( 2005/06/27 撮影 )
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■歴史的な経緯や縄張り図の掲載を含めてたいへん丁寧に解説された館跡の説明版。
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■浅くなってしまった空堀跡も撮影する位置を低くすれば様子が変わりますが、二重の土塁がはっきりと続いて見えるのは説明版から約50メートルぐらいまでの地点のようです。ただし外側の土塁や空堀跡は正面に見える竹林の奥のほうまでが続いていることが外側からでも確認できますし、さらに竹林の中で土塁と空堀は90度南に折れて続いていました。
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■北側の館跡と田植えの完了した水田の様子。水田の高さが水路に比べて高い位置にありますが、いずれにしても以前は深田を形成して天然の要害を兼ねていたものと考えられます。 |
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■押切川の水路は近世以降に流路などの改修が施されているとも考えられますが、地形上必然的に自然の水路(川)があってしかるべき地形です。しかし寧ろこの館跡の北側に沿った小さな川自体の持つ防御性よりも水田も兼ねた低湿地としての意味の方が強かったのかもしれません。 |
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■北側の二重土塁の部分を平行している道路側から撮影したもので良好な状態で遺構が現存していることが分かります。 |
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■東側の館跡の様子。畑の一部が駐車場に転用されていますが、その境目にははっきりと空堀跡が残されています。ただし、以前が畑であったとすると後世に繰り返して根切の溝が施されていたのかもしれません。 |
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■南側の館跡の様子。西の方は部分的に堀跡や土塁の現存が確認できます。 |
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■南側からの遠景。このような平坦な地形が続いていますので防御性が重要となる城郭としては立地条件が問題となるのではないかと思われます。 深谷市の資料によると1995年の農地改良事業に伴う確認調査ではこの近辺の西側隣接地で幅約4mの堀跡が確認されているとのことです。 |
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■西側のやや薄暗い竹林の中にはこの全遺構中で最大規模の土塁と空堀が残されていて、この内側に相当する空堀の深さは平均でも優に2m以上の深さを有していました。 |
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■水田の北側に所在する丘陵地帯で、標高にして80m以上で周囲との標高差が15m以上はありますのでこの場所からは多分人見氏館を見下ろすことができそうです。 深谷上杉氏の支城として人見氏館が機能するためには大きな障害の一つと思われるのですが。 |
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■人見氏とその墓所について、こちらにも丁寧な解説が記されていました。一乗寺は人見四郎泰国の開基、開山はかの有名な一遍上人と伝えられているそうですが。 |
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■五輪塔と板碑が人見氏累代の墓とされています。 ( 1960年11月3日 深谷市指定文化財史跡 ) |
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