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関連ページへのリンク  2006/11/18のブログ 小瀬戸城 岡部氏館 三門館(和泉陣城)
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯3 印象3 総合27
所在地
埼玉県比企郡滑川町大字中尾字加田
歴史と沿革

旗本岡部氏の陣屋跡
 「新編武蔵風土記稿」「滑川村史」などによれば、2千石を領した徳川家旗本岡部太郎作(岡部玄蕃頭藤原元親とも 元和2年-1616-死去)の陣屋跡と推定されているようです。岡部氏は藤原氏系13家、小野道風系5家があるとされますが、この岡部氏は一ノ谷合戦で平忠度を討取ったとされる岡部六弥太の系譜とは別系統と考えられます。近世初期の「正保田園圃」によれば水房村の領主として岡部外記の名が記されていることからこの一族に関連するものと考えられているようです。
 しかし、安永元年(1772)にその子孫である徳五郎の代に不祥事により所領没収により収公され、その後は天領および旗本の猪子氏、肥田氏の相給となり幕末に至りました。 なお、岡部氏の所領である中尾村、太郎丸村は寛文5年(1665)の検地により水房村から分村されています。

確認できる遺構
物見台?空堀?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

三方が丘陵に囲まれた谷津の奥
 西側は薬師堂の所在する比高差10m近い丘陵、北側・東側もこれら連なる丘陵地帯に囲まれた地形で、加えて南東には満々と水を湛える「寺沼」が所在するという地形。  現在の慶徳寺の境内付近に戦国時代末期から近世初頭にかけて岡部氏の陣屋が置かれたものと推定されていますが、稜線部分に近いとはいえより比高差のある北側の稜線部分の備えに関してはいまひとつ理解しがたいものがあります。

文化財指定
訪城年月日
2006/11/18
訪城の記録 記念撮影

( 2006/11/18 )
曹洞宗慶徳寺
 同日に訪れた「五厘沼」「」羽尾大沼」「羽尾愛宕山」などの3ヶ所とは明らかに異なり、中興開基とされる旗本2千石岡部氏の陣屋跡との伝承と遺構らしき存在が待される曹洞宗慶徳寺の境内地にて。 このため所在地そのものを捜索するような不安材料も全くなく、ある意味ではとても気楽な反面、思いがけない遺構との遭遇などの意外性を欠く...などと贅沢な悩みも。
 寺院の山門前の空きスペースに駐車し、境内の東側に所在する「加田の寺沼」から画像収集開始。 さて薬師堂の所在する台地は比高差8mから10mほどの規模を有し、結果的に水田面からの比高差は最大20m近くとなる個所も確認されます。 薬師堂の奥には高さ3mほどの櫓台状(物見台)の人工地形らしき塚の上に小祠が所在。 本堂などの境内地は三方を沼池と台地に囲まれた地形。 「滑川村史 民俗編」などによれば、「本堂が本丸で薬師堂が二の丸」などという伝承が記されているものの、現状の地形からは薬師堂の所在する高台付近を別にすると陣屋の遺構か寺院の建立に伴うものか判断しにくい地形です。
 然し一方では、境内地の北西方向には郭状の地形を有した畑なども所在することから、飽くなき妄想は何処までも果てしなく広がって行くのでありました。

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滑川町指定文化財の寄木造の「四天王像」が安置されている
慶徳寺四天王門(総門)
( 2006/11/18 撮影 )
訪城アルバム
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■1■寺沼 画像クリックで拡大
 陣屋跡と推定される曹洞宗慶徳寺の南東に所在し、この方向からの接近するものを寄付けない配置となっています。
 なお沼池が整備されたのは、「滑川村史 民俗編」によれば陣屋が普請された時期であるとの伝承が記されています。現在でも多少の蓮が見受けられますが、戦前には蓮が密生し多くの魚が生息する放生池となっていたそうです。
■2■慶徳寺本堂
 「境内地は城郭の如くであり、本堂は本丸、薬師堂、墓地は二の丸にあたり、鐘楼堂は物見にあたり、裏手は森林、南にはカラ堀があり、東に寺沼を造り、防御に役立てたものともいう」との伝承が記されています。(「滑川村史 民俗編」)
 しかし、全体として寺院の建立などに伴うものか、陣屋に関するものなのかについてその判別が難しい「遺構」です。
■3■鐘楼の西側の「遺構」
 境内の西側に所在する幅1間弱ほどの「堀」で、周囲の地形条件から雨水の排水のための施設であることは間違いのないところ。 後世に改修されていることは明白ですが、本来的に何時の頃からのものであるのか、また寺院に関するものか陣屋に関するものか不明です。
 「新編武蔵風土記稿」中尾村の項では、この慶徳寺の鐘楼の梵鐘は延享5年(1748)に岡部玄蕃允が寄付したことが記されています。
■4■境内北側の排水路
 三方が丘陵に囲まれた谷津の最深部に所在するために、「寺沼」が満々とした水を湛えていることからも推察されるように、境内の雨水の排水には大分苦労した様子が窺がわれ、各所にこうした雨水の排水設備としての堀跡状の地形が多く目立ちます。陣屋として利用されていた当時も同じ立地条件のはずですが、何時頃からのものであるのかについては何ともいえないところです。
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■5■境内北側の石積み 画像クリックで拡大
 近世初期に遡るというほどには古いものではなさそうですが、歴代住職の墓所の所在する削平地の西側に所在していました。高さは1m強で延長10mほどの規模で、北側からの土砂の流入を防ぐ土止めとして築造された模様ですが、些かやっつけ仕事の趣も...
 この北側に所在する以前は桑畑と思われる個所が、実に何とも不思議な形状を呈していました。
■6■薬師堂西側の丘陵
 墓石は正徳、宝暦年間の一般民衆のもの。「8」の画像の塚の西側部分で、この場所からは大立山方面と手前の水田地帯の低地を睥睨することができます。
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■7■画像クリックで拡大
 西側に下る急坂の小道は、恰も付近に所在する「三門館」の竪堀にやや似た地形にも見えますが、常識的に考えれば集落との位置関係などから耕作などのための農道と考えるべきかと思われます。規模は概ね幅1間、深さ1メートル前後、延長50mほどでした。
■8■薬師堂北西の塚と小堂宇
 裏側から見ると最大比高差が3m近くあり、物見台としては絶好の条件のようですが、現在は草木が叢生していて見通しが全くありません。見方によっては古墳の円墳などのようにも見えますが。
薬師堂の現地解説板へ
■9■眼病に霊験あらたかな薬師堂 画像クリックで現地解説板へ 
 本来は慶徳寺の本尊であったが怪異な事件のためこの地に遷移され、また本尊である薬師如来は行基の作と伝えられ秘仏とされているとのこと。加田(がだ)の薬師と俗称され眼病に霊験あらたかといわれました。
 「武蔵志」に記された伝承によれば、「寺沼」には人の眼病の身代わりとして隻眼のフナが多いとのことで村人は魚を獲ることは無かったとのこと。
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■10■山茶花 画像クリックで拡大
 薬師堂の手前の解説板のところに咲いていたもので、やや見ごろの時期を過ぎてはいました。 けれども幾分光沢さえも感じられる絹のような肌触りを想起させるこのサザンカ...人気の全く無い堂宇の周辺に清楚な気品を漂わせていました。
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■11■南側の「堀底道」のような里道 画像クリックで拡大
 見方によっては「空堀跡」のようにも見えなくも無い薬師堂へと通じる里道です。道幅が狭く急坂なので軽トラックぐらいしか走行できません。滑川町の名前でこの先車両通行止めと書かれた看板が立てられていました。
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■12■薬師堂向拝の天井画 画像クリックで拡大
 中武蔵寅薬師72番札所。薬師堂内には薬師本尊のほか日光・月光の両菩薩を始めとして、十二神将の木像も安置されているとのことです。
 堂宇は幾度と無く建替えられて、現在のものは元禄14年(1701)に建立されたものですが、軒裏とはいえ長年の風雨に晒されているにも拘らず格天井の極彩色の花鳥図がとても見事な印象でした。
交通案内

・曹洞宗慶徳寺境内を含む周辺
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 比企郡水房村の項に「..御入国の後岡部太郎作に賜り、寛文5年検地せしが子孫徳五郎の時、安永元年罪ありて収公せられ..」と記されています。また、水房村枝郷中尾村の項には古くは岡部氏の所領であったことが記され、慶徳寺について「..開山中孚淳異は天文18年(1549)12月5日寂す、後當所の地頭(領主)岡部太郎作中興し、元和2年(1616)6月4日卒す..」という記述が見られます。また、鐘楼については「延享5年(1748)時の地頭岡部玄蕃允寄付せる鐘をかけり」との記述があります。
■武蔵志
 松山水房庄中尾村の項に慶徳寺の記述に関連して「御旗本岡部太郎作法名南叟浄薫 元和2年6月4日死 当寺に葬りてよりその子久太郎..代々の墓あり..」と記されています。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史 通史編」(1984/滑川村編集発行)・「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村の沼とその民俗」(1981/滑川村村史編纂室) 

・2006/12/30 HPアップ

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