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アクセスありがとうございます。 学術的な城館遺構ではなく主に「素人の思い込みと勘違い」によるものです。
   
関連ページへのリンク  2006/11/18のブログ 羽尾堀の内 羽尾城 水房館 城原城 杉山城 谷津城
所在地
埼玉県比企郡滑川町大字羽尾字平
遺構まがいの地形
小口?土塁?空堀?平場?
城館遺構の可能性
僅少
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

市野川左岸に面した独立丘陵
 城館跡の目星をつけた五厘沼の南側に所在する舌状台地は、北東部で戦国時代に戦乱で焼失し廃寺となった「福厳寺跡」と稜線で繋がる地形。 その個所を除けば北には古代からの「五厘沼」が所在し、東西方向と南側は切り立った斜面を有し周辺との比高差は約25mほどのほぼ独立した丘陵を形成しています。 また、丘陵の200m程南側には市野川が現在でも幾分蛇行しつつ東流しています。
 「城館遺構紛い」とはいっても、立地条件を含む諸条件を勘案すると、戦国時代の羽尾七騎などの小規模な在地領主と関連した小規模な「砦」「物見」或いは谷津城などと同様の「村の城」の可能性などもあるのかも...などと勝手な憶測が頭を過ぎるのでありました。

訪城年月日
2006/11/18
訪城の記録 記念撮影

( 2006/11/18 )
 登窯と沼池は由緒正しく...滑川の丘陵地帯彷徨の「泥沼」に嵌る契機に
 「五厘沼」の近くには7世紀初期頃の古墳時代後期のものと推定される滑川町の指定史跡とされる「古代の登窯跡」が所在。 加えて「五厘沼」そのものも、以前の考古学的調査によりほぼ同時代のものと推定されています。(「羽尾窯跡発掘調査報告書」1980/滑川村教育委員会)
 城館跡の目星をつけた五厘沼の南側に所在する舌状台地は北東部で稜線に繋がる地形。 その個所を除けば北には古代からの「五厘沼」が所在し、東西方向・南側は切り立った斜面を有し、比高差25mほどのほぼ独立した丘陵を形成。
 さて、余り比高差ないのでが北側の沼池側からは山頂を目指すこと僅か3分ほどで到着。 所有者の方が時折下草刈りなどの整備をされているらしくとても歩きやすい状態です。
山頂へ向かう途中には池跡のような不詳の大穴や稜線に並行する幅1間ほどの曲がりくねった溝跡などが所在。 また山頂付近は思いのほか平坦で恰も平場が存在していたかの様な印象さえ伝わってきます。 なお、地元の氏神様と思われる愛宕神社乃至は稲荷神社らしき祠が所在していました。
 地形と地理的条件から目星をつけたまでのことなので、まさかこれ以上何もあるわけは無いはずと、神社裏手を探索すると2間四方くらいの広さで深さ1.5m前後の窪地が所在。 倒木などの伐根跡にしては大きすぎるのと合わせて些か不自然な地形で..はて、どこかで見かけた地形だと少ない城館めぐりの体験に思いを巡らせば、あくまでも気のせいかもしれないと考えつつも、いわゆる「枡型小口」を髣髴とさせるような形状にて..何れが大手口か搦手口かの判断はできかねましたが、まさか始めからこのような無名の丘陵地帯でこのようなものに遭遇するとは俄かに信じがたいものが。
 また、溝状の地形は南側にも所在。 然しこれはかつての里道の可能性もあるような印象です。 なお、北東側の斜面には平場乃至腰郭状の平坦地も所在..これも多分気のせいかと(笑) ただし、唯一の地形的な弱点である北東部分の尾根筋に堀切・横堀などの形跡は殆ど見当たらず。 僅かに幾分窪んだような地形は恐らくは里道の通行に伴うものかと推察。
 
 元々何も見当たらないことを前提に訪れただけに、意外な遭遇に欣喜雀躍..
このため自宅に戻った後、柳の下の泥鰌を求めて、
@市野川や滑川などの主要河川に面した舌状台地の先端部分 
A本来は見晴らしの良い独立丘陵
 
など丘陵地帯の城館の要件に合致しそうな個所を抽出すべく虫眼鏡を手に地図と睨めっこ。 大雑把に集計してみると、念のため確認しておいたほうが良さそうなものがざっと20ヶ所ほどは存在している模様にて、嬉しいやら先に進まないので困惑するやら複雑な心境に。

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小口のようにも見えてしまう地形
周囲には堀上げ土塁のような盛り上がりも..
( 2006/11/18 撮影 晴れのち曇)
訪城アルバム
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■1■西側からの遠景 画像クリックで拡大
 山頂部分が幾分北側(写真の左側)に偏った地形ですが概ね平坦な地形であることが窺がえます。南側(写真右側)の大きく切れ落ちた地形については、ある程度町道の整備などによることも考えられますが、概ね市野川の蛇行と符合していることから元来の地形によるものと考えて差し支えないようです。
文政年間の庚申塔
■2■五厘沼畔の文政年間の庚申塔
 「庚申の日の夜になると人の腹の中の三戸(さんし)が、天帝にその悪事を告げに行くため早死にをする...」との教えで、「日待ち、月待ち」の習俗と結びつき、近世には「庚申講」として全国的に流行。
 庚申塔も時代が下ってくると文字のみの石碑が増え、本尊である「青面金剛像」が彫られたものと比べ、明らかに製作日数が短くて済みそうですが、石像物としては何処となく面白みに欠ける感じがします。
 
「五厘沼」 画像クリックで拡大します
■3■西側から見た五厘沼 画像クリックで南側から
 五厘沼の堰堤を渡って南側の丘陵の斜面を登っていきます。登口の部分だけは幾分傾斜が有りますが、直ぐに緩斜面となり数分もかからずに山頂へ到達します。
 「五厘沼」の名のいわれは、「寺の五輪塔が水面に映った」「五つの入り江があり五つの輪の形に似ていた」などの説があるようです。
画像クリックで現地解説板へ
■4■古代の「登窯跡」 画像クリックで現地解説板へ
 昭和54年の町道改修の際に7世紀初期の古代の登窯が発見され、同時に行われた沼池の調査により、この五輪沼もほぼ同時代のものと推定されています
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■5■山頂の途中に所在する大穴(又は井戸?)画像クリックで拡大
 深さ1.5m、8m×5mほどの楕円形の大穴で、伐採したばかりの孟宗竹がぎっしりと詰まっていました。そういった山仕事のゴミ穴と考えれば一件落着ですが、手掘りでの作業を考慮すると孟宗竹の頑丈な根を処理することと合わせて気の遠くなるような膨大な作業かと思われます。 なお「6」の溝跡がそのまま斜面を緩やかに下り、この大穴に直結していましたが、この場所に水を貯める意味が不明です。
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■6■尾根筋に沿った溝跡 画像クリックで拡大
 尾根筋に対して直角方向に普請されていれば「堀切」である可能性が想定されますが、この場合には尾根筋に沿う形なので判断に苦しみます。 「排水路」(平坦な地形とはいえ山頂部分なので意味がない)「境界堀」(境界杭確認できず)「根切りの溝」(畑の立地条件に合致せず余り意味がない)などが考えられますが、
 
愛宕社か稲荷社かと
■7■山頂南部に所在する小祠
 火除けの愛宕社、あるいは稲荷社と思われますが祠の中が暗くて御神体は不詳。 かつては西側からの急坂の参道が存在していた様ですが、傾斜が急で危険なために登口が閉鎖されていました。
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■8■山頂北側の小口状の地形@ 画像クリックで拡大
 北側の「記念撮影の写真」の小口状地形に向かって、踏跡が僅かに遺されています。 しかし、北側は元来急傾斜の崖地で町道の拡幅整備により麓が掘削されるに至り下りるにはかなりの危険を伴う状況となっていました。
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■9■山頂北側の小口状の地形A 画像クリックで拡大
 何処からどう撮影しても地形の特徴が表現できませんので、とうとう「黄色の線」だらけとなり果てました。 一応南側から北側の山頂に近い部分小口状地形の内側を撮影したつもりなのであります。
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■10■山頂北側の小口状の地形B 画像クリックで拡大
 周囲との地表の高さの違いを際立たせるために撮影してみました。特にこの右側の部分は高さ1.5mを超え、外側から観察すると50cmほど盛り土されているように見えました。
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■11■山頂の平場 画像クリックで拡大
 山頂は南北に細長い地形ですが、東側の部分が溝によって区画されていることや西側にも一部にやや段差のような地形が確認できますが、それ以外の地形上の特徴は認められませんでした。
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■12■峠に所在する「堀切」のような地形 画像クリックで拡大
 相当強引に考えれば、「堀切」のような地形に見えなくもありませんが、冷静に判断すれば単なる里道の窪みということになります。右側の平場状の地形との段差は50センチから80センチほどの規模でした。正面を進むと東側の集落への里道で、左側に進むと「福厳寺」への篠竹の藪だらけの道になるはずです。(2006/11/25に別途確認済み)
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■13■峠の南側の平場 画像クリックで拡大
 「12」の写真の南側に続く平場で多少人工的な地形の改変がなされているという印象が有ります。 また、この西側の斜面の途中にも人工的な地形の改変と思しき、腰郭にしてはやや面積の大きい幅20m・奥行き15mほどの広さの平場が存在しています。(一応写真は撮影したものの、どう想像力を働かせても、ただの藪にしか見えないため掲載省略...汗)
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■14■「泥沼」に嵌まる...南側からの遠景 画像クリックで拡大
 市野川の流れる南側からの地形の様子を確認するために2006/11/25に再訪。 やはり南側からの遠望は「予想通りの中世城館跡に相応しい地形」とますます思い込みが酷くなる一方。 特に南側の斜面の一部は凝灰岩のような岩肌が露出しているのが印象的。
  かくして、上記の 「小口状の地形」 の存在は、益々困惑と憶測の度合いを更に深めて「泥沼」に嵌まっていく次第にて候。
交通案内

・市野川北岸、五厘沼の南に所在する比高約25mの独立丘陵。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 


凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史 通史編」(1984/滑川村編集発行)・「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村の沼とその民俗」(1981/滑川村村史編纂室)  

・2006/12/17 HPアップ

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