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人見氏館
関連ページのリンク  2005/06/27の日記  庁鼻和城  東方城  皿沼城           
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態7 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合30
所在地
埼玉県深谷市人見1514付近
歴史と沿革

鎌倉時代は人見氏の館、南北朝時代以降は深谷上杉氏の支城に
 「新編武蔵風土記稿」の人見村陣屋跡の記述によれば「村の中程にあり二町四方の規模を持ち、廻りに堀の跡が残っている。人見氏の居館跡と伝わるが、現在は畑と村民の屋敷地となっている」と記されていますが、現地を拝見した限りでは約200年後の現在でも南側を除いて大変良好な状態で空堀や土塁が残されています。
 深谷市の資料などによれば、人見氏は武蔵七党猪俣党の川匂政基の子六郎正経が人見の地に居館を構えて人見氏を称したことに始まるとされています。子孫は源平の合戦、宇治川の合戦、承久の乱などに活躍を見せるものの鎌倉幕府の滅亡と命運を共にします。
 室町時代には一族は丹波国高瀬郷に移り、15世紀の始め頃深谷上杉氏三代憲長の子憲武がこの館跡を改修して陣屋として使用したと伝えられています。現在残されている遺構はこの時のものと推定されています。したがって、正しくは「上杉氏館」または「人見城」というべきなのでしょうか。なお、周辺には伝承を含む「政所」「元屋敷」「馬場」などの地名が残されているとのことです。

確認できる遺構
土塁、空堀、郭
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■主城の深谷城から見て南南東約3キロメートルの距離に位置しています。現地の説明版によれば東西に並ぶ3か所の郭から構成され、東西約300m、南北約150mの規模を有したとされています。北側に所在する谷田の低地を天然の防御施設としているものと考えられますが、南側については細い用水路のようなものがあるものの、ほぼ平坦な地形が続いています。
 従って鎌倉時代の武士の館であるならばいざ知らず、南北朝以降の城郭としての防御要素の点で考えると余りにも弱体であるように思われます。館跡の付近には北側の水田を挟んで丘陵地帯が存在するとともに更に北東方向には浅間神社のある独立峰の標高98メートルの浅間山(別名を人見山、富士山とも)も存在しますのであえてこの地を選択することの必然性が見えてきません。
 また、深谷城の南側の守りと考えた場合にはその南側の備えが重要なはずですので更に疑問が深まります。なお、深谷城との間には前記の浅間山が存在するために直接的にお互いの存在が確認できる位置関係にもありません。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」
「埼玉県史第3巻」(1933/埼玉県)   

文化財指定
1934年3月31日指定 埼玉県指定史跡
訪城年月日
2005/06/27
訪城の記録

( 2005/06/27 )
説明版の個所は綺麗に整備
 HPなどの写真などで見る限りこの季節の訪城には余り向いていないようにも思ったのですが、北側の二重土塁の間の空堀もありがたいことに除草等が行われているようでお蔭様でしっかりと確認できます。また西側の竹林の中には想像以上に規模の大きな空堀も残されていました。
 館跡自体は北側に水田を望む台地上に所在しますが、南側は平坦地であり全く自然の地形の有利性がなく、武士の館を引き継いでいるとはいえかなり不利な立地条件のように思えます。また、城館の立地条件としてはこちらよりもはるかに北側の水田を挟んで反対側に所在する丘陵の方が恵まれているように思えました。
 問題は次の目標に向おうとして時に元の道をそのまま戻ればよかったものを、成り行きでどうにかなるだろうといい加減に道をとったところ、暫しの間方向を失って20分ほどタイムロスしました。おまけに近くの人見氏菩提寺の一乗寺の入口が分からず、周辺を更にぐるっと一周...自宅から深谷市内まで道路地図も確認しないで来れるようにはなったものの、やはり生来の方向音痴は改善されていないようです。

Best Shot?



 深谷市の中世城館跡は深谷上杉氏顕彰会の方々のご努力もあり、関連する遺構にはかなりの割合で説明版などが設置され非常にありがたいことです。
 この写真の個所は北側に当り深谷上杉氏当時のものと推定される深さ1.5m前後の空堀とその内外に二重の土塁が施されたものが残されています。
 ( 2005/06/27 撮影 晴時々曇 )
交通アクセス

・深谷市立藤澤小学校の北、浅間山公園の南西 MapFan Web の案内図です  


( 2005/06/27 撮影 )

■歴史的な経緯や縄張り図の掲載を含めてたいへん丁寧に解説された館跡の説明版。
■浅くなってしまった空堀跡も撮影する位置を低くすれば様子が変わりますが、二重の土塁がはっきりと続いて見えるのは説明版から約50メートルぐらいまでの地点のようです。ただし外側の土塁や空堀跡は正面に見える竹林の奥のほうまでが続いていることが外側からでも確認できますし、さらに竹林の中で土塁と空堀は90度南に折れて続いていました。
■北側の館跡と田植えの完了した水田の様子。水田の高さが水路に比べて高い位置にありますが、いずれにしても以前は深田を形成して天然の要害を兼ねていたものと考えられます。
■押切川の水路は近世以降に流路などの改修が施されているとも考えられますが、地形上必然的に自然の水路(川)があってしかるべき地形です。しかし寧ろこの館跡の北側に沿った小さな川自体の持つ防御性よりも水田も兼ねた低湿地としての意味の方が強かったのかもしれません。
■北側の二重土塁の部分を平行している道路側から撮影したもので良好な状態で遺構が現存していることが分かります。
■東側の館跡の様子。畑の一部が駐車場に転用されていますが、その境目にははっきりと空堀跡が残されています。ただし、以前が畑であったとすると後世に繰り返して根切の溝が施されていたのかもしれません。
■南側の館跡の様子。西の方は部分的に堀跡や土塁の現存が確認できます。
■南側からの遠景。このような平坦な地形が続いていますので防御性が重要となる城郭としては立地条件が問題となるのではないかと思われます。
 深谷市の資料によると1995年の農地改良事業に伴う確認調査ではこの近辺の西側隣接地で幅約4mの堀跡が確認されているとのことです。
■西側のやや薄暗い竹林の中にはこの全遺構中で最大規模の土塁と空堀が残されていて、この内側に相当する空堀の深さは平均でも優に2m以上の深さを有していました。
■北西側の水田の農道から眺めた館の北側部分。
■北側から眺めた人見氏館の全景。
■水田の北側に所在する丘陵地帯で、標高にして80m以上で周囲との標高差が15m以上はありますのでこの場所からは多分人見氏館を見下ろすことができそうです。
 深谷上杉氏の支城として人見氏館が機能するためには大きな障害の一つと思われるのですが。
■人見氏累代墓所の所在する時宗の一乗寺山門。
■人見氏とその墓所について、こちらにも丁寧な解説が記されていました。一乗寺は人見四郎泰国の開基、開山はかの有名な一遍上人と伝えられているそうですが。
■墓所の入口部分と指定史跡であることを示す標柱。
■五輪塔と板碑が人見氏累代の墓とされています。  ( 1960年11月3日 深谷市指定文化財史跡 )
 
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