( 2005/05/25 撮影 )
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■熊野大神社東側に所在する新義真言宗智山派熊野山弥勒院。 「新編武蔵風土記稿」によれば慶長7年に松平丹波守康長が、下総国古河に国替えとなったときに共に移転したようですが、現在も同様の寺号で続いています。
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■熊野大神社の拝殿。 現在も信仰が篤く歴史と格式のある神社だけに境内社の数は多く主なものだけでも、大宰府天満宮、八坂神社、大杉神社、伊奈利神社、手長男神社、浅間神社、神明神社、雷電神社、稲荷神社、八幡神社、阿夫利神社、猿田彦神社などが明治の終わりごろに合祀されているらしくメモしてくるのが大変でした。参詣者用の駐車スペースがあります。
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■熊野大神社の由来について記された説明版。岡谷氏は皿沼城主で主家滅亡後は帰農したと伝わります。一方、上総国周東郡秋元庄を本拠地としていた秋元氏は秋元景朝の代に上杉憲賢、憲盛に仕え東方城の南東にある上野台に館を構えたとされ、主家滅亡後は徳川家に仕え、その後子孫は移封・加封を重ねて最終的には上野館林で6万石の中堅大名として幕末まで続きました。神社の造営に関しては近世大名である秋元氏の影響力によるものと考えるのが自然かもしれません。また、秋元氏の家臣に岡谷氏を名乗る一族がいるようですが、皿沼城主の岡谷氏との関係は不明です。 |
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■熊野大神社の境内西側に所在する土塁跡ですが、肉眼だとはっきりと分かる状態なのですが、画像にしてしまうと境内の低い築山のように見えてしまいます。内側での高さは50から60センチで、外側で見方によっては1メートルぐらいというところです。 この土塁は北側、さらに東側にも続いているとのことですが、東側の部分については小規模な空堀が確認できるものの土塁自体の存在については分かりにくくなっていました。 境内を囲む西側の石柱に刻まれた文字を拝見すると、現在も武田姓、畠山姓、持田姓という中世からの苗字を継承されていると思われる氏子の方が少なからずいらっしゃるようです。 |
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■熊野大神社本殿。この本殿は上野台の領主秋元但馬守景朝とその子の越中守長朝が、上野台の館の鬼門に当たることから天正年間(1573年から1592年)に寄進したものとされていますが、文政2年(1819年)に修理されていることを受けてか、深谷市のHPでは江戸時代後期の様式であるとしています。 祭神は伊邪那美命、速玉男命、事解男命の三柱。1968年11月3日深谷市指定文化財の建造物に指定。 |
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■道路の左側が本郭と推定される部分の土塁跡で高さは3メートル以上はあります。小学生の兄弟がカブトムシ探しのために土塁を這い上がっていました。 当方は、写真の奥のほうの土塁の先端の方から土塁の上に出ましたが、そんなことを繰り返していると土塁がどんどんと削れていくのですが、他に上り口もないので致し方がなく...道路上に流れた土塁の土が見えます。 |
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■東方城の本郭跡西側の道路沿いに設置されている説明版。駐車スペースについては150メートルほど西側にある深谷市の生涯学習センターに止めさせてもらうのが良さそうです。 |
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■北西部分の土塁の上で、左側が外側で右側が郭内に相当します。 本郭の南東と北西側にある土塁は思いのほかきれいに残されていますが、せめて何とか道路沿いから這い上がるのだけは一定の制約をしていくことも必要ではないかと。 |
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■説明をつけないと何の写真が分かりにくいのですが、本郭の空堀と思われる部分です。左側が本郭の土塁で空堀の深さという=土塁の高さは約4m近くもあり、蜘蛛の巣を除けながら藪の中を進んでいった甲斐があったというものです。なお、右側にもやや低い1.5mから2mほどの土塁があるので、この部分は2重土塁のような縄張りが形成されていました。 |
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■ジャーマンアイリスを撮影したのではなく、右手の本郭南東側の土塁を撮影したものです。城跡の北側を迂回している農業用水がやや臭気を発生している中で体長60センチ以上もありそうな大きな鯉が数匹元気に泳いでいました。 |
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■右手の住宅の奥の山林の辺りが「新編武蔵風土記稿」のいう「凡そ五反ばかりの御所屋敷」。残念ながら時間の関係で現地の確認作業が未了です。 また、遠くの洪積台地の崖線も城郭普請に相応しい地形のように思えます。 |
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■本郭南西側の土塁を南東側から撮影したもの。城址であることを示す標柱も設置されています。 いずれにしても、季節を改めて訪城する必要がありそうです。 |
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( 2005/07/23 撮影 )
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■東方城本郭の150メートルほど東側の崖線上に「城主別邸」などといわれている土塁で囲まれた約75メートル方形の区画があります。 この写真の西側の土塁の外側には空堀跡と見られる溝状の窪みも見ることができます。外側での土塁の高さは1mから2.5mほどで小名湖側の宅地の方に進むにしたがって低くなっています。 |
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■内側から見た北側の土塁で高さは1mから2mほどで、現在土塁としてはっきりと確認できるのはこの北側と西側の部分のようです。 この部分の遺構はについては天正18年(1590年)の後北条氏の滅亡後に、徳川家康の入国し家臣の松平丹波守康長が居を構えた時の陣屋跡ともいわれていますが、康長は慶長7年(1602年)に下総国古河へ国替えとなり東方城は廃城とされました。 |
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■東方城塁跡1号を北側の水田方向から望む。 元々3mほどの崖線を形成している所に高さ2mの土塁が加わり比高差は5メートル以上となっています。 |
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■ブロック塀とは垂直方向に高さ2mほどの土塁が15メートルほど残されているように見えた東方城累跡2号。 ブロック塀の上に見えるやや白っぽい細長い棒が深谷市の指定文化財の標柱ですが、予め知らないとその存在さえも分からないほどに文字が見辛く...(^^; |
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