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秋元氏館(秋元氏陣屋)
関連ページのリンク  2005/06/27の日記  人見氏館  東方城  庁鼻和城  皿沼城   滝瀬陣屋      
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯3 印象2 総合25
所在地
埼玉県深谷市秋元町
歴史と沿革

6万石の譜代大名の故地
 「新編武蔵風土記稿」などによれば上総国周東郡秋元庄を本拠地としていた秋元氏は16世紀の始頃秋元景朝の代に深谷城を本拠とした深谷上杉氏の7代当主上杉憲賢、8代憲盛に仕えて滝瀬、上野台を領地として東方城の南東にある上野台 ( 現深谷市 ) に館を構えたとされ、寛永10年(1634年)長朝が甲斐に移封されこの陣屋は廃されたと伝わると記されています。
 またこれとは別に、「新編武蔵風土記稿」の記述によれば「滝ノ瀬村」の条に、深谷上杉家支配の頃は秋元越中守の所領であったことを記すとともに、そのの陣屋跡については「秋元越中守陣屋跡 今陸田なり、五反六畝ほどの地にて東につづき馬場跡という所あり...」と記されいています。残念ながら、この二つの「陣屋」のおかれた時代やその相互関係については詳細不明です。
 秋元氏は主家である深谷上杉氏滅亡後、子の長朝は徳川家に仕えて関ヶ原合戦時には上杉景勝の帰降に貢献するなどを評価され上野総社1万石の大名となります。 その後、秋元氏の子孫は異例の移封・加封を重ねて長朝から4代目・喬知7代目涼朝は老中に列するなど幕閣の要職をつとめ、他家との養子縁組もありましたが秋元氏の家名は最終的に上野館林で6万石の中堅大名として幕末まで続きました。したがってこの館跡は6万石の大名の故地となるのですが、その面影は殆どありません。

確認できる遺構
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■深谷市の下記の「発掘調査報告書」によれば、かつては土塁や堀跡が確認されたと伝わっていたとのことですが、現在周辺は完全に宅地化され地表の遺構は確認できません。また、この館自体の発掘調査は行われていないそうです。
 地形的には深谷城の南約1.5kmに位置し南北を唐沢川と下唐沢川の流れに挟まれた微高地に所在していますので、人見氏館と共に深谷上杉氏の本拠の深谷城の南方側をガードする支城として機能していたのかもしれません。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」
「日本史諸家系図人名事典」(2003/講談社)

文化財指定
1958年11月3日 深谷市指定史跡
訪城年月日
2005/06/27
訪城の記録

( 2005/06/27 )
南北に流れる小河川が僅かに館跡の名残を留める
 事前に仕入れた情報によると「目印はとても大きなダイヤ建設の高層マンションの近くで、住宅地の中に小さなロータリーがあって...」と、何のことはない数日前に、夕食に蕎麦を食べようとして目前を通過した場所でした。確かに何か書いてあったような気もしましたが、行く蕎麦屋が準備中だらけで蕎麦屋の看板しか目に入らず、目の前を通過しても全く気づいてはいなかったという次第です。
 さて、ロータリーの中には昭和30年代に建設された懐かしい政治家の方々の名前が裏側に刻まれた大きな館跡の石碑と立派な説明版が所在しています。これぐらいあっけない訪城だと確かに数は稼げますが、本当にこれでいいのかと思ったりします。かつては土塁や堀跡が確認されたと伝わっているとのことですが、周辺は完全に宅地化され地表の遺構は確認できません。地形的には深谷城の南約1.5kmに位置し南北を唐沢川と下唐沢川の流れに挟まれた微高地に所在していますので、人見氏館と共に深谷上杉氏の本拠の深谷城の南方側をガードする支城として機能していたのかもしれません。また、奇妙なカーブをしている道路も堀跡などと関連しているのかもしれませんが詳しいことは分かりません。

Best Shot?


 秋元町の住宅地のど真ん中にこのようなやや不思議なロータリーがありまして、ここが秋元氏の館跡とされていて、大変大きく立派な石碑をはじめ由来などを記した説明版などが設置されていました。
 広報ふかや平成17年1月号「ふるさとの歴史散歩」の記事によれば昭和30年代の中ごろまでは林の中に館跡の掘割や土塁状の遺構が見られたそうですが、昭和39年の宅地造成の開始によりその姿を変えてしまったということです。
 ( 2005/06/27 撮影 曇時々晴 )
交通アクセス

・JR深谷駅より徒歩20分 MapFan Web の案内図です  


( 2005/06/27 撮影 )

■館跡と推定される地域の北側を流れる唐沢川の上流の押切川で、南西の方に2キロメートルほど遡上すれば人見氏館の北側に辿りつきます。
■深谷上杉氏の重臣であった時代には恐らく多くても数百貫程度の知行と推定されますが、東国の戦乱や近世に至り大名の取り潰し時代をかいくぐり、最終的には知行にして何と20倍前後の6万石の譜代大名としてその家系が幕末まで継承されるとは。
 
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