市町村別の城館跡の目次 トップ頁へ戻る サイトの趣旨 城館跡の目次 「ほっつきブログ」へリンク
参考資料等 リンク集
PAGEの先頭 PAGEの最後 管理人へメール 「城館遺構まがい」を集めたPAGEへリンク

アクセスありがとうございます。     素人の趣味ですので不備や間違いなどが相当あると思います。     もしお気づきの点がございましたらご教示ください。  
関連ページへのリンク 2007/01/08のブログ 2004/10/07の日記 羽尾城 福厳寺跡 五厘沼の遺構 愛宕山 羽尾千躰地蔵
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯1 印象3 総合25
所在地
埼玉県比企郡滑川町大字羽尾字堀の内 羽尾神社周辺
歴史と沿革

青鳥城主藤原恒儀を祭神とする神社
 記録はおろか城館としての伝承さえも無いようですが、堀の内という地名が残されていることから館跡ではないかと考えられているものと思われます。「滑川村史」には具体的な記述がありませんが、その地名から「羽尾堀の内」といわれているようです。 また、別名「羽尾館」と呼ぶ場合もあるようですが、羽尾金光寺地区に所在する「羽尾城」を「羽尾館」と呼ぶことももあるため些か紛らわしくなっています。
 同地に所在する羽尾神社の説明板(「新編武蔵風土記稿」の羽尾村の恒儀社の記述を引用したものと推定)によると、同社は日本武尊とともに青鳥判官として東松山市に所在する青鳥城主と伝わる藤原恒儀(ふじわらのつねのり)を祀り「恒儀様」(こうぎさま)とも呼ばれて村人の尊崇を集めたとされているとのことですが、多分に伝承の要素が強くその真偽の程は定かでは無いようです。

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

各所に中世城館跡の匂いが
 周囲には至るところに洪積台地の舌状先端部分が点在する風景が広がっています。金光寺の「羽尾城」からは北西約1.2kmに所在し、北約1.5kmには山田城が所在しています。
 羽尾地区は福田地区と並んで滑川では歴史的も古く且つ大規模な集落で、中世においてもこの辺りの中心地を形成していたものと考えられます。南北を市野川と滑川に挟まれた比企丘陵の北端部に相当し、この地域の各所に中世城館跡が確認されてもさほど不思議ではなさそうな印象です。
 羽尾神社の境内からは尾根続きの南側を除いて水田地帯の見晴らしが利き、遺構の可能性がある空堀は西側の社の裏側部分に所在しますがあまり目立ちませんが、斜面の傾斜に従って北に下り東西方向に伸びる小さな水路へと繋がっています。堀の深さは1メートルから水路と繋がる部分で1.5メートル程度、堀幅は上面で4m前後、延長は50mほどです。神社の南側には民家が所在していますが、元々は稜線を横断し堀切のような形になっていたと考えることもできます。

文化財指定
訪城年月日
2004/10/07、2007/01/08
訪城の記録 記念撮影

( 2004/10/07 )
迷わず行ける数少ない城館跡
 此処は家内の親類がすぐ近くに居住し、加えて「羽尾七騎」の従者の苗字にその姓が見えるという相当に縁がある場所であります。したがってこの場所だけは、すでに何度か通っていたこともあり絶対に間違えようがないのでありました。 
 社殿西側の空堀の遺構についてはかなり規模が大きいので雨水の排水路とは思えませんが、中世城館の遺構かどうかについては確信が持てません。また土塁については北側の水路部分にそれらしい跡もあるように見えますが、神社の建立・改築の際に相当手が入っている可能性がありますので判断に迷う所です。

( 2007/01/08 )
大型ショッピングセンターが..
 この場所を訪れたのは、もう2年以上前のことになってしまいました。 羽尾神社本殿の西側に堀跡状の遺構らしきものを目にして無邪気に喜んでいた当時が懐かしく脳裏に浮かぶ次第であります。 当時はさしたる中世城館遺構であるとの確証のないままに、関係図書などの記述を唯一の拠り所としていたのが実情なのでありました。 中世城館跡としての根拠は、地名として「堀の内」との小字名が残されていること、空堀と推定される「溝状地形」が遺されていること、および羽尾神社の所在する低位丘陵が在地支配の拠点として地形的に相応しい印象のあることなどによるものと考えられます。
 その後何とか300ヶ所以上の県内の様々な中世城館跡を彷徨してきた体験に基づいて改めて観察すると、空堀遺構とはいってもやはり神社の造立・普請などによるものかも知れないという点で多少の疑問も介在する余地がありそうです。 確かに人工地形であることは間違いのないものの、その時代背景を含めて近世地誌にも記される金光寺の羽尾城などの明確な二重土塁遺構などの存在に対比する限りでは幾分心許ない印象が。
 また、以前は西側の空堀状の地形と接続していることから、単純に堀跡遺構に関連するとものと憶測していた経緯のある丘陵北側の水田との境界部分に所在する水路についても、果たして用水路なのか堀跡遺構なのか益々分からなくなってきたという誠に情けない次第であります。 その一方で、この個所よりも遥かに中世城館跡に相応しいような無名の個所をその周囲に確認していく中で、この「堀の内」の存在を捉えなおしてみると、やはり「羽尾七騎」と称された在地小領主階層との関連が改めて浮上してくるのでありました。
 さて、この間に神社の由来を記した解説版もまた一段と風化して文字が読みづらく変貌中ですが、羽尾神社の所在する丘陵先端部は熊谷、江南方面へ抜ける現在の熊谷松山有料道路、県道47号線の往還を見通すことのできる地理的条件を有するのどかな田園地帯であることを改めて確認できました。 然しその田園風景も昨年(平成18年)のカインズホーム、ベイシアなどの大型ショッピンクセンターが北東400m地点に開店したことに伴い大きく変貌してしまいました。


クリックで拡大します
「堀跡」か「用水路」か判然としない北側の台地と水田の境部分
画像クリックで拡大
( 2007/01/08 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで羽尾神社の解説版へ
■1■東側からの遠景
 画像「4」の水路がこの右側の明確かつ本格的な用水路にそのまま繋がっています。
 戦国時代においては武州松山城主上田朝直の支配下に置かれた「羽尾七騎」と呼ばれる山崎若狭介、小林丹波、増茂因幡、町田帯刀、泉水淡路、倉林刑部左衛門、清水甚四郎(「羽尾七騎由来書」小沢家文書より)などの在地領主らとの関係も想定されますがそうした経緯を示唆する史料は確認されてはいないようです。
画像クリックで羽尾神社の現地解説板へ
画像クリックで拡大します
■2■羽尾神社の石碑 画像クリックで拡大
 「埼玉県神社明細帳」によれば、大正2年に冨士塚浅間神社、天神前の天神社、西打越の稲荷神社、唐子の琴平神社、一天具の愛宕神社、大正4年に御嶽愛宕神社を始めとした多くの神社が合祀されています。 神職は当地の旧家設楽家により世襲されているとのことです。
画像クリックで拡大します
■3■堀切のような空堀 画像クリックで拡大
 人工地形であることは間違いのなく、その時代背景を含めて金光寺の羽尾城などの明確な二重土塁遺構などの存在に比べるとやや心許ない印象がですが、勿論雨水の排水路ではないようです。
 社殿裏の西側に所在しているため周囲からは余り目立つことなく、台地の傾斜に従って北に下り東西方向に伸びる小さな水路へと続いています。深さは1mからで1.5mほど、堀幅は上面で4m前後、延長は約50mです。 神社の南側には民家が所在していますが、元々は稜線を横断し堀切のような形になっていたと考えることもできます。     
画像クリックで別の角度から
■4■北側の水路 画像クリックで別の角度から
 「堀跡」か「用水路」か判然としない北側の台地と水田の境部分に所在する地形で、現状では水深はおよそ30cm、幅約1m前後という小規模なものであります。ただし平行する道路はこの水路部分から4mほど離れていますので、本来は道路の辺りまでの規模であった可能性もあるかも知れません。
 なお、画像の右側の部分に「3」の空堀地形が途中から水路となって繋がっています。
画像クリックで拡大します
■5■北側からの遠景
 台地そのものについては水田からの比高差は20m前後を測りますが、羽尾神社の所在する中腹は6m程度の比高差に過ぎません。
 なお、右側に見える丘陵地帯には戦国時代の武州松山城をめぐる攻防の際に武田勢の兵火に遭って消失したと伝わる「福厳寺跡」が所在しています。
交通案内

・国道254号線から県道47号線を熊谷方向に向かい北上し、東武東上線の陸橋の先の羽尾南の交差点を左折。市野川橋を渡りそのまま道なりに1.2kmほど進んでいくと消防署のある二叉路の信号に出ます。これを道なりに左折し200mほど行くと右手に須沢自動車という看板が見えるので、少し手前の幅4メートル足らずの水田の中の道路を左折すると約200m右手前方に推定地とされる小高い羽尾神社の森が見えます。 徒歩の場合には森林公園駅から約20分ほどの距離です。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 羽尾村の項には堀の内の館跡に関する具体的な記述はありませんが、現在の羽尾神社について「恒儀社 村内の産神なり、土人の話に當社は、青鳥判官藤原恒儀の霊を祀る所なり、恒儀は天長6年(829年)9月20日卒せし人なり、今隣村石橋村の内、字内青鳥と唱うる地に、恒儀の住せし城蹟(青鳥城を指す)というものあり...」との伝承を記しています。これらの記述についてはあくまでも伝承の域を出ないものと考えられ、「東松山市史 資料編第1巻」においても青鳥城の築城が9世紀の始めまで遡ることはなく早くとも平安末期であろうとして、青鳥判官藤原恒儀の実在を含めて羽尾堀の内の館跡としての謎が深まります。
■武蔵志
 羽尾村の項に「恒儀 此は天長6年9月20日卒去せし青鳥判官藤原恒儀の霊社の由..」と、ほぼ同様の記述が見られますが館跡についての記述はありません。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)・
「東松山市史 資料編第1巻」(1981/東松山市)
 

・2007/03/19 HPアップ

PAGEの先頭 PAGEの最後 管理人へメール 工事中