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内ケ島氏館
関連ページのリンク  2005/06/27の日記  皿沼城  庁鼻和城  岡部氏館           
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合24
所在地
埼玉県深谷市内ヶ島644他
歴史と沿革

猪俣党岡部氏から分かれた内ヶ島氏
 「内ヶ島」の地名は利根川の河川氾濫によって形成された微高地(自然堤防)の「淵が島」が訛ったものといわれているそうです。さて、「武蔵七党系図」などによれば、内ヶ島氏は一ノ谷の合戦で平忠度を討取ったとされる岡部六弥太忠澄と同族の猪俣党岡部氏から五郎国綱の時にこの地に居館を構え内ケ島氏を名乗ったとされています。館の広さについては約2町(2万平方メートル)程度と伝えられ付近に西郭、東郭、南郭などの小字名などが残されているそうです。
 その後系図では4代後までは記されていますが、その後については詳細が不明なようです。なお、この系図によればこの家系からさらに蓮沼に館を構えたとされる蓮沼氏を分家しています。なお、1987年に南側に所在する大寄小学校の改築に伴い発掘調査が行われたそうですが、中世の瓦が出土したものの関連する堀跡などの遺構は確認されていないということです。

確認できる遺構
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■国道17号線バイパスの北側に位置し、現在では北に小山川、東にに唐沢川、南に福川という小河川に囲まれた水田地帯の中央部分に所在しています。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」    

文化財指定
深谷市指定史跡 1958年11月3日指定
訪城年月日
2005/06/27
訪城の記録

( 2005/06/27 )
全く人気がない
 永光寺およびその周辺がが館跡とされていますが、深谷市が設置した指定文化財の標柱と深谷上杉氏顕彰会の説明版以外には館跡であったことを示すようなものはありません。また、こちらのお寺も現在無住のようで広い境内にはところどころに夏草が蔓延り、通路には蜘蛛の巣が張られて全く人気を感じさせない空間でしたが、立ち去ろうとした直前に道路の反対側に所在する墓地の墓参においでになった方を目撃しただけでした。

Best Shot?



 梅雨のさなかという湿度の高さもあるのかもしれませんが、どういうわけか時間が停止したようにも思える重たい空気を感じる境内でした。
 設定を変えて同じ構図で撮影した写真が何故か2枚とも樹齢数百年に達するのではないかと推定される椎の大木の左側にやや怪しげな光が...心霊スポット探訪にするつもりは毛頭ないのですが(^^;
 ( 2005/06/27 撮影 曇時々晴 )
交通アクセス

・国道17号パイパス内ヶ島交差点を北へ300mの永光寺を目指す MapFan Web の案内図です  


( 2005/06/27 撮影 )

■山門の形状と色彩も歴史の重みを感じると共になにか言い知れぬ重厚な雰囲気が...
■深谷市の史跡関係ではお馴染みの深谷上杉氏顕彰会の方々が設置された要領を得た説明版。
■高さが10m近くありそうな無縁仏の供養塔が境内に建てられていました。
■内ヶ島五郎国綱が醍醐天皇(在位は897から930年)の時代に当地に館を構え、紀伊国熊野権現の分霊を勧請し合わせて開基となった伝わる天台宗永光寺本堂。
 江戸時代の慶安2年には寺領として15石を幕府から下賜されています。
 
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