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関連ページへのリンク  2006/04/24の日記 石戸城 三ツ木城 堀之内館 榎戸館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態5 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合27
所在地
埼玉県北本市古市場1丁目、宮内5丁目
歴史と沿革

別名を古市場古塁とも
 江戸時代の中期に大間村の名主福島東雄(1734-1802)により編纂された「武蔵志」の足立郡の巻によれば、「古市場古塁 古市場村にあり、地形西北深田、東南平地なり、城主不詳」と記されていて、おそらくその地形上の特徴などから考慮するとこの上手館を指しているものと考えて差し支えないようです。しかし、「新編武蔵風土記稿」の古市場村の項には一切の記述がありません。
 なお、「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」によれば、この館跡の存在については1980年代の後半頃に地元の郷土史家などの手により明らかにされたもので、また館跡の名称についても「上手」と呼ばれる地域に所在し、かつ「ウワデ」という地名が館・城に由来する可能性があると想定されることから「上手館」と命名したということです。また、同書によれば古市場村は古くは岩槻領と称されたことから戦国時代の岩槻太田氏との関わりを提示し、鴻巣七騎と呼ばれた在地領主層の館跡との可能性を示唆しつつも、方形館と想定される形態からその築造年代については鎌倉期を想定しています。

確認できる遺構
L字型の土塁
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■大宮台地の北東部の台地先端に位置し、北と西には水田地帯の低地が広がっています。現在目に見える分かりやすい遺構としては、新日本ガス北本工場の南西の道路境と南東の住宅境にかけてL字型の土塁跡が遺されています。
 このほかにも「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」によれぱ、北東側の漬物工場の方向にかけて土塁跡や堀跡も遺されてたとのことですが、現在の状況からでは分かりかねました。また、北東の端には水田に張出した半円形状の微高地が所在し、出郭としての可能性を示唆していますが、現状は大きく改変されているためにその面影がほとんどありませんでした。こうしたことから総合すると、当初は方形館であったものが時代が下るとともに次第に拡張され、戦国時代には北東の台地先端部に出郭を構築したものと想定されます。
 なお、館跡は県道311号線(岩槻街道)の北側に所在し、岩付城との地理的関わりが想定され周辺には加藤氏館跡、深井対馬守館跡、桶川市の加納城などが所在しています。

文化財指定
訪城年月日
2006/04/24、04/26
訪城の記録

( 2006/04/24 )
遺構との対面叶わず
 県立北本高校近くのかつては雑木林だった場所ですが、現在は某大手企業の社有地の一部などとなり立ち入ることができません。また、雑木林自体もかなりの部分が伐採・整地されているようで、現実に遺構自体が存在しているかどうかも分かりかねる状態でした。

( 2006/04/26 )
フェンス際の土塁
 一昨日の訪城で遺構が見当たらず落胆していた所、地元関係者より土塁がしっかりと残されている旨の情報が。このため、早速二日酔いで痺れる頭をなんのこれしきと叱咤激励して訪城。前日略図にて説明を受けたとおり、ガス会社敷地内の南西部に道路沿いのネットフェンスに並行する形で高さ約2.5m、総延長約100m近くの堂々とした規模の土塁が現存。
 敷地と道路を隔てているネットフェンスの内側にあることと一部造園工事と重なっていたとはいえ、前回の時には全く気付くことなく素通りしていたというお粗末な次第。フェンス沿いの道路も築造の際に水田面より嵩上げされている様なので、土塁の見かけ上の高さは3mを超える規模であったことが窺がえます。また、南東側の住宅との境界部分にも土塁状の連続した地面の起伏が見られるので本来はL字型の遺構であった模様かと思われました。
 現在城館跡はガス会社を含む少なくとも4社ほどの企業の社有地に分割され立ち入ることも難しく、このガス会社の道路沿いの部分を除いてその全体的な様子を把握することは難しいようです。

記念撮影
上手館の土塁の画像


 写真手前の土塁の北西部分は工場の緑地などの造成工事によるものかどうかは分かりませんが高さ1mくらいの規模となっていますが、南東部分の一部は内部からでも高さ2m前後はありそうでした。
 ガスタンクという特殊な施設のため施設の構内への入口には関係者以外立入厳禁の表示が掲示されていました。入口から事務所らしい建物を探したのですが見当たりませんでしたので、大人しく構内入口の門扉の前から記念撮影を敢行。

( 2006/04/26 撮影 曇り )
訪城アルバム
■1■フェンス越しの土塁跡
 余りにもフェンスと一体化して馴染んでいたので、まさか当初は土塁跡とは思いあたらず。文化財の保護とその重要性を啓発するためにも、せめてネットフェンスに小さな文化財の解説板でも取り付けてくれたらなどと勝手なことを思ったりするのでありました。ネットフェンスの幅から推定して(1.9m×40パーツ)、この道路沿いの南東から北西にのびている土塁跡の延長距離はおよそ76メートルほどのようです。
■2■L字型の土塁
 この土塁の幅はおよそ3間(5.4メートル)ほどの規模ですが、南東側の住宅地の境部分にも南西から北東方向に延長25mほどの同規模の土塁が確認できますのでL字型を形成していることが分かりました。しかし残念ながらネットフェンス越しのために、その形状が判別できるような画像を撮影することはできませんでした
⇒「住宅側の盛り土」については、最近のものであるとのご指摘をいただきました。お詫びして訂正いたします(2007/09/04)
■3■このガスタンクが目印
 中世城館跡の遺構と巨大なガスタンクの組合わせはミスマッチかもしれませんが、地理不案内の場合にはこれ以上分かりやすい目標物はまずなさそうな感じです。一昨日もこの方向から眺めてはいるのですが、危険物などの特定工作物の設置に伴う防爆壁のような土木工事と誤認していました。
交通案内

・県道311号線北側、北本高校の南西、新日本ガスのガスタンクが目印
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 
・2006/05/03 HPアップ
・2006/06/03 記述一部訂正・リンク追加
・2007/09/04 記述錯誤の訂正

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」(1990/北本市教育委員会) 

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