2007/01/08のブログ 2004/10/07の日記 羽尾城 福厳寺跡 五厘沼の遺構 愛宕山 羽尾千躰地蔵 | ||
おすすめ評価 |
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埼玉県比企郡滑川町大字羽尾字堀の内 羽尾神社周辺 | |
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土塁、空堀 | |
周辺の地理的特徴 |
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無 | |
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2004/10/07、2007/01/08 |
画像クリックで拡大 ( 2007/01/08 撮影 ) |
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・国道254号線から県道47号線を熊谷方向に向かい北上し、東武東上線の陸橋の先の羽尾南の交差点を左折。市野川橋を渡りそのまま道なりに1.2kmほど進んでいくと消防署のある二叉路の信号に出ます。これを道なりに左折し200mほど行くと右手に須沢自動車という看板が見えるので、少し手前の幅4メートル足らずの水田の中の道路を左折すると約200m右手前方に推定地とされる小高い羽尾神社の森が見えます。 徒歩の場合には森林公園駅から約20分ほどの距離です。 |
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凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿 羽尾村の項には堀の内の館跡に関する具体的な記述はありませんが、現在の羽尾神社について「恒儀社 村内の産神なり、土人の話に當社は、青鳥判官藤原恒儀の霊を祀る所なり、恒儀は天長6年(829年)9月20日卒せし人なり、今隣村石橋村の内、字内青鳥と唱うる地に、恒儀の住せし城蹟(青鳥城を指す)というものあり...」との伝承を記しています。これらの記述についてはあくまでも伝承の域を出ないものと考えられ、「東松山市史 資料編第1巻」においても青鳥城の築城が9世紀の始めまで遡ることはなく早くとも平安末期であろうとして、青鳥判官藤原恒儀の実在を含めて羽尾堀の内の館跡としての謎が深まります。 ■武蔵志 羽尾村の項に「恒儀 此は天長6年9月20日卒去せし青鳥判官藤原恒儀の霊社の由..」と、ほぼ同様の記述が見られますが館跡についての記述はありません。 |
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林) 「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県) 「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県) 「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県) 「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店) 「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など 「滑川村史」(1984/滑川村編集発行) 「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室) 「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)・ 「東松山市史 資料編第1巻」(1981/東松山市) ・2007/03/19 HPアップ |
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