工事中
PAGEの先頭PAGEの最後管理人へmail工事中

アクセスありがとうございます。     素人の趣味ですので不備や間違いなどが相当にあると思います。     もしお気づきの点がございましたらご指摘ください。  
庁鼻和城(庁鼻和館)
関連ページのリンク  2005/05/25の日記   2005/07/23の日記  皿沼城  本庄城  五十子(陣)城  東方城         
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯3 印象2 総合29
所在地
埼玉県深谷市国済寺521他
歴史と沿革

深谷上杉氏と庁鼻和城
 深谷上杉氏は14世紀後半に、庁鼻和(こばなわ)に城を構えた上杉憲英(のりふさ)に始まります。始祖である憲英は、上野国守護、蔵人大夫、奥州管領などに任ぜられ、河越氏や高坂氏を中心とする平一揆の討伐や上野国の南朝方新田一族の平定になど活躍したとのことです。その後、憲光、憲信と3代にわたりこの地を本拠地としましたが、康正2年(1456年)第4代の房憲の時、より防御性の高い深谷城を築城して移り住み庁鼻和城の本城としての機能は失われました。深谷市の下記の資料などによれば、その後、この城は国済寺を中心とする臨在宗の修行場、深谷上杉氏の菩提寺として機能すると共に深谷城の支城としての役割も果たしていたものと推定しています。
その後の深谷上杉氏
 深谷上杉氏は天文21年(1552年)に関東管領上杉憲政が越後に逃亡したのち、後北条氏の軍門に降ります。
 しかし、永禄4年(1561年)関東関係を承継した長尾景虎が関東に侵入したあたりから、当主上杉憲盛は同族の好で後北条氏に一時敵対しますが、元亀4年(1573年)には再び後北条氏の傘下に戻り北条氏邦の城代として深谷城を引き続いて支配しました。
 その後、天正18年(1590年)に後北条氏が滅亡した際に小田原城に篭城していた当主上杉氏憲は浪人となり200年を超える深谷上杉氏の歴史は途絶えました

確認できる遺構
土塁
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■深谷市の中心部にある国済寺の境内の北側部分を中心として土塁の一部がL字型の状態で遺されています。高さは西側の角部分で外側で2m、内側で1.5mを測りますが東に行くほどだんだんと低くなっていきます。長さは北側の部分で東西方向に約100m、西側の方は南北に約40mというような規模です。
 山内上杉氏から分かれた深谷上杉氏の最初の本拠地ですが、どのように土塁と空堀を備えても要害の地としては極めて不十分な平坦地であることから、後に西側の唐沢川西岸方面により本格的な深谷城が築かれることとなります。なお、本堂裏の竹林の生育する場所に説明版や深谷市の資料には「築山」と記されていますが、「古墳」のようにも見える高さ2.5mほどの地面の高まりが残されています。
 下記の資料などによると庁鼻和城は北方に緩い傾斜を持つ平坦地上に位置し、現在の国済寺地域の東半分を占めその推定面積は28ヘクタールに及び、東西約700m、南北約500mの五角形に近い外郭と約180m四方の内郭から構成されていたと推定されています。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」   

文化財指定
深谷市指定史跡 1959年11月3日指定、外郭の輪郭を示す地点は1973年11月3日追加指定
訪城年月日
2005/05/25
訪城の記録

( 2005/05/25 )
深谷上杉氏の最初の拠点
 深谷に関東管領の系譜につながる名門上杉氏の一族が存在したなどことは余り知られていないようです。山内上杉氏、扇谷上杉氏そして犬懸上杉氏、越後上杉氏あたりまでは知られていますが、深谷上杉氏(庁鼻和上杉氏)となるとかなりローカルな存在となるようで、「日本史諸家系図人名事典」(講談社)にも系図上に「上杉憲英」(のりひで)の記述はあるものの、深谷上杉氏についての記述はおろか、上杉憲英自身の記述もなく、いずれにしてもかなり謎に包まれている模様です。
 恥ずかしながら、かくいう自分自身も今回の訪城を契機として初めて知る機会を得たようなものです。そうした事情は、深谷上杉氏が後北条氏の没落後に徳川氏に仕えることもなく、一地方領主としての地位さえも失ったことと、深谷上杉氏に関する古記録、伝世品の一切が文政2年(1820年)の国済寺本堂の火災により灰燼に帰していることなどが大きく影響を与えているようです。

( 2005/07/23 )
外郭の規模と起点などの確認
 庁鼻和城の外郭部分の起点と推定されている3か所ほどの場所を確認。北西部の起点には土塁跡が残されているかと期待しましたが国道17号線沿いの場所で、現在はきれいに砂利敷き駐車場のが整備されていました。ただ、まだ新しく整備したようですので、つい最近までは多少の盛り土が残されていたのかも知れません。とりあえず、土塁跡かどうかの信憑性が全くありませんが近くの少しだけ高くなっている道路沿いの小さな叢を記念撮影して遅めの昼食を。
 そのときの「とろろ蕎麦」が下記の写真です。値段も味も器も、注文から商品が運ばれてくるまでの時間も、店の雰囲気も従業員のサービスも、黙っていても蕎麦湯が出てくることも十分及第点の深谷市の「増田屋」さんでした。食べながらメニューを見ていて朝食を殆ど摂ってこなかったことを思い出し、150円増の大盛にすればよかったとあとから気がつきました。
 さて、食事のあとは国道17号線の反対側の物見櫓跡という伝承のある場所を確認し、ここにも「深谷上杉氏顕彰会」の丁寧な説明版が設置されていて大いに助かりました。現地は隣に残土置き場などがあったりして幾分ゴミなどが散乱する幾分周辺よりも地面が高いかなという程度の叢ではありました。そのあと北東部分の起点の場所を確認し、もののついでに内郭付近の堀跡も探索しましたが宅地開発のため現在は殆ど消失していることが分かりました。

 このあと、一応資料も揃えて予定していた「深谷城」に寄ってみようとも思いましたが、左の膝の様子も気になり、また未整理の訪城資料も少なくなく、さらに深谷市の図書館で時間をかけて調べたいこともあり、後日再度再訪することにして帰途につきました。

Best Shot?

「新編武蔵風土記稿」より
 深谷上杉氏の始祖である憲英は、上野国守護、蔵人大夫、奥州管領などに任ぜられ、河越氏や高坂氏を中心とする平一揆の討伐や上野国の南朝方新田一族の平定になど活躍したとのことです。憲英は、応永11年(1404年)に没し、憲英の墓が国済寺本堂の左手奥にあり、基礎に「国済寺殿憲英大宗常興大禅定門」と刻まれているとのことです。
 また、憲英の墓の手前には、深谷上杉氏一族の墓が並び、2代憲光、6代憲清の墓などがあるそうです。

「深谷市のHP」を参考 
( 2005/05/25 撮影 晴 )

交通アクセス

・JR深谷駅より徒歩25分、国済寺を目指す。 MapFan Web の案内図です  


( 2005/05/25 撮影 )

■康応2年(1390年)深谷上杉氏の始祖の憲英が開基となり、高僧俊翁令山(しゅんのうれいざん)禅師を開山として招請し常興山国済寺として創建されました。
■入口に建つ江戸中期の建築と推定されるこの深谷市の指定文化財の黒門とその奥の三門のほか、法燈円明国師頂相などの市指定文化財、県指定有形文化財「木造峻翁令山像」などが所在するということです。
 黒門の文化財の説明版は大分劣化が進んでいるようで、説明の文字が読み取りにくくなっていたのが残念です。  
■城跡の標柱と説明版が三門の西側に立てられています。
■左の説明版を拡大したもの。
■国済寺本堂。本堂の左手奥に右の写真の霊廟があります。
■深谷上杉氏の初代上杉憲英の墓石。
■庁鼻和城の当時に築かれたという高さ2.5mほどの孟宗竹の繁る築山。どうしても、古墳にも見えるのですが。
■北側の土塁は内部では1mぐらいの高さですが、外側では2mから2.5mの高さに達します。
■境内の北側に残されている土塁を外側に出て西側から撮影したもの。
■経年に伴う痛みから、一部古材を使用して最近大規模に修理されたと思われる三門。

( 2005/07/23 撮影 晴 )

■外郭部分を含めると凡そ28ヘクタールにも及ぶとされる庁鼻和城の北西隅付近。かつては土塁跡が存在したらしいのですが、現在は砂利敷きの駐車場になっていました。
■かつては物見櫓が存在したとされる伝承地付近を東側から撮影したもの。
■物見櫓跡の伝承地の場所は幾分周囲の道路よりも高くなっているような感じもしますが、直ぐ隣には土木工事のための残土置き場などがあったりして歴史的な伝承地にそぐわない情景が広がっていました。
■そうした状況下でも健気に史跡としての存在を主張している深谷上杉顕彰会の説明版。関係者のご尽力には本当に頭の下がる思いです。
 
工事中PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想はこちらへ 工事中