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関連ページへのリンク 2006/11/25のブログ 羽尾千躰地蔵裏山 五厘沼遺構 高屋敷沼東側丘陵 羽尾堀の内 愛宕山
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合25
所在地
埼玉県比企郡滑川町羽尾裏郷1480付近
歴史と沿革

武田氏の武州松山城攻めで焼失した中世寺院蹟と推定
 「滑川村史」の中世寺院蹟の記述によれば、「福厳寺蹟 新編武蔵風土記稿・羽尾村の項に載る寺で、永禄5年北条氏康、信玄」の応援を得て松山城(越後上杉勢力の支配下)を攻落せし時武田軍の兵火により廃寺となった寺で、享保15年の設楽家文書により、その位置が判り発見できた。大字羽尾の表部落のうち小名天神前の丘陵上に位置し、北西に土塁を廻らし眺望よく中世寺院の特色を示している」と記されています。
 なお、一方「同書」の中世概説では、新編武蔵風土記稿の記述を紹介し、「享保13年の『設楽家文書』に記載されている『表村福言寺』を小字天神前の丘陵上の山中に見られる平場がこの寺跡と考えられる。福厳寺は、永禄年中(1558-70)の松山城をめぐる戦いの余波を受けて焼失したものと推定される」としています。しかし、この享保13年という表記については、あくまでも「設楽家文書」(「滑川村史調査資料 第4集」)を参照する限りでは明らかに享保15年の誤りであるものと考えられます。
 いずれにしても同寺の焼失は天文15年(1546)の川越城を巡る後北条氏と両上杉、古河公方連合軍の戦いに後北条氏が勝利したのち、越後上杉氏の関東侵入に始まり武田氏、岩付城主太田三楽斎資正、これに対抗する後北条氏が複雑にからんで松山城をめぐり争奪戦が行われた永禄年中の出来事と推定されます。

確認できる遺構
土塁、ことによると空堀も?(あくまでも儚い希望)
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

かつては、土塁が
 ザルガヤ戸沼南側の丘陵地帯の更に西側に所在し、よくよく考えれば先日訪れた「羽尾五厘沼の遺構」の直ぐ北東約250m程の位置に隣接して所在する丘陵地帯です。 地理的な関連性からはこの2か所の「中世寺院跡」と「城館遺構紛い」は何らかの具体的関係を有しているという可能性も十分に想定されます。しかし残念ながらそのことを立証する具体的材料が全く見当たりません。 また、資料によれば「土居(土塁)が所在していた」ことも明記されています。(「滑川村史 通史編」「埼玉の中世寺院跡」)

文化財指定
訪城年月日
2006/11/25
訪城の記録 記念撮影

( 2006/11/25 )
たまには多少なりとも歴史との関わりのある場所も
 永禄年間の武州松山城の争奪を巡る越後上杉氏と後北条氏、これに助勢した武田氏の戦いの余波を受けて焼失したと伝わる中世寺院跡。 通常は「無名に近い城館跡」や「城館跡もどき」ばかりを訪れているので、兵火にあって廃寺となった寺院跡とはいえども、たまにはこのような由緒のありそうな所も訪れねば...
 ザルガヤ戸沼南側の丘陵地帯の更に西側に所在し、よくよく考えれば先日訪れた「羽尾五厘沼の遺構」の直ぐ北東約250m程の位置に隣接して所在する丘陵地帯なのでありました。 資料によれば「土居(土塁)が所在していた」との伝承も記されています。
 高屋敷沼の近くに駐車して、東側の明瞭な道を西へ200mほど進むと、恐らく福厳寺の寺跡と推定される平場へと到着。 この個所から道は三叉路となり、南側の道は「五厘沼南の羽尾裏郷の遺構」へと続き、北側の道は途中で篠竹の鬱蒼とした茂みで消失。 このため、取り敢えずは元の明瞭な里道をそのまま更に西進。 下り坂の途中ではかなり以前に伐採されたと思われる樹木が里道を塞ぎ、そのまま腐食しているため枝は折れる足首はもぐるといった按配にてトレッキンクシューズ装備でも歩きにくいことこの上なし。
 「土塁、土塁、土塁...」と一人でぶつぶつと呟きながら、周囲の地形を凝視しつつ坂道を下っていく姿はよくよく考えれば我ながらかなり不気味な印象...そうした中で、やっと北側の篠竹の藪の中に僅かばかりの地面の盛り上がりを確認。 藪に突入して念のために撮影してみたものの、やはり篠竹の藪に埋もれて全体の様子を把握するに至らずじまい。 恐らくはかなりの確率で自然地形のような印象も拭い去れず...
 そうした中で、北側の灯篭沼側から眺めた丘陵地形は、中世寺院跡とはいえ何処とはなしに中世城館跡にも通じる佇まいを感じさせてくれる印象なのでありました。


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中世城館の印象もある「福厳寺跡」(北西側の町道より)
( 2006/11/25 撮影 )
訪城アルバム
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■1■「高屋敷沼」 画像クリックで拡大
 それほど大きな沼池ではないのですが、堰堤部分以外に樹木が密生していることから、エメラルドグリーンの沼の水がとても印象的な風合いを演出していました。福厳寺の所在する丘陵南東の麓に所在しています。
■2■東側からの登坂
 如何にも何もなさそうな予感のするごくありふれた農道のような丘陵の里道を西進。 比高差15メートル前後と思われる緩やかな坂道を約150メートルほど進むと、「3」の幾分開けた印象のある平坦地へと到着します。
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■3■寺院跡と思われる平場 画像クリックで拡大
このまま真直ぐに進めば「五厘沼」と「灯篭沼」の間を抜けて舗装された町道へ。右手に進むといくらも進まないうちに、篠竹の藪に完全に進路を阻まれてしまいます。
 また、左側の枝に道が塞がれたルートを南西に進むと五厘沼の南東部の峠状の個所に出られるはずですが...余り意味が無いものと解され素直に諦めました。
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■4■「土塁風の地形か?」 画像クリックで拡大
 高さ約1m、底幅3m、長さおよそ10mくらいの規模はありそうにも見えるのですが、何分にも篠竹の藪が酷いので撮影のポイントどころか、足の踏み場さえも見当たらない次第です。 この手前の部分が堀跡といえば言えなくもないのですが、地面の様子が全く判然としないのでありました。
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■5■南西側の「五厘沼」 画像クリックで拡大
 歴史の古い一際規模の大きな「五厘沼」の北側からの光景ですが、「水の手」であるとともに比高差20m以上で斜面の傾斜がきつい谷津の存在は、単なる古代からの潅漑池以上の存在感が伝わってきます。
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■6■北西側の斜面と用水路 画像クリックで拡大
 灯篭沼北東の「福厳寺跡」から北へと伸びる丘陵先端部分と用水路。 右手前部分が灯篭沼の堰堤ですが、何とこの直ぐ近くには管理人のもうひとつの趣味との関わりの深い「知る人ぞ知る某オーダーメイドのS管楽器工房」が所在していました。 ご多忙の様子でしたので、遠くから拝見したのみにて退散を。 「Y社」(ピアノも製造)「M社」(世界の..)「S社」(入間市)「M社」(朝霞市)「K&F社」はすでに制覇(工場見学)済み...って、関心の無い人には全く不明な話題なのであります。
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■7■福厳寺北西の「灯篭沼」 画像クリックで拡大
 このときはまさに「沼池」のはしご状態。 そのうち「滑川町沼池百景」などと銘打ってHPのへ編集をしてみようかなどと、半ば本気になって考える管理人なのでありました。
 沼の名の謂れは興長寺の縁日に灯篭が建ち並んで夜景が美しかったことから名づけられたとのこと。(「滑川村史 民俗編」より)
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■8■興長禅寺の紅葉 画像クリックで拡大
 廃寺となった福厳寺北西僅か約250mに所在する萬勝山曹洞宗興長禅寺。文禄年間から知行していたと推定される徳川家旗本の加藤喜左衛門正次が開基とされ孫の正之の代より同氏の菩提寺となり一族の宝篋印塔が所在します。
 加藤喜左衛門正次は姉川の合戦、長篠の合戦でも活躍し、家康の関東入府に際しては比企郡と、上総望陀郡に合計2千石を領したとされています。(「滑川村史 通史編」)
交通案内

・曹洞宗興長寺、灯篭沼南東の丘陵地帯。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 比企郡羽尾村の項に「福嚴寺蹟 坤(ひつじさる=南西)」の方にあり、天正年中武田信玄此邊へ働らきし時、兵火の為に烏有となり(戦火にあって焼失した)、遂に廃すと云、此説まことならんにも、天正とは誤りなるべし、永禄年中のことならん」と記されています。この合戦については、三方原の合戦や信玄の没年から考えて、永禄5年に北条氏康が武田信玄の助力を得て上杉方の武州松山城を攻略した際のものと推定されます。(「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」「滑川村史 通史編」などより)
■武蔵志
 比企郡羽尾村の項に「福厳寺跡 此ハ 天正年 甲斐信玄軍押ノ節兵火」と「新編武蔵風土記稿」とほぼ同様の記述がなされています。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史 通史編」(1984/滑川村編集発行)・「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村の沼とその民俗」(1981/滑川村村史編纂室)
「埼玉の中世寺院跡」(1992/埼玉県教育委員会) 

・2007/01/06 HPアップ

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