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本郭の台地西側縁部分に見られる高さ60センチほどの土塁跡。公園として利用され踏みあとのような遊歩道が郭内を錯綜しているためやや分かりにくくなっているものの、明らかに土塁と思われる地面の盛り上がりです。
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本郭北側の土塁状の地形を北側外部から眺めたもの。この手前部分の地形は一見腰郭のようにも見えますが、堤防工事の土取りのためかなり改変されているということです。
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左側が本郭の東側に所在する腰郭で通路部分は本郭を取り巻く堀跡と推定されています。
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西側の石戸城側から撮影した、永禄5年(1562)秩父・鉢形衆を率いた北条氏邦が石戸城を攻略するに際して築造したとされる東側の湿地帯の中の今も残されている 「一夜堤」で長さおよそ50mで幅は4mほどでした。石戸城の腰郭から丸見えの場所にあり、最低でも礎石を含む1000立方メートル以上の土砂の搬入・埋め立てが必要とされますので、まして合戦の最中に一夜で築くことはとてもできるものではありません。それにしても誰が何時何のために築造した土橋なのでしょうか、伝承は別にしてますます疑問が深まるばかりでした。
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湿地帯の蒲の一種と思われる水生植物が初冬の日差しを浴びて金色に輝いていました。
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かつて石土城を北と東側を防御していた天然の要害である湿地帯は現在は北本自然観察公園として野鳥や水生植物の群落として保全されています。「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」(1990/北本市教育委員会)では水濠としての可能性を示唆しています。
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梅沢氏の著書である「中世北武蔵の城」(2003/岩田書院刊)によれば大規模な南側の堀跡とされる地形ですが、一方「石戸城跡 第1次から第3次調査」(2002/北本市教育委員会)では郭跡と推定しています。現状の地形から見る限りは堀跡と見るほうが自然なのですが。また、「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」(1990/北本市教育委員会)では大井戸跡の存在も示唆しています。
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高さ2mほどの本郭東側に所在する物見櫓台と推定されている地形。写真の左側には民家が所在しその敷地内となっているため遠くから観察しました。
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台地南側の堀跡ですが、この部分は堀幅がかなり狭く現状では上幅でも5mもあるかどうかですが、写真の左側が民家の宅地部分となっていることから、埋め戻しなどにより幾分狭められたという可能性もあるかもしれません。
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西側の小口とされる付近に所在している石造物で、左からそれぞれ天明2年(1782)、宝暦12年(1762)、寛保3年(1743)、元文年間の記年銘が刻まれていました。
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「石戸城跡 第1次から第3次調査」(2002/北本市教育委員会)によると西側の小口跡とされている個所ですが、勿論大手口ではありえないと考えられ、また旧荒川の低地との関係で道がどう繋がっていたのかと疑問に感じます。
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石戸城南西に隣接する天神社で中世から石戸宿の鎮守とされていたということです。幾点か残存している近世の絵図にはこの天神社から南側の方向にかけて鎌倉街道との伝承もある道の両側に集落が立ち並んでいたことが記されています。
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南側の台地を堀切ったと考えられる最大幅40mにも達する大規模な堀跡ですが、現在はごくありふれた休耕中の畑にしか見えないかもしれません。現在の堀底となっている畑と手前の台地の比高差はおよそ2.5mから3mの個所もあります。
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