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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/11/21の日記
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態8 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合31
所在地
埼玉県鴻巣市大字大間字原1029
歴史と沿革

源経基の館跡?
 平安時代中頃の武藏国司源経基の館跡という伝承等がありますが、現在残されている遺構の形態からその後幾度かの改修を加えられたものと考えられます。1987年の宅地開発にともなう北側堀跡の一部の発掘調査からは箱薬研堀の構造が確認されたとしていますが、年代を特定するような遺物は確認されませんでした。「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、扇谷上杉氏の家臣箕田氏の城跡であるという説と源経基の館跡であるという説を記していますがその証拠となるものは存在しないと述べています。
 この館跡が源経基のものとされる理由は「将門記」に記された武藏権守興代与王・武藏介源経基と武藏国足立郡司武藏武芝・平将門の争いに登場する「経基之営所」に比定することによるとされています。また、別名を箕田城、大間城、城山、浅間山ともいわれていて、現在は市有地として「城山ふるさとの森」という公園として整備されていますが、解説板などを除いて公園に付き物の余計な造作は一切ありません。歴史的な背景などは不明な部分が多いものの、比較的小規模で単純な構造の城館跡ですがその保存整備状態のよさに感激します。

源経基(?- 961)について
 後に源頼家・義家・義朝・頼朝・義経などの河内源氏を送り出した清和源氏の祖となる源経基は清和天皇の子貞純親王の六番目の子であったことから「六孫王経基」と称されたといわれています。武藏介の在任中に平将門の謀反を朝廷に注進し、天慶3年(940年)従五位・大宰少弐となり同年の将門追討の時は副将軍に任じられました。
 藤原純友の乱では追捕南海凶賊次官として活躍し兵部少輔・左衛門権佐・左馬頭・内蔵頭などの官職や信濃・伊予・美濃・但馬・武藏などの国司を務め鎮守府将軍に任じられました。天徳5年(961年)には源朝臣の姓を賜り、同年45歳で没したという説もあります。
                     ―「鴻巣市史 通史編1」(2000/鴻巣市)等より抜粋―

確認できる遺構
折のある土塁・空堀、小口状の地形、物見台状の地形
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■元荒川と荒川の間に挟まれた大宮台地のほぼ北端の埼玉県立鴻巣高校の南西に隣接した崖地の縁部分に所在し、周辺には伝蓑田氏館、伝安達館跡なども所在しています。「鴻巣市史 通史編1」などによれば東西95メートル、南北85メートルの方形館跡で西側を除く三方が土塁と空堀で囲まれた単郭構造で、西側は柵や切岸で防御したと推定されています。北東と南東の角部分には小規模ながら角落しによる横矢が存在し、北側には物見台・櫓台と推定される遺構が確認されます。
 なお、埼玉県内で平地に向って開口部が広がるという形態を有する城館跡としては東松山市の足利基氏館、毛呂山町の毛呂城などがあります。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「鴻巣市史 通史編1」(2000/鴻巣市)
「鴻巣市史 通史編2近世」(2004/鴻巣市)
「鴻巣市史 資料編1考古」(1989/鴻巣市)
「鴻巣市史 資料編2古代・中世」(1991/鴻巣市)
「埼玉県史料叢書4」(1998/埼玉県)
 明治4年から17年にかけて編纂された「埼玉県史料」の翻刻版で城館跡の当時における絵図が掲載されています。   

文化財指定
埼玉県指定史跡 1941年3月31日指定
訪城年月日
2005/11/21
訪城の記録

( 2005/11/21 )
おそらくは戦国期の改修を受けた城館跡かと
 埼玉県立鴻巣高校の敷地の南側に隣接しているのですが、どちらの方向からアプローチしてもやや分かりにくい場所にあるようです。自分の場合は、ともかく鴻巣高校を目指すことにしました。しかし、高校の前まで行くとそのまま校庭の中へと入っていくように思い、これはまずいと車を停めてあたりの様子を窺うことに。すると校門の左側に車1台がやっと走ることのできる程度の細い路地があることを見つけました。さて、そんな訳で慎重に高校の敷地のフェンスの道路に沿ってゆっくりと車を進めていくと、突然目の前に「写真1」の鴻巣市の設置した文化財の標柱と共に空堀と角部分に折をともなう土塁が出現しました。
 いや、何度見てもこういう瞬間は嬉しいものです。この標柱が立てられているあたりが館跡の南東部分で、いきなり折のつけられた土塁や空堀を目にするとテンションがあがります。今日は急いで家を出てきたせいで、膝用の高級サポーターを装着し忘れてきたため膝の動きにやや問題がありましたが、それでも何とか空堀部分を半周し土塁の上にも何度か登ることができました。膝の具合はどうやら回復基調にあるようです。
 北東の空堀の角部分では近くの保育園の年長組と思われる子どもたちが保育運の先生にに引率されてお散歩中で、各自懸命になって枯枝や木の実を拾い集めていました。一人の子どもに「おじさん誰?」と素朴な質問を受けましたが、「知らない他所のおじさん」と答えておきました。

記念撮影




 北側の櫓台と推定されている部分の土塁の高さは現在の堀底からでも4m前後の高さを有しています。鴻巣高校側の土塁の斜面に登って撮影したものですが、現在は写真右側の北側空堀の先端部分は宅地開発のために消失しているようでした。

 
( 2005/11/21 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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■1■
 鴻巣高校のネットフェンス沿いの狭い道をくねくねと進んでいくと目の前に突然このような光景が現れます。この標柱の脇に2台ぐらいなら駐車できるスペースがありました。
 普段余り遺構がほとんど残されていないところばかり回っているもので、このような時は「おー空堀だ、土塁だ、隅落しの横矢掛かりだ...」と俄かにテンションが高揚していくのでありました。画像クリックで拡大します。
■2■
 南側の土塁は概ね遺されている感じですが、空堀の方は途中から民家の宅地の中に吸収されるように消失しています。(「11」を参照)
■3■
 南東部分の隅落しのある土塁。10mほどの間隔で北に向かい、東に折れてまた北へ向っています。
■4■
 東側の土塁と空堀を南から撮影したもの。
■5■
 「4」より少しだけ北へすすんだあたりですがも屈んで撮影したためにやや視線が低くなっています。
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■6■
 北東の隅部分にも「3」と同様の規模の折が施されています。ちょうどその個所で付近の保育園の園児十数名が木の実や枯枝を拾い集めていました。滅多に人影が写らない所ばかりを撮影していますが、このときは小さい子どもたちの遊び場にもなっている光景が微笑ましく思ったので、敢えてファインダーの中へ入れさせてもらいました。画像クリックで拡大します。
■7■
 東側の堀跡を一人の園児が不思議そうに振り返りながら先生たちに引率されて保育園へと戻っていきました。右側が主郭です。
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■8■
 清和源氏の祖となる源経基は清和天皇の子貞純親王の六番目の子であったことから「六孫王経基城址」と称されたといわれています。この写真はその館跡としての伝承を示す河野廣中の揮毫による大正4年に建立された石碑。画像クリックで拡大します。
 なお、この城山の地は明治の初めに後北条氏の家臣であった道祖土氏から別れた福島家により引き継がれた模様ですが、江戸時代の中期に編纂された「武藏志」の著者である大間村の名主福島東雄(1734-1802)はこの一族とされています。大間村は近世には林大学頭と旗本西尾氏の相給とされ幕末まで続きます。また、この福島家は他の近在の林大学頭の1220石余りの領地の統括差配を任されていたとされています。
 なお、「武蔵志」によれば、「大間古城 大間に在り 地形額にして北東西田深 南平原続き四方山不見 上杉の臣箕田某が居之...」と記されています。

      ―「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より一部引用―

 なお、非常に細かいことですがこの裏面に刻まれている碑文については、「鴻巣の石造物(箕田・田間宮地区)」で紹介されています。
この点については「本村城山ハ幕府儒官林大学頭々采地也 天保度里正耕ハニ困リ村民ニ給ス...」とあります。
しかし、これは碑文をよく見れば分かることなのですが、恐らくは「本村城山ハ幕府儒官林大学頭采地也 天保度里正耕因リ村民ニ給ス...」であり、大意は「この城山は幕府儒官林大学頭の所領である 天保年間に名主耕八により村民に...」であるので明らかに誤りではないかと考えられます。
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■9■
 主郭の内部は常緑樹も多く生い茂っていますので、当日は快晴であったにも拘らずかなり薄暗い状態です。黒く見えているのが東側の土塁の内側部分で内側での高さはおよそ2m前後かと。郭内は写真の左側から右側(北から南)に向けて緩い傾斜がかかっています。
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■10■
 郭内の東側から見た西側の土塁部分。「8」の写真の石碑が見えますが、「鴻巣市史」などでも示唆しているようにひときわ高くなっている部分は櫓台・物見台のようにも見えます。
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■11■
 南側の小口状の地形。南側の空堀は全体の三分の二くらいの長さが住宅の宅地の下に埋もれている様子です。この部分では内側の土塁の高さも実質的に1.5mあるかどうかでその傾斜も緩やかとなっています。画像クリックで拡大します。
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■12■
 西側の腰郭のようなテラス状の平坦地で上段が主郭にあたります。2mぐらいずつの段差で「13」の道路部分に続いています。画像クリックで拡大します。
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■13■
 西側から見ると郭内が道路から二段上にあることが分かります。道路から見た主郭までの比高差は5メートル弱かと。画像クリックで拡大します。
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■14■
西側の町道沿いに設置されている詳細な解説が記されている説明板。この左側には複数の分譲住宅が所在します。画像クリックで拡大します。
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■15■
 館跡の西側は中世から続く古道とされる町道が走っていますので、こちら側からアプローチする方法もありますが車を駐車する適当な場所が余りありません。なお、右手前の部分は民家の敷地となっています。
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■16■
 南西側の荒川方向から眺めた城山の遠景。画像クリックで拡大します。
交通案内

・地図などでは「城山ふるさとの森」と記されています。鴻巣高校の南西側の台地の縁。
MapFan Web の案内図です  

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