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史跡の名称
関連ページのリンク  2005/10/28の日記 
所在地
埼玉県北埼玉郡騎西町上崎1890
歴史と沿革

古河公方足利成氏が建立したと伝わる三体の宝篋印塔
上杉禅秀の乱
 足利尊氏の子足利基氏を初代とする鎌倉公方は第2代氏満、第3代満兼と代が変わるに従い室町幕府からの独立を志向していきます。そうした折、4代持氏の代になると応永23年から24年(1416-1417)前関東管領である上杉禅秀が持氏に対して下総の千葉兼胤、上野の岩松満純、甲斐の武田信満、佐竹、小田、大掾などの豪族とともに反乱を起こします。しかし、関東管領上杉憲基と幕府軍である今川氏の軍勢に挟撃され、禅秀は自害し乱は平定されます。
 しかし、足利持氏はこの機に乗じて禅秀の乱に加担した佐竹氏や幕府側の京都扶持衆である小栗満重や宇都宮持綱を攻め滅ぼしたために、幕府との対立が深まっていきました。
永享の乱
 永享10年(1438年)幕府との融和を優先する関東管領上杉憲実を討伐すべく挙兵した足利持氏は、将軍足利義教の命により差し向けられた幕府軍により敗北し翌永享11年(1439年)に鎌倉にて嫡子義人と共に自害しました。
結城合戦
 永享12年(1440)自害した持氏の遺児春王丸、安王丸を奉じた結城氏朝、小山氏、宇都宮氏、一色氏が幕府方に鎌倉公方の復権を掲げて反乱を起こしましたが、嘉吉元年(1441年)結城城の落城により結城氏朝は討死、春王丸、安王丸は殺害されました。
 しかし、結城城の落城後から2ヵ月後に起こった嘉吉の乱により第6代将軍足利義教が赤松満祐に暗殺され、信濃の大井持光に庇護されていた足利持氏の遺児である後の足利成氏が上野の岩松氏などの支援を得て鎌倉府の再興を画策し文安4年(1447年)成氏は鎌倉公方として復活します。
 その後、上杉氏との対立を背景とした享徳の乱(1454年)の発生により成氏は鎌倉を離れ初代古河公方となります。三体の宝篋印塔はその成氏により父持氏と夭逝した二人の兄のために造立されたと伝えられています。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「騎西町史通史編」(2005/騎西町)
「騎西町史考古資料編1」(2001/騎西町)
「騎西町史考古資料編2」(1999/騎西町)
「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)
「古河公方足利氏の研究」(佐藤 博信 著 1989/校倉書房刊)
「埼玉の指定文化財」(2002/埼玉県文化財保護協会)   

文化財指定
埼玉県指定文化財 1934年3月2日指定史跡
訪城年月日
2005/10/28
訪城の記録

( 2005/10/28 )
悲劇の持氏の息子たち
 永享の乱と、結城合戦により不本意な死を遂げた足利持氏とその遺児たちの宝篋印塔が所在する寺です。江戸時代の相撲の行司の墓を始めとして歴史的な文化財が多いようですが、やはりこの足利氏の宝篋印塔は埼玉県に指定史跡とされているだけあり、現在は小さいながらも御堂のなかに収容されて風化から守られていました。しかし、堂宇に守られた時期があったにせよ、外見上はどうみても約550年前からの風雪に耐えてきたものとは思えず、戦国時代の末期或は近世になってから追善供養されたものではないかなどと思うのですが。
 なお、境内の西側の墓地の奥に東西約30m、南北約80m、高さ1mほどの鍵の手状の盛り土が水路と並行して所在しているのですが、最近の工事関係の残土かなにかなのでしょうか。また、東側には三重堀などという地名も残り館跡に寺院が建立されることが多いことからも城館との関連が少し気になる寺院です。

記念撮影

 
 室町時代の形式とされる宝篋印塔で埼玉県の指定史跡。 後の初代古河公方足利成氏が永享の乱や結城合戦により敗れ父の持氏と幼くして亡くなった二人の兄のために造立したと伝えられている三体の供養塔。
 乱の当時の成氏は(永寿王丸、あるいは万寿王丸とも)は幼少であり信濃の大井氏に庇護され反上杉勢力の支持を受けて後に鎌倉公方として復権します。
 
( 2005/10/28 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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 この竜興寺には有名な三体の宝篋印塔のほかにも、虚空蔵菩薩、庚申塔、大相撲行司の墓、侠客の墓などが所在しています。
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 竜興寺の板碑は板碑自体に「文永八年 奉造立青石卒都婆」という板碑の別名が刻まれたもので当時におけるその名称と歴史を物語っています。(1937/03/31埼玉県指定史跡)
 
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 板碑の現地解説版。
 
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 「新編武蔵風土記稿」の上崎村の記述によれば、竜興寺を中興した開山曇芳(永享8年没)は足利持氏の伯父と伝えられており、寺には足利政氏(2代古河公方 1466-1531)、足利義氏(5代古河公方 1541-1583)の寺領の所領安堵状が遺されています。この「竜興寺文書」は1984年3月17日に騎西町有形文化財指定され、現在は県立文書館に寄託されています。
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 三体の宝篋印塔についての詳細な現地解説版。
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 三体の宝篋印塔が納められている堂宇。宝篋印塔には足利持氏の生年と符合する応永(1394-1428)と刻まれた銘があるとのことです。
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 墓地の西側にはこうした盛り土の跡がありますが、おそらくは最近の工事の盛り土なのでしょうか...。
交通アクセス

・県道308号線沿西側、多賀谷氏館跡の西方 MapFan Web の案内図です  

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