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アクセスありがとうございます。 学術的な城館遺構ではなく主に「素人の思い込みと勘違い」によるものです。
関連ページへのリンク ’06/12/01のブログ 羽尾平中沼 羽尾愛宕山 羽尾堀の内 羽尾五厘沼 水房館 岡部氏陣屋 福厳寺
所在地
埼玉県比企郡滑川町
遺構まがいの地形
段差のある畑がなかなかの見ごたえ
城館遺構の可能性
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

北東方面の眺望は良好
 市野川の北岸に位置するものの、寧ろ「滑川」との中間地点に所在し南側にはより標高の高い丘陵地帯が続いているため、市野川方面の眺望は全くありません。 北東方向の滑川や県道47号線方向並びに、山田城方面が眺望できるものの、どちらかといえば「遺構もどき」さえ余り縁のなさそうな立地条件ですが、一見「この地形は...」と思わせるような見事な段々畑であります。一段目の最大比高差は4mほどで、その上に1mから1.5mほどの2段目の畑も所在しています。戦前の蚕の餌となる桑の栽培或いは戦前・戦中の食糧増産に関連するものかもしれません。なお、このあたりは「新編武蔵風土記稿」「滑川村史」などによれば、2千石を領した徳川家旗本岡部太郎作(岡部玄蕃頭藤原元親とも 元和2年/1616-死去)の陣屋跡と推定されている慶徳寺の南東600mほどの地点です。

訪城年月日
2006/12/01
訪城の記録 記念撮影

( 2006/12/01 )
段差の目立つ畑の真相
 よくよく冷静に考えてみると、この丘陵地帯は市野川の北岸に位置するものの、寧ろ「滑川」との中間地点に所在。なおかつ以前から民家が建ち並ぶ町道が縦断するという地形
。このため、滑川や県道47号線方向並びに、山田城方面が眺望できるものの、どちらかといえば「遺構もどき」さえ余り縁のなさそうな立地条件。 妄想が高じて、正しく闇雲に勢いで資料収集してしまったとしか言いようのない場所にて(汗)
 しかし、思いがけなく「大きな段差を有する畑」「どう見ても新しい石積み」「民家脇の小さな土塁状の地形」など、今後、本来の「遺構」および「遺構もどき」を捜索するにあたり「学習教材」となりそうな幾つかの光景に遭遇。 してみると、これはこれでそれなりに所謂ひとつの成果ではないかとも思う次第なのでありました。(屁理屈の極みにて)


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比高差のある段々畑
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( 2006/12/01 撮影 )
訪城アルバム
■1■南側にも段差が
 自然地形そのままだと北側斜面となることから、大規模な造成を加えてこのような日当たりのよい地形を創出したものと考えられます。
 しかし南側のこの1mほどの段差は、耕作上一体どのような役割・意味を持っていたのかについては今のところ全く理解できていません。
 なお、ほぼ同様の地形は中尾寺沼北西丘陵にも所在しています。
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■2■西側の舗装道路からから畑へ登る農道
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 恰も堀切状の地形を連想させてくれる農道で、写真の左側中段の小さな石碑は「5」の馬頭観世音。 少し登ると「3」の石垣の土留めがあり、その反対側には「4」の新しそうな土塁状の地形がが所在します。
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■3■一応「石垣」であります。
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 しかしどう見ても新しい石垣のようで、加えて機械加工したような跡もあり、苔は生えているものの何れにしても百年とは経過していない代物のようです。畑の南側で地道に土留めのような役割を掌って居りました。
 ちなみにこの場所は下記「土塁まがい」地形の農道を挟んだ反対側。
 最近「怪しげな遺構紛い」ばかりを目にしていることもあり、中世城館の「遺構紛い」の地形などの特集を企画すると、なかなか面白そうな気がしてきた...そんな契機ともなった地点です。
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■4■一応は「土塁」です。画像クリックで拡大
 中世城館に関連する可能性はまずなさそうな近世以降の風避けのためのようなものかと。樹木の太さから推定するとおよそ100年から150ほど以前から存在している印象。 規模は高さ約1m、幅約2m、長さおよそ15mほど。緩やかな南側斜面の北西から南東方向にのびており、北風を防ぐ大きな常緑樹ががっしりと根を張っていました。 
 然し、やや困ったことに東側の道(画像の左側)が恰も堀跡状の地形を呈している様に見えたりします。然し冷静に観察すればこちらの通路兼畑の根切りのようなものかと思われる次第..
■5■馬頭観世音
 「2」の画像の左側中ほどに写りこんでいる文化4年の紀年銘のある簡素なつくりの馬頭観音の石碑。 一般に古いものほど頭に馬の首を冠した馬頭観音像が多いのではないかと思われます。 本来は天台密教の六観音のひとつで別名を大力持明王、馬頭金剛明王とも。 「馬頭」の名称は衆生の苦悩を喰らい尽くし、従わぬものを蹴散らし、衆生の悟りを成就させるという意味とのこと。
 近世以降の民間信仰では馬の守護神とされ愛馬の冥福を祈るために建立されたものとされています。  (「民間信仰辞典」東京堂出版 より)
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■6■中尾の中沼
 西側の上流から「上沼」「中沼」「下沼」と一直線上に並んだ真ん中の「中沼」。12月の始めという季節にも拘らず些か透明度に欠ける感じで、落ちるとまさに泥沼のような印象でありました。段々畑の所在する丘陵からこの沼池のある個所へは急坂を下ることになり比高差はおよそ20mを超えるようです。
交通案内

・中尾の雷電神社西側の丘陵地帯。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 


凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など 

・2007/01/16 HPアップ

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