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伝幡羅太郎館
関連ページのリンク  2005/06/27の日記  内ヶ島館  大沼弾正忠館  秋元氏館  人見氏館   東方城  庁鼻和館  皿沼城  
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合28
所在地
埼玉県深谷市原郷362付近
歴史と沿革

深谷上杉氏以降の支城跡か
 幡羅(はら)の地は「木之本古墳」や「古代奈良時代の条里制遺跡」などが所在する歴史の古い地域です。また、深谷市のHPによれば「平成13年度から幡羅遺跡の範囲内容確認調査を行い、これまでの成果からこの遺跡が古代幡羅郡役所跡(郡衙)であることを示唆し、7世紀後半(大化の改新の少し後)〜10世紀前半(平将門の乱が起きた頃)までの約250年にわたって役所があった」としています。
 さて、楡山神社由緒などによると原郷地域は平安時代の中頃幡羅太郎道宗が再興した土地であるといわれ、後の忍城主の成田氏に繋がる家系であるとされていますが詳細は不明のようです。14世紀中頃から戦国時代にかけては深谷上杉氏の支配地となり、現在残されている伝幡羅太郎館跡の遺構についても、おそらくはその時代以降のものであると思われるのですが。

確認できる遺構
土塁、空堀、郭
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■深谷城の西北西900メートル、庁鼻和城の北北東1キロメートルに所在し200mほど北側には福川が東流する低い台地上に所在しています。
 館全体の規模がつかめませんが土塁や空堀の状態のよさや規模の大きさなどから考えて、伝承にあるような10世紀前後のものではなく、最終的には深谷上杉氏や後北条氏の支配する16世紀の戦国時代以降のもののように思われますが、詳細な調査や文献資料が存在していない模様で推測の域を出るものではありません。なお、平成11年9月に行われた住宅建設に伴う市内遺跡確認調査によれば、焼土やカワラケなどの遺物が確認されていて出土した遺物の年代は15世紀後半から16世紀頃のものと推測されています。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第64集 割山遺跡(第6次)/市内遺跡確認」(2000/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」
「角川日本地名大辞典 11 埼玉県」(1980/角川書店)   

文化財指定
深谷市史跡指定 1958年11月3日
訪城年月日
2005/06/27
訪城の記録

( 2005/06/27 )
予想だにしない大規模な遺構が
 伝承のみで歴史的な背景が殆ど分からないようですが、まだ時間に余裕もあったのでちょっと立寄ることに。そういえばここは、先月皿沼城に向うときに「何かありそうな地形をしている.....」と感じていた場所です。正確に言えば予感があったのは楡神社の方ですが、今回は市の文化財指定がされているといっても、全く何の遺構も確認できない所も多いということもあり、帰路の道筋沿いという理由だけで立寄ったまででしたので、その点では正直全く期待してはいませんでした。
 さて、地図を頼りに見当をつけていっては見たものの、細い路地を辿っていくと農家の裏側の「やぶ蚊」がうようよしている所にしか行き当たらず、とっととあきらめて戻ろうかとも思いました。しかしせっかくここまで来たのだからと、念のためもう一本西側にある大きな園芸栽培用のビニールハウスの間の別の細い路地を進んでみることに。
 さて、南の方に100mほど進んでいくとなにやら如何にもそれらしい光景が目に入り中世城館跡の雰囲気が漂ってきました。近くまで行くとフェンスによって仕切られた屋敷林の西側の道路沿いに大変立派な何と高さ2mから2.5mの土塁が延長にして約30メートルほど。また更に南に進んでいくと入口に当たる土塁の切れ目の隣には、また30m以上の土塁が続き、その先は土塁が東側に折れると共に何と幅10m前後の空堀が目の前にあるではありませんか! 
 空堀から土塁までの高さは目測で最大3m以上もあり西側と南側を土塁に囲まれた場所は外側から見ても郭の形態を残しているように見えました。土塁の高さは土塁の高さと地表の位置から見て、内側でも1m以上の高さを有しているように推定されます。とにかくこれほどの遺構に出会えるとは全く予想だにせず、人見氏館に匹敵する或はそれ以上の本日最大の収穫という結論に落ち着きました。
 「やぶ蚊」の攻撃を受け、蒸し暑い中を足を引きずりながらヨタヨタと這いずり回った甲斐があったというものです。ただ唯一残念なのは、完全にフェンスに囲まれた私有地の屋敷林の中なので道路の外側からしか拝見できないことでしょうか。

Best Shot?

 館跡の南端から東側に伸びる幅10mはありそうな空堀跡と現状でも堀底から高さ3mを超えるのではないかと思われる左側の土塁。延長は目測で大体50m弱という所でしょうか、竹林の奥の方明るい部分では両脇の土塁が消滅しています。
 西側の道路沿いの土塁と道路との間に平行している堀跡状の窪みを拝見していたときは「おう、なかなか遺構があるではないか」などと至って平静でしたが、この土塁の角部分と大規模な堀跡を見てかなり舞い上がってしまいました。
 ( 2005/06/27 撮影 曇時々晴 )
交通アクセス

・JR深谷駅より徒歩30分 MapFan Web の案内図です  


( 2005/06/27 撮影 )

■空堀の幅は上面では10mを超える大きさのように思います。右手(南側)の方には別の民家の宅地となっていますが、かつては外郭遺構として続いていたのではなかったかと思わせるような堀跡の規模です。
■西側の道路沿いには土塁跡延長30メートルほど高さ2m前後のものが宅地への通路のために2か所に分かれて残されています。
■北側の土塁の角部分ですが、屋敷林の樹木などが生い茂ってよく見えませんでした。
■館跡の西側の道路部分で、土塁と平行していることから一般的には堀跡であったと考えるべきかと。
■延喜式の神名帳に記載されている神社で、大正12年に旧県社となった由緒と格式のある楡山神社。祭神は伊邪那美命一柱。康平年間の源義家の奥州平定の時幡羅太郎道宗の長男成田助高が戦勝祈願をしたと伝わります。
■由緒のある神社で境内社だけでも、荒神社、天満宮、大物主神社、手長神社、大雷神社、八坂神社、伊奈利神社、知々夫神社と大正元年に合祀されたものも含めてこれだけ存在し、他に神として祀られているものに火産霊命、奥津比古命、天津児屋命などがあります。
■鬼門の方角に当たる館跡の北東側に所在する楡神社の西側の鬱蒼とした木立。
■埼玉県の天然記念物に指定されている樹齢1000年ともいわれる楡のご神木。
 
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