い特徴のある台形状で、季節と天候次第ですが杉山城、越畑城、武田信俊館からも同様の山容を望むことができます。
■地元では別名四津山(四ツ山)城。頂上が小さく4ヶ所に分かれて見えるそうためにそう呼ばれていますが、その形態は元々からある自然の尾根筋の地形とこれに加えた郭と堀切の構築によるものです。
■高見城へ上る峠部分に通じる十字路。この道を直進すると四津山神社の参道のある眺めの開けた峠にでます。自分は向かって右側の方向から来ましたが、この十字路にも丁寧な指道標がたて建てられています。
■四津山神社への参道入口。ここが高見城への登口で、車を止める場所は白いガードレールのある場所左側の山側辺りが適当かと。
■近年建立された四津山神社の再建記念碑ですが、城跡関連の事項についても若干触れられています。
 この碑文によれば、主祭神は火遇突智命であり、神社としての歴史は新しく、宝暦9年(1759年)北側の山麓に今も所在する高見山明王寺境内に祀られていた愛宕神社をこの山頂に遷座したことが起源のようです。その後明治の末年になり全国的な神社合祀の潮流のなかで地元の八幡神社など二ヶ所の村社を含む11社を合祀し18祭神となり、明治40年にその山容に因んで四津山神社と命名したとのことです。
■戦後間もない時代の昭和24年(1949年)に建立された石造の鳥居で、形式的には靖国鳥居のようですがある意味で時代の背景を感じます。
 「鳥居の語源」は「鳥が居る」「通り入る」などといわれており、天空に舞う鳥を神の使いとしたことによるとも考えられます。右脇の石碑も含めて歴史の新しい割には地元の方々の篤い信仰に支えられて様々な神社関係の建造物が配置されています。
■犬走りと呼ばれている帯郭。本郭の東側から南側を廻っていますが、腰郭を過ぎた辺りから途中ではっきりとしなくなっていました。
 太陽が当たっている部分が幅広になっていますが、これが本郭下の南東部分にある腰郭で、標高160mから170mに位置しています。
■左の写真の犬走りへの道と本郭(参道)との分岐点。右側の石段をハアハアいって登り詰めた後、コンクリートで舗装された急斜面を登ると、視界が開けて本郭北東部の腰郭と呼ばれている削平地にでます。
■これがその腰郭部分でここから石段の男坂と迂回路の女道に分かれますが、登るなら女坂を進んだほうが楽です。日頃の運動不足と太りすぎのため、だいたいこの辺りですでに息切れしていましたから。左側の祠が不動明王の石像、右側の石碑が大黒天...と、ここまで平日のせいか誰一人として人間に遭っていない。標高約178m。
■女坂といっても急斜面に設けられた小道で、途中から斜面を一気に上り詰めます。それにしてもご覧の通りの急斜面ですが、本郭の真北に当たりますので未だ雪も融けずに残っています。
■後ろを振り返ると、先ほどの分岐のある半月形の腰郭がこんな感じで見えます。
■ジクザグの登りも少しあり、またもや次第に息切れしてきてもうだめだと思うと、そこが郭が並ぶ稜線でやれやれと一安心をするという次第(^^;
 なお、この現地での標識が本郭跡と明記されていますが、本郭そのものはこの50mほど南東にすすんだ四津山神社の社殿の所在する地点であり、この標識の場所は右側の二の郭と本郭の北西側の小郭との間の堀切部分です。標高202m。
■本郭と小郭の間の堀切を北東側から撮影。
■同じ場所を南西側から撮影。堀切とか空堀は順光よりも幾分逆光の場合の方が立体感が出るようです。
■社殿が所在する本郭の小口ということらしいのですが、言われなければ単なる土塁の切れ目のようにも見えてしまいます。天然の地形と堀切だけでもある程度の防御性を発揮できると考えられますので、元々土塁の構築は大規模ではなかったのかもしれません。この本郭北側の土塁の一番高い所で標高は206.5m、調査により南側には土塁が元から築かれてはいなかったということです。
■四津山神社の社殿。再建されてから余り年月が経過していないこともあるかも知れませんが、風雨に晒され通常無人となる山上の社殿としては綺麗に維持管理がされているようです。
■二の郭とその土塁。土塁は北側と北東側、南西側のみに確認できますが内部での高さは高い所でも1m程度です。左側の喰い違いとなっている個所が三の郭側の小口部分。
■二の郭の南西側の土塁と標識。この辺りの土塁の高さは内側で1m未満です。
■上記写真の二の郭小口部分の拡大。三の郭側から見ると進入路は90度左に曲がっています。
 手前の方にある土塁がもう少しこちら側に張出していると枡形状となるのですが。下の堀切部分との比高差は最大10mほど。「小川町の歴史」では物見櫓の存在を示唆している
■三の郭の標識。城跡全体も日常的な清掃が行き届いているようで、落ちているゴミは殆どありませんでした。
 関係者の方々のご努力にひたすら感謝を。
■三の郭の南側にはこのような土塁が確認できます。内側の高さを補うために、土塁の手前の部分が幾分掘り下げられているのが分かります。
■次の写真の堀切から見た三の郭の北側にある高見城の最高地点。標高208.4m。南側の水田との比高差は約100m、四津山神社の入口の峠部分でも比高差85mがあります。
■三の郭北西側の堀切。写真手前には細長い人工的な尾根筋が続きますが30メートルも行かないうちに消滅しています。この堀切の辺りが城域北西部の先端です。
■三の郭の東側から見た二の郭へ続く尾根筋の括れ部分。
■前の写真の所から三の郭を振り返る。
■本郭の北西側、二の郭の南東側にある200平方メートル程度の小郭。「小川町の歴史」では「つなぎの郭」としている。
■男坂の石段の途中にある腰郭。3ヶ所腰郭のうちでもっとも小規模なものです。確認できる本郭からの帰りはこの男坂の石段を利用したほうが早い。でも登りは避けたほうが....元気な人は別にして。
■右側の水路は荒川の支流の市野川の支流の後谷津川という小河川ですが、ご覧の通り境目にガードレールなどというものは存在していません。
 幸いにして行き帰り共にすれ違う車も全く無く難儀はしませんでしたが...。
 
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