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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/12/12の日記  三ツ木城 武城
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態7 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯3 印象3 総合32
所在地
埼玉県北本市石戸宿6-57ほか
歴史と沿革

岩付太田氏の支城のひとつ
 「新編武蔵風土記稿」によれば、「城蹟 広さ4町ばかり、今は陸田となりて僅かに空堀の跡残れり、西は荒川を帯び、東より北へわたりては深田にして、南の一方のみ平地に続けり、...昔天神山の城と唱え、扇谷上杉氏家人八右衛門(藤田氏)と云人居りし所なりといえり」と記されています。「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」では、築城時期を大永年間とし藤田八右衛門を築城者と推定しています。
 「新編武蔵風土記稿」によれば大永5年(1525)岩付城主であった太田資頼は北条氏に内通した家臣の渋江三郎の謀反により居城の岩付城から石戸城へ移っていると記されています。しかし、最近の研究である黒田基樹氏の説によれば足利政氏の家臣であった本来渋江氏の居城であった岩付城を、北条氏綱と結んだ太田資頼が奪取して岩付太田氏の祖となったとしています。(「扇谷上杉氏と太田道灌」(岩田書院)「戦国期東国の大名と国衆」(岩田書院)など)
 その後永禄年間には北条氏康、上田朝直、太田資正らによる松山城の支配をめぐる戦いに際して太田氏の重要な向城とされていました。また、永禄6年(1563)2月には北条・武田の連合軍に取り囲まれた松山城の救援に向った上杉輝虎(謙信)がこの石戸城に到着したとされています。(「上杉輝虎書状」)

確認できる遺構
土塁、空堀、郭、櫓台ほか
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■大宮台地北西端の舌状台地先端部分に所在し、南北方向約250m、東西方向は南端部分で200m以上北端部分で140mの縦長の台形状となっています。南側を除く三方は比高差にして8m以上の低湿地に囲まれるという天然の要害を形成しています。唯一の弱点である南側の台地部分については現在も一部遺されている大規模な堀跡により防御していたものと考えられています。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「石戸城跡 第1次から第3次調査」(2002/北本市教育委員会)
「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」(1990/北本市教育委員会)   

文化財指定
埼玉県選定重要遺跡 1969年10月1日指定
訪城年月日
2005/12/12
訪城の記録

( 2005/12/12 )
知らずに通り過ぎると城跡とは思えないかも
 城郭跡に宅地や畑が点在しているため、城跡らしい遺構はそれほど目視することができません。予備知識が無い状態で車で城跡を南北に貫通する道路を通過した場合には、「そういえば何か切通しのような地形があったような...」という程度の記憶しか残らない可能性もあるのではないかと。事情によりこの道路を2回ほど往復することとなりましたが、事実2回目の帰りでは気がついたときには既に通り過ぎていました。しかし、徒歩で資料に基づいてじっくりと探索すると、自分のようなものでも朧気ながら当時の城跡の状況が浮かび上がってきます。
 城跡の南側を除く三方は現在でも低地がひろがり、郭のある台地との比高差は10m以上はあります。特に東側は現在でも水深不明の一見底なし沼のような湿地が広がっていますので当時ならばなおさらのこと完璧な難攻不落である天然の要害を形成しているといって差し支えないものと考えられます。
 そういう意味では、城攻めを行ったとされる北条氏邦の「一夜堤」の伝承が遺されていることに納得します。城郭の最大の弱点とされる台地続きの南側部分は、台地を堀切る大規模な空堀(堀切)が施されたと考えられ、現在でもそのほんの一部を見ることができます。堀幅は最も広いところで40メートルほどはあったものと思われ、その深さが判然としないものの相当な規模ではないかと推定されます。
 しかしあとからで気がついたことですが、これだけの規模の城郭の形態を残していながら、現地にはやや経年劣化した「一夜堤」の解説板以外には文化財であることを示す標柱なども所在していないことと、保存に向けての対応が余りなされていない様子が気になりました。

記念撮影

 石戸城の西側は天神下運動公園としてサッカー場が2面とれるくらいの広大なグラウンドとなっていますが、城跡の西側の土塁部分との比高差はおよそ8mほどです。しかしこのグラウンド部分は現在の東側と同様の旧荒川左岸の湿地帯であったとされていますので、こちらから攻め寄せることは不可能であったものと思われます。

( 2005/12/12 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■
 本郭の台地西側縁部分に見られる高さ60センチほどの土塁跡。公園として利用され踏みあとのような遊歩道が郭内を錯綜しているためやや分かりにくくなっているものの、明らかに土塁と思われる地面の盛り上がりです。
■2■
 本郭北側の土塁状の地形を北側外部から眺めたもの。この手前部分の地形は一見腰郭のようにも見えますが、堤防工事の土取りのためかなり改変されているということです。
■3■
 左側が本郭の東側に所在する腰郭で通路部分は本郭を取り巻く堀跡と推定されています。
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■4■
 西側の石戸城側から撮影した、永禄5年(1562)秩父・鉢形衆を率いた北条氏邦が石戸城を攻略するに際して築造したとされる東側の湿地帯の中の今も残されている「一夜堤」で長さおよそ50mで幅は4mほどでした。石戸城の腰郭から丸見えの場所にあり、最低でも礎石を含む1000立方メートル以上の土砂の搬入・埋め立てが必要とされますので、まして合戦の最中に一夜で築くことはとてもできるものではありません。それにしても誰が何時何のために築造した土橋なのでしょうか、伝承は別にしてますます疑問が深まるばかりでした。
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■5■
 湿地帯の蒲の一種と思われる水生植物が初冬の日差しを浴びて金色に輝いていました。
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■6■
 かつて石土城を北と東側を防御していた天然の要害である湿地帯は現在は北本自然観察公園として野鳥や水生植物の群落として保全されています。「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」(1990/北本市教育委員会)では水濠としての可能性を示唆しています。
■7■
 梅沢氏の著書である「中世北武蔵の城」(2003/岩田書院刊)によれば大規模な南側の堀跡とされる地形ですが、一方「石戸城跡 第1次から第3次調査」(2002/北本市教育委員会)では郭跡と推定しています。現状の地形から見る限りは堀跡と見るほうが自然なのですが。また、「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」(1990/北本市教育委員会)では大井戸跡の存在も示唆しています。
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 高さ2mほどの本郭東側に所在する物見櫓台と推定されている地形。写真の左側には民家が所在しその敷地内となっているため遠くから観察しました。
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 台地南側の堀跡ですが、この部分は堀幅がかなり狭く現状では上幅でも5mもあるかどうかですが、写真の左側が民家の宅地部分となっていることから、埋め戻しなどにより幾分狭められたという可能性もあるかもしれません。
■10■
 西側の小口とされる付近に所在している石造物で、左からそれぞれ天明2年(1782)、宝暦12年(1762)、寛保3年(1743)、元文年間の記年銘が刻まれていました。 
■11■
 「石戸城跡 第1次から第3次調査」(2002/北本市教育委員会)によると西側の小口跡とされている個所ですが、勿論大手口ではありえないと考えられ、また旧荒川の低地との関係で道がどう繋がっていたのかと疑問に感じます。
画像クリックで天神社の解説へ
■12■
 石戸城南西に隣接する天神社で中世から石戸宿の鎮守とされていたということです。幾点か残存している近世の絵図にはこの天神社から南側の方向にかけて鎌倉街道との伝承もある道の両側に集落が立ち並んでいたことが記されています。
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■13■
 南側の台地を堀切ったと考えられる最大幅40mにも達する大規模な堀跡ですが、現在はごくありふれた休耕中の畑にしか見えないかもしれません。現在の堀底となっている畑と手前の台地の比高差はおよそ2.5mから3mの個所もあります。
交通案内

・北本自然観察公園の南、天神下運動公園の東側の台地 MapFan Web の案内図です  

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