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東方城(幡羅城)
関連ページのリンク  2005/05/25の日記  本庄城  皿沼城  庁鼻和城  五十子(陣)城         
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ3 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合27
所在地
埼玉県深谷市東方1790ほか
歴史と沿革

■「新編武蔵風土記稿」の東方村の古城跡の記述によれば、「深谷上杉氏の家臣の城であった」と伝わるのみで、その歴史的な経緯は不明です。あくまでも推測として皿沼城が岡谷氏の居城であるとすれば、もう一人の重臣である秋元氏の居城である可能性もあるのでは、とも思いますが裏づけになるようなものは全くありませんが、東方城の西側に所在する熊野神社を勧請していることから何らかの関連がありそうに思うのですが。
 なお、後北条氏の滅亡に伴い深谷上杉氏も没落し、徳川家康の入国後は松平丹波守康長が居を構えましたが、慶長7年に下総国古河へ国替えとなり廃城とされました。なお、「新編武蔵風土記稿」の記述から本郭の東側約150m付近の土塁の遺構はその時の陣屋跡とも考えられますが、これも推定の域を出ない模様です。
 また、上総国周東郡秋元庄を本拠地としていた秋元氏は秋元景朝の代に上杉憲賢、憲盛に仕え東方城の南西にある上野台に館を構えたとされています。子の長朝は主家である深谷上杉氏滅亡後は徳川家に仕え、関ヶ原合戦時には上杉景勝の帰降に貢献するなどを評価され、上野総社1万石の大名となります。その後子孫は異例の移封・加封を重ねて長朝から4代目・喬知7代目涼朝は老中に列するなど幕閣の要職をつとめ、最終的には上野館林で6万石の中堅大名として幕末まで続きました。( 2005/08/07 記述一部追加訂正 )

確認できる遺構
土塁、空掘
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■南の荒川、北の利根川に挟まれた洪積層の櫛挽台地の北端に所在し、城跡の北側を利根川の支流福川が蛇行しながら東流しています。本郭と推定される部分の水田面からの比高は5mに満たない高さであり、深田や外郭の水堀がその周りを取り囲むことで北側の備えとしていたと考えられます。
 ただ、城跡としての遺構が東西方向に点在しているために全体としての構造が掴みにくく、深谷城の支城として考えた場合に具体的な確証があるわけではないのですが、1km近い長さの防衛線というのは相互の連絡やその動員兵力から考えても長すぎるようにも思え、西側の熊野大神社の方の遺構は別の遺構のようにも思えるのですが。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第20集 東方城跡」(1988/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」       

文化財指定
深谷市指定史跡 1973年11月3日指定
訪城年月日
2005/05/25
訪城の記録

( 2005/05/25 )
本郭と推定される土塁は確かに見ごたえが
 始めは地図の見方を勘違いして国道17号線の北側600mの辺りと目星をつけておいたのですが、現地に赴いて少し地形を観察したところ実際には更に600mほど北側の利根川の支流の福川のそのまた支流の大きく崖線に沿って蛇行する農業用水のような小河川の南側に位置していることが分かりました。ど素人ながらも100箇所以上訪城しているので、多少は地形を見る目も養われてきたというべきか、単に地図が読めないというべきなのか(^^;
 さて、肝心の城跡の方は事前の情報としては、熊野大神社という立派で格式の高そうな神社の境内に南側を除く三方に土塁が残されているということでした。しかし、残念ながら内側から見る限り土塁の高さは1m未満の所が多く、東側は空堀跡が確認できるものの土塁自体については余りはっきりしなくなっています。ただ崖線の上に位置しているので、北側部分については下の道路部分からは約7m程の高さを有しているので、小規模ながらも当時から水路があったとすれば一応の備えの形にはなっていたものと思われます。
 このほか城跡の遺構としては、直線にして600mほど東側の県道263号線の東側部分の水路が大きく90度に屈曲する個所に、かなり嬉しくなるほどの土塁と空堀の遺構が確認できます。このあたりが本郭に相当するようですが、切通の道路の北側に土がむき出しになった高さ3m以上の崖が土塁跡そのもので、水路に沿う形で屈曲していることがよく分かります。また西側の土塁の外側には低いながらももう一つの土塁が残り、二重の土塁であったようにも見えました。土塁の内側での高さも2m近くもあり土塁に囲まれた一角は郭跡といってもよいぐらいですが、季節柄草木の叢生が夥しく蜘蛛の巣もあちこちにあって一応土塁の上には道があるとはいうものの見通しが利かないことが残念でした。さらに、この場所には更に東側の端には100m近い直線の土塁が確認できます。
 このように遺構が全体的に部分的にしか遺されていないので、城跡の全容が掴みづらいのですが少なくとも東西方向には1kmほどの長さを占めていたと思われますが、地形状の弱点としてはやはり高低差の殆ど存在しない南側の防御ということになると思われますが、元々古河公方勢力に対する北側の防衛がポイントだったのかもしれません。

( 2005/07/23 )
1号塁跡と2号塁跡
 東方城の一部と推定されることが多い「一号土塁」と「二号土塁」の確認です。「一号土塁」の方は北側と西側の土塁がよく残されていて、それぞれ80mほどの延長がありました。さてここで時節柄仕方のないことですが「やぶ蚊」の猛烈な攻撃に直面し、速やかな撤退を余儀なくされました。指定文化財の標柱が見当たらないので不思議に思いましたが、そのお宅の道路沿いの入口のブロック塀にそっと立てかけられてありました。外側から見ると「深...」という感じで、僅かに古びた標柱の天辺がブロック塀からそっと頭を出していました。でも、土塁の高さは空堀の位置から見ると2.5m以上のところもあり、北側は比高差3mほどの崖線を形成していますのでしたの水田からは比高にして5メートル以上もの崖を形成していました。
 一方「2号土塁は」道路の反対側にあります。ブロック塀やフェンスなどに囲まれているだけでなく夏草が生い茂りよく見えませんでしたが、標柱はブロック米の上に顔を出しています。ただし文字は古びていて予め何が書かれているか知らないと読めないという状態になっていましたが。高さは2mから2.5mで外側に空堀跡があるようにも見えたのですが、雑草が叢生していて全く見えませんでした。

Best Shot?



 左の丸い形の木立の中に思いがけない状態で本郭と推定される土塁跡がきれいに残されていました。
 この地域は縄文時代の遺跡もあり、木の本古墳群と呼ばれる十数基の円墳が所在しています。したがって、東方城はこれらの遺跡を一部破壊しつつ築城されたということになるようです。
 ( 2005/05/25 撮影 晴 )
交通アクセス

・国道17号東方交差点を県道263号欄に沿って北へ約1km MapFan Web の案内図です  


( 2005/05/25 撮影 )

■熊野大神社東側に所在する新義真言宗智山派熊野山弥勒院。
 「新編武蔵風土記稿」によれば慶長7年に松平丹波守康長が、下総国古河に国替えとなったときに共に移転したようですが、現在も同様の寺号で続いています。
■熊野大神社の拝殿。
 現在も信仰が篤く歴史と格式のある神社だけに境内社の数は多く主なものだけでも、大宰府天満宮、八坂神社、大杉神社、伊奈利神社、手長男神社、浅間神社、神明神社、雷電神社、稲荷神社、八幡神社、阿夫利神社、猿田彦神社などが明治の終わりごろに合祀されているらしくメモしてくるのが大変でした。参詣者用の駐車スペースがあります。
■熊野大神社の由来について記された説明版。岡谷氏は皿沼城主で主家滅亡後は帰農したと伝わります。一方、上総国周東郡秋元庄を本拠地としていた秋元氏は秋元景朝の代に上杉憲賢、憲盛に仕え東方城の南東にある上野台に館を構えたとされ、主家滅亡後は徳川家に仕え、その後子孫は移封・加封を重ねて最終的には上野館林で6万石の中堅大名として幕末まで続きました。神社の造営に関しては近世大名である秋元氏の影響力によるものと考えるのが自然かもしれません。また、秋元氏の家臣に岡谷氏を名乗る一族がいるようですが、皿沼城主の岡谷氏との関係は不明です。
■熊野大神社の境内西側に所在する土塁跡ですが、肉眼だとはっきりと分かる状態なのですが、画像にしてしまうと境内の低い築山のように見えてしまいます。内側での高さは50から60センチで、外側で見方によっては1メートルぐらいというところです。
 この土塁は北側、さらに東側にも続いているとのことですが、東側の部分については小規模な空堀が確認できるものの土塁自体の存在については分かりにくくなっていました。
 境内を囲む西側の石柱に刻まれた文字を拝見すると、現在も武田姓、畠山姓、持田姓という中世からの苗字を継承されていると思われる氏子の方が少なからずいらっしゃるようです。
■熊野大神社本殿。この本殿は上野台の領主秋元但馬守景朝とその子の越中守長朝が、上野台の館の鬼門に当たることから天正年間(1573年から1592年)に寄進したものとされていますが、文政2年(1819年)に修理されていることを受けてか、深谷市のHPでは江戸時代後期の様式であるとしています。
 祭神は伊邪那美命、速玉男命、事解男命の三柱。1968年11月3日深谷市指定文化財の建造物に指定。
■道路の左側が本郭と推定される部分の土塁跡で高さは3メートル以上はあります。小学生の兄弟がカブトムシ探しのために土塁を這い上がっていました。
 当方は、写真の奥のほうの土塁の先端の方から土塁の上に出ましたが、そんなことを繰り返していると土塁がどんどんと削れていくのですが、他に上り口もないので致し方がなく...道路上に流れた土塁の土が見えます。
■東方城の本郭跡西側の道路沿いに設置されている説明版。駐車スペースについては150メートルほど西側にある深谷市の生涯学習センターに止めさせてもらうのが良さそうです。
■北西部分の土塁の上で、左側が外側で右側が郭内に相当します。
 本郭の南東と北西側にある土塁は思いのほかきれいに残されていますが、せめて何とか道路沿いから這い上がるのだけは一定の制約をしていくことも必要ではないかと。
■説明をつけないと何の写真が分かりにくいのですが、本郭の空堀と思われる部分です。左側が本郭の土塁で空堀の深さという=土塁の高さは約4m近くもあり、蜘蛛の巣を除けながら藪の中を進んでいった甲斐があったというものです。なお、右側にもやや低い1.5mから2mほどの土塁があるので、この部分は2重土塁のような縄張りが形成されていました。
■ジャーマンアイリスを撮影したのではなく、右手の本郭南東側の土塁を撮影したものです。城跡の北側を迂回している農業用水がやや臭気を発生している中で体長60センチ以上もありそうな大きな鯉が数匹元気に泳いでいました。
■右手の住宅の奥の山林の辺りが「新編武蔵風土記稿」のいう「凡そ五反ばかりの御所屋敷」。残念ながら時間の関係で現地の確認作業が未了です。
 また、遠くの洪積台地の崖線も城郭普請に相応しい地形のように思えます。
■本郭南西側の土塁を南東側から撮影したもの。城址であることを示す標柱も設置されています。
 いずれにしても、季節を改めて訪城する必要がありそうです。

( 2005/07/23 撮影 )

■東方城本郭の150メートルほど東側の崖線上に「城主別邸」などといわれている土塁で囲まれた約75メートル方形の区画があります。
 この写真の西側の土塁の外側には空堀跡と見られる溝状の窪みも見ることができます。外側での土塁の高さは1mから2.5mほどで小名湖側の宅地の方に進むにしたがって低くなっています。
■内側から見た北側の土塁で高さは1mから2mほどで、現在土塁としてはっきりと確認できるのはこの北側と西側の部分のようです。
 この部分の遺構はについては天正18年(1590年)の後北条氏の滅亡後に、徳川家康の入国し家臣の松平丹波守康長が居を構えた時の陣屋跡ともいわれていますが、康長は慶長7年(1602年)に下総国古河へ国替えとなり東方城は廃城とされました。
■東方城塁跡1号を北側の水田方向から望む。
 元々3mほどの崖線を形成している所に高さ2mの土塁が加わり比高差は5メートル以上となっています。
■ブロック塀とは垂直方向に高さ2mほどの土塁が15メートルほど残されているように見えた東方城累跡2号。
 ブロック塀の上に見えるやや白っぽい細長い棒が深谷市の指定文化財の標柱ですが、予め知らないとその存在さえも分からないほどに文字が見辛く...(^^;
 
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