( 2005/05/25 )
■深谷上杉氏の最初の拠点 深谷に関東管領の系譜につながる名門上杉氏の一族が存在したなどことは余り知られていないようです。山内上杉氏、扇谷上杉氏そして犬懸上杉氏、越後上杉氏あたりまでは知られていますが、深谷上杉氏(庁鼻和上杉氏)となるとかなりローカルな存在となるようで、「日本史諸家系図人名事典」(講談社)にも系図上に「上杉憲英」(のりひで)の記述はあるものの、深谷上杉氏についての記述はおろか、上杉憲英自身の記述もなく、いずれにしてもかなり謎に包まれている模様です。 恥ずかしながら、かくいう自分自身も今回の訪城を契機として初めて知る機会を得たようなものです。そうした事情は、深谷上杉氏が後北条氏の没落後に徳川氏に仕えることもなく、一地方領主としての地位さえも失ったことと、深谷上杉氏に関する古記録、伝世品の一切が文政2年(1820年)の国済寺本堂の火災により灰燼に帰していることなどが大きく影響を与えているようです。
( 2005/07/23 )
■外郭の規模と起点などの確認 庁鼻和城の外郭部分の起点と推定されている3か所ほどの場所を確認。北西部の起点には土塁跡が残されているかと期待しましたが国道17号線沿いの場所で、現在はきれいに砂利敷き駐車場のが整備されていました。ただ、まだ新しく整備したようですので、つい最近までは多少の盛り土が残されていたのかも知れません。とりあえず、土塁跡かどうかの信憑性が全くありませんが近くの少しだけ高くなっている道路沿いの小さな叢を記念撮影して遅めの昼食を。
そのときの「とろろ蕎麦」が下記の写真です。値段も味も器も、注文から商品が運ばれてくるまでの時間も、店の雰囲気も従業員のサービスも、黙っていても蕎麦湯が出てくることも十分及第点の深谷市の「増田屋」さんでした。食べながらメニューを見ていて朝食を殆ど摂ってこなかったことを思い出し、150円増の大盛にすればよかったとあとから気がつきました。
さて、食事のあとは国道17号線の反対側の物見櫓跡という伝承のある場所を確認し、ここにも「深谷上杉氏顕彰会」の丁寧な説明版が設置されていて大いに助かりました。現地は隣に残土置き場などがあったりして幾分ゴミなどが散乱する幾分周辺よりも地面が高いかなという程度の叢ではありました。そのあと北東部分の起点の場所を確認し、もののついでに内郭付近の堀跡も探索しましたが宅地開発のため現在は殆ど消失していることが分かりました。
このあと、一応資料も揃えて予定していた「深谷城」に寄ってみようとも思いましたが、左の膝の様子も気になり、また未整理の訪城資料も少なくなく、さらに深谷市の図書館で時間をかけて調べたいこともあり、後日再度再訪することにして帰途につきました。
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