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おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合23
所在地
埼玉県北本市深井4丁目
歴史と沿革

堀之内、深井対馬守、対馬屋敷
 「新編武蔵風土記稿」の深井村の項に、「 小名 堀之内 東の方を云、古え深井対馬守が居住せし所なり、一に対馬屋敷という 」と記されています。「東の方を云」という記述の真偽が気になるとともに、「北本市史」によれば深井地区には堀之内および対馬屋敷という伝承・絵図・古文書の類は見当たらないとの事情もありますが、「市史」でも最終的には比定していることから取り敢えずは対馬屋敷ということに。
 鴻巣七騎の一人とされる深井氏の事跡については「新編武蔵風土記稿」「武蔵志」などにも記されていますが、その情報元とされるものは寿命院所蔵の「深井氏系図」( 「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」に収録 )によるものかと思われます。これによれば長尾景春の次男景忠(景行)-景孝(六郎次郎、初めて深井姓を名乗る)-景吉(深井対馬守を名乗る)という系譜が記されています。景吉の時に後北条氏方であった岩付城主太田源九郎氏資に仕えたとされ、永禄10年(1567年)8月上総三船山の戦いで氏資が討死したことから、深井村にもどり周辺の宮地、生出塚、糠田、箕田各村の開墾に主導的な役割を果たし、その田畑の広さは300町歩(約3平方km)であったといわれています。その後、景吉の嫡男藤右衛門(資正、好秀)は岩付城主太田氏房にも仕えるとともに、その娘は大河内金兵衛久綱に嫁ぎ後の松平伊豆守信綱の母となったとされています。このようなことから、かつて地元では深井家を「宮地の殿様」と呼んでいたということです。
 なお「増補秩父風土記」によると、秩父郡小鹿野町村の項に「 吉田境の山に深井対馬守假居の地有 」と記されているのですが、地理的に見ても東西に直線でも50km前後とかなり隔絶していることもあるので、いまのところその関連性については全く分かりません。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■「北本市史」によれば、屋敷跡は国道17号線の西側の寿命院に所在したと推定されていますが、地表から観察できる遺構は存在していないとされています。また寿命院の南側の方にも堀之内の名称に相応しい低地も所在しています。

文化財指定
訪城年月日
2006/04/24
訪城の記録

( 2006/04/24 )
サクラ満開、板碑も保管...遺構は
 さて、以前小鹿野町の館跡の資料を調べていたら深井対馬守についての記述があり、偶然の一致かもしれないものの意外な所で繋がりがあることを見つけて感動したという経緯が。北本市の資料によると屋敷跡は寿命院の境内あるいはその南側付近とのこと。しかし地表上の遺構は確認されておらず、「新編武蔵風土記稿」深井村の堀之内として記述している場所として比定しているに過ぎない模様。
 なお、本堂前の境内の一角には建治3年と刻まれた13世紀中頃の板碑などが歴史資料として文化財の解説板とともにまとめて保管されていました。また、墓地西側のところに恐らくは墓地の造成に伴うものと見られる地面の盛り上がりが見られたのでとりあえず記念撮影。本堂前の一角には多分サトザクラの園芸品種と思われる2種類のヤエザクラが満開で、このためしばしの間サクラを愛でつつデジカメ接写も。

記念撮影
クリックで板碑の解説板へ

 寿命院本堂前に保管されていた20体程の板碑の存在が寺院としての歴史の古さを表していますが、この板碑そのものからは直接的な深井氏との関わりは見えてこないようです。
(寿命院板石塔婆/1979年指定北本市歴史資料 )

( 2006/04/24 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■深井氏菩提寺の新義真言宗殿林山金藏寺寿命院の本堂
 「新編武蔵風土記稿」の寿命院の由来によれば深井六郎次郎景孝が中興したと伝えられ、その子対馬守景吉の碑とともに.累代の墓石が所在する記されていましたが不覚にもその場所が分かりませんでした。
 また、近世地誌としての成立年代がより古い江戸中期に大間村の名主福島東雄(1734-1803)により編纂された「武蔵志」によれば「寿命院 鴻巣の深井邑 新義真言宗 文明比草創 寺明院と云 天正中長尾威玄(長尾景春)が孫深井対馬中興 寺号如今 寺領十石殿林山と云 対馬元小田原の臣(後北条氏の家臣)なり」と、概ね同様の記述がなされています。
■2■たぶんサトザクラ(バラ科サクラ属)
 ソメイヨシノよりも開花時期は1ヶ月近く遅く、寿命院本堂前の境内の一角で満開となっていました。
 手元にある「木の名前が分かる事典」(成美堂出版)によれば「オオシマザクラ」を元に「ヤマザクラ」などを交配して成立した園芸品種の総称とのこと。花色も、白色、淡紅色、濃紅色、淡黄色などさまざまで、一重、八重、キク咲きなどもあると書かれていました。 最近やっとなんとか梅とサクラの違いが分かるようにはなってきた程度なので、とてもサクラのその種類と品種の豊富さにはついていけません。
■3■墓地脇の盛り土
 墓地西側の道路沿いに北西から南東方向にかけて長さにして50mほど続いています。多少は古そうな印象もありますが、外見上は墓地の造成に伴う残土なのか、それ以前からのものなのか分かりかねましたが念のため撮影したものです。
 そういえば竜興寺(埼玉県北埼玉郡騎西町)の墓地裏にも折のついた立派な「土塁」がありましたが、残念ながら付近の土木工事などに伴う残土だったということがあったことを思い出しました。
交通案内

・国道17号線沿い西側、北本市立北小学校の南の真言宗寿命院周辺。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」(1990/北本市教育委員会)
「中世武蔵人物列伝」(埼玉県立歴史資料館編/2006/さきたま出版会)
「鴻巣市史通史編1原始・古代・中世」(2000/鴻巣市)
「鴻巣市史通史編2近世」(2004/鴻巣市) 

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