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大沼館(大沼弾正忠館)
関連ページのリンク  2005/06/27の日記  秋元氏館  人見氏館  東方城  庁鼻和城   皿沼城      
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態5 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合27
所在地
埼玉県深谷市東大沼北53
歴史と沿革

深谷上杉氏家臣大沼氏の館
 「新編武蔵風土記稿」の記述によれば東大沼村は「古くは上杉の家人大沼弾正忠の所領なりし」とされ、「屋敷跡 村の北の方にて、今村民の屋敷及び畑林なり、土手堀等の跡残りし所あり、大沼弾正忠住せし所と云う」と館の伝承を記しています。また、同稿によれば大沼弾正忠がこの館跡に西蔵寺を建立したものと推定していますが、深谷市の資料ではその弟の開基としているようで、大沼氏自体についても定かではなく、武田氏、越後上杉氏の争いの渦中で武田方の侵攻を受けたとの伝承も伝わっているようです。

確認できる遺構
堀、土塁?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■深谷城の西北西約500mほどの地点に所在していることから、ことによるとその距離の近さ大沼氏と深谷上杉氏の主従関係を考えた場合には城下の重臣の屋敷をかねた出城のような存在であったかもしれません。現在の区画から推測すると一辺が100メートル四方の方形に近い東側に小口と思われる部分を有した小規模な城館のようなイメージが出来上がるのですが。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「埋蔵文化財発掘調査報告書第59集 庁鼻和城跡 第4次」(1999/深谷市教育委員会)
「深谷市の文化財」(1974/深谷市教育委員会)
「目で見る深谷の歴史」(1981/深谷市教育委員会)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「深谷市史 追補編」(1980/深谷市)
「深谷市のHP」

文化財指定
深谷市指定史跡らしい
訪城年月日
2005/06/27
訪城の記録

( 2005/06/27 )
意外にも四方に堀跡が...
 多分何も残されてはいないだろうと思っていましたが、よく見ると館跡とされる西蔵寺の周辺には堀跡と思われる窪みが方形で残されています。しかし、それらの堀跡らしきものが当時の様子をどこまで継承しているものかは詳しくは分かりませんが、東西南北全ての方角について残っていることは確かです。また、叢生する雑草でよくは見えませんでしたが西側の墓地との境部分にもしっかりと確認できました。
 一方大沼弾正の一族が開基となったとされている真言宗のお寺の方は現在どうやら現在は無住の模様でした。隣接の墓地の墓石の数も少なくはないようで、当日も檀家の方々の寄り合いなどには利用されている様子でしたが、どちらかというとやや寂しげな佇まいを見せていました。市街地の中にあることを考えれば、そうした光景も合わせて当時の面影をよく伝えているのではないでしょうか。

( 2005/07/11 )
 大沼弾正忠の墓石と館跡の規模、堀跡の位置と状態などを確認するために再訪。といっても、実際には伊勢方仮城へ向う途中にあるのでそのついでに寄ったまでのことです。

Best Shot?


 館の北辺の様子。明確な土塁跡は確認できませんが、屋敷林の境辺りで全体として僅かな地面の盛り上がりを感じます。
 一方堀跡の方は北辺も含めて四方全てに残されていますが、どこまで16世紀当時の戦国時代の様子を伝えているのかは判断に苦しみます。
 ( 2005/06/27 撮影 曇時々晴 )
交通アクセス

・JR深谷駅より徒歩12分 MapFan Web の案内図です  


( 2005/06/27 撮影 )

■新義真言宗大沼薬王院西蔵寺の山門。石像物は年代の古いものでも元禄4年(1691年)の頃のもののようでした。
■畑と叢生した庭木の間に深さ50センチ、幅1間程度の堀跡状のものが確認できますが、もしかすると畑の根切りも含まれているのかもしれません。
■館跡北辺の西側の様子。この微妙な窪みは堀跡のような、林の中の地面の高まりは土塁のような...本来の堀は殆ど埋め立てられているようにも見えました。
■館跡北辺の東側部分で明らかに堀跡と思われる溝がありますが...畑の耕作などの関係もあり当時のままのものとも思えません。
■明らかな窪みを見せているので館の西側の堀跡のようにも思うのですが、この叢の右側には墓地が続いていて南側の堀跡はその墓地の端まで伸びているようです。そうすると二重堀の内堀跡とも考えられますがなんともいえません。
■東側の堀跡と思われる部分で、幅はだいたい1間程度ですが現在も僅かな湧水と思われる水を湛えていました。堀がこのあたりで90度に曲折していることが小口があっても良さそうに思いますが、鬼門の方向近くなるのでなんとも。

( 2005/07/11 撮影 )

■本堂西側、墓地東側の薄暗い樹木の中に大沼弾正忠の墓石がひっそりと佇んでいました。 ( ストロボ発光していますので明るく見えますが、文字も読み辛いくらいに薄暗い状態です ) 
 墓石自体はどちらかというと新しそうに見えますので、近世の後半に立て直されたものかもしれません。
■館跡の西端の墓地の南東の角部分の空堀跡の様子。外郭部分とも思われる西端の空堀跡が住宅地との間に僅かな幅の溝として残されているようです。
 
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