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皿沼城
関連ページのリンク  2005/05/25の日記  本庄城  五十子(陣)城  庁鼻和城  東方城         
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便2 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合21
所在地
埼玉県深谷市大字上敷免字皿沼
歴史と沿革

■14世紀の後半、関東管領山内上杉憲顕は、南朝方の新田氏の勢力や在地領主らの一揆などの抑止力として、六男(五男とも)憲英(のりふさ)を深谷に向わせ、深谷上杉氏の始祖となります。
 また当初は、現在の国済寺を中心とした庁鼻和(こばなわ)に居館を構えたことから庁鼻和上杉氏とも呼ばれています。さて、城跡とされる上鋪免村の地はこの深谷上杉氏の支配地であり、「新編武蔵風土記稿」の上鋪免村の状の記述によれば、「小名 皿沼 村の南をいう、當所に古城蹟あり、土居の跡残りて其内は陸田なり、広さ七八反、岡谷加賀紙の居住せし所と云」と記されています。深谷市の資料などによれば深谷上杉氏の家老の一人岡谷加賀守香丹、清英父子の居城といわれています。また、「武蔵国郡村誌」の上鋪免村の記述で「皿沼城墟 村の南方にあり 東西2町南北2町十間古塁遺壕今尚存す その形桔梗花の如し その西北隅を称して城跡と云...」と記され、天文21年(1552年)に主家の上杉氏が北条氏康と戦い敗北したことにより岡谷氏は帰農したとされています。
 延徳3年(1491年)古河公方との抗争に備えて築かれたと伝えられるということですが、長享年中の大乱当時の抗争の中心勢力は同族の山内上杉氏と扇谷上杉氏であり、高見原の合戦では古河公方が扇谷上杉氏方に加勢しています。岡谷しの主家である深谷上杉はその血縁関係地理的関係から山内上杉氏方に属していたようです。そのあと、後北条氏の勢力に飲み込まれたものの戦国末期の憲盛・氏憲代には深谷・本庄の地域を支配領域としていたようです。

確認できる遺構
折のある掘跡
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■利根川沿いの自然堤防上の東西250m、南北150mの範囲が城跡とされていますが、視認できる遺構は城跡の北側に当たると思われる堤防脇から伸びる折のついた堀跡の一部分の形状にとどまり、下の写真の説明版の存在で辛うじて城跡であることがわかります。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」 

文化財指定
深谷市指定史跡
訪城年月日
2005/05/25
訪城の記録

( 2005/05/25 )
折のついた堀跡らしき遺構
 田んぼの用水堀に僅かに曲折する堀跡らしきものが確認できるだけの城跡ですが、よく辿っていくと堀跡の一部は東側の諏訪神社の向側の民家の敷地と道路の境にコンクリートの蓋をされた下水溝として残っています。しかし、現地で確認できるのはここまでで、残念ながらそれ以上の収穫はありませんでした。

Best Shot?



 田んぼの用水路となって遺されている堀跡のうち写真の手前部分は幅はともかく深さが思いのほかありそうなのですが、ともかく足場が悪そうで堀に落ちても困りますので堤防の上から眺めただけでした。
 ( 2005/05/25 撮影 晴 )
交通アクセス

・JR高崎線深谷駅より徒歩35分、唐沢川に架かるからさわ3号橋または諏訪神社が目印
MapFan Web の案内図です  


( 2005/05/25 撮影 )

■右の写真の説明版によれば皿沼城の鎮守とされた城跡の北側に所在する諏訪神社と、樹齢300年以上と推定されるご神木の大けやき。
 神社本殿の部分の地表は周辺よりも1m以上高く盛り土が施されていました。
■3号橋の東側の堤防上に建てられている説明版。
 自分のようなレベルでは堀跡と農業用水路はなかなか見分けが難しく、ちらっと見ただけでは殆ど遺構らしいものが見当たらないので、こういうものがあると目印にもなります。
 「さて城跡は一体どこだ...」などと矢鱈に歩き回らずに済みますので、大変ありがたいのであります。
■黄色の線で示したように写真の右手前から堀跡が写真中央部に伸びて、そこから約90度の角度で北側に更に折れてまた更に東側に90度の角度で折れています。
■左の写真の斜め黄色い線部分の堀跡を北側の道路沿いから見たところ。堀跡の手前は畑で堀の近くまで回り込めなくもないのですが、畦道も狭く農地を荒らすことにもなり、かつ足場もわるく足の具合も今ひとつなので、遠くから眺めさせてもらいました。
■上の写真の水平方向の直線部分の堀跡を角度を変えて北側から撮影したもの。
■通称「矢車草」といわれていますが、正しくは「矢車菊」だそうです。ヤグルマソウは葉の形が鯉幟の矢車の形に似ていることから付けられた名称で、ヤグルマギクは花の形が矢車に似ています。
 いまやU字溝の下水に変わってしまったかつての堀跡の道路沿いに彩り鮮やかに咲き乱れていました。
■城跡東側の堀跡付近の様子ですとはいったものの、道路の排水溝があるだけですが。
■諏訪神社向側の城跡北側堀跡付近の様子で、道路の右側手前が諏訪神社。
 
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