|
■1■「牛蒡」のバス停から
薄川沿いの集落の「牛蒡」バス停から塩沢の集落へ向う道路から塩沢城方面を撮影したものです。なお、左正面の山は標高500mほどの手前の尾根筋に相当するらしく、この位置からは直接塩沢城自体は眺望できないようです。
この地点から塩沢城までは直線距離で約2kmほどですが、「新編武蔵風土記稿」の薄村の条に掲載されている塩沢城の城跡の図と正に寸分違わない光景でした。
塩沢の集落の奥へ奥へと車を走らせ1300mほどすすむと民家の姿は消えまが、そこから、林道は反対側の谷へと移り巻き道となり幾分高度を上げてながらやがて神社の前で行き止まりとなります。なお、神社の位置は右側の山頂付近のようです。
|
|
■2■塩沢宇賀神社 小鹿野町指定有形文化財
林道は途中で2か所ほど分岐がありますが、いずれの場合も左側にすすめば神社の前に到達します。なおこの神社は長尾景春の伝承から、「長尾山稲荷神社」とも呼ばれているようです。
塩沢城を築いたとされる長尾景春が稲荷を信仰したとされたことから、天文3年(1534年)塩沢城入り口の現在の場所に祠が建立され、現在の社殿は、文政2年(1819年)に再建されたとのことです。(「小鹿野町のHP」を参考にしました)
|
|
■3■眷属の狐
左側の黒い石碑は塩沢宇賀神社が旧両神村の指定文化財であることを示すものです。「新編武蔵風土記稿」薄村の城跡の記述によれば、「...はじめ山を登ること5町(約500m)ばかりにして、東西10間、南北25間の平地あり、稲荷の小祠を安ず...」と記されています。現在でもその尾根筋から登る神社の参道は存在しているようで、概ねその距離も一致しているようです。また塩沢城までの距離も村の南麓から20町と記されかなり正確な調査が行われていた節があるようです。
|
|
■4■塩沢城への登口
10台くらいは駐車ができそうな綺麗に舗装された駐車場から細長く伸びている尾根筋を南西方向に黙々と登っていきます。
|
|
■5■このように岩尾根の中ほどに山道が刻まれていますが、枯葉の量がものすごく多いので大変に滑りやすい状態でした。尾根筋の両側の地形は「6」のような急斜面のため、両側の谷から登るのには相当の困難が伴います。
|
|
■6■急斜面
最初の平場の手前あたりから斜面の角度は40度から45度を示しすようになり、道はひたすら一本道で九十九折の登りとなっていきます。まさに「三歩すすんで二歩下がる」状態に陥り、登っている時間よりも休んでいる時間の方が長くなってしまいました。
|
|
■7■漸く見えた最初の平場
この先から城跡の遺構が次から次へと連続して出現します。「新編武蔵風土記稿」では、「...また8町ばかりを登りて東西2町余(約200m)、南北30間(約54m)ばかりの地あり...」というように郭跡らしき記述がなされています。
|
|
■8■標高600m付近に所在する最初の平場
ここから先があちこちに腰郭のような整形された斜面が点在し最大で東西200mほどの幅にそれらの遺構が広がりを見せていました。
このため踏み跡らしき存在は殆ど確認できなくなりどこからでもご自由にお登りくださいといった状態になります。従って登りの場合にはまず方向を誤るようなこともありませんが、下山の時は遺構の範囲から外れないように注意が必要です。事実、東側の谷沿いの方向へ途中まで下りかけてから、その誤りに気づいてまた尾根筋へと戻る羽目になりました。
|
|
■9■腰郭状の整形地
このような大小の腰郭または帯郭状の整形されたと思われる地形が、主郭までの距離にして300mほどのの間に十数か所以上も存在しているために、どこがどれやら次第に分からなくなってきました。この帯郭風の細長い整形地は主郭と推定される平坦地の二段ほど下方に位置しています。「新編武蔵風土記稿」の記述にある「東西1町余、南北5間余」の馬場に相当するのかもしれません。
|
|
■10■やっと見えた主郭 画像クリックで拡大
明らかに斜面を切落としたような地形であることが下方からでもはっきりと見て取れました。
|
|
■11■主郭
北東方向を撮影したものですが、土塁などの遺構は確認することができませんが、標高700m前後の平坦な尾根筋を更に削平したような感じのする平坦地で、広さは最大でそれぞれ南北35m、東西30m程度の広さがありました。おそらくは、「新編武蔵風土記稿」に「...東西20間余(36m)、南北25間(45m)の平地あり、このところを城跡と云...」と記されている個所に相当するようです。
|
|
■12■上方から眺めた主郭部分 画像クリックで拡大
梅沢氏の著書である「中世北武蔵の城」(2003/岩田書院刊)には、この主郭と推定されている個所の南西側に尾根筋と区分する8mの切落としが所在していると書かれているように読み取れるのですが、写真の示すようにそのまま尾根筋の斜面に繋がっているとしか見えませんでした。
|
|
■13■主郭上方の堀切または腰郭のような地形
|
|
■14■
主郭部分を過ぎると「13」の個所を経てふたたび尾根筋の登りとなり、比高差で15メートルほど登ると標高720mほどのやや幅10m奥行き25mほどの細長い平坦地に到着します。
ここでもう既にとりあえず主郭らしい場所まで来たので下山しようかとも思いましたが、せっかくここまできたので、残された気力を振り絞って石のようになってしまった重たい両足を引きずりながらもう少し先の様子を見に行くことに。
|
|
■15■鐘撞場への登り
画像で見るよりもはるかに急で登りがいのある比高差40mほどの尾根筋です。
|
|
■16■ここまでくればもうじき山頂
尾根筋の両側が切り立った斜面の痩せ尾根となりますが、樹木が多いのでたぶん転んでも何とか途中で止まりそうです。
|
|
■17■鐘撞場
「新編武蔵風土記稿」では「...東西7間余、南北20間余の地あり、この山の最高頂なり、土人鐘撞場と云えり、往昔物見など構えし處かと思わるるなり...」と記されている場所です。現実には余りにも山奥の中に所在しているために薄川の谷沿い対する物見台としての役割は果たせません。同じ物見台としての役割が果たせそうなのは、東側の四阿山あるいは写真「2」の塩沢宇賀神社の境内付近の方が向いています。
標高760mの山頂付近には明治期から大正期にかけて流行した山岳信仰関係の石碑や石祠がこのように所狭しと置かれていました。
|
|
■18■南西側の堀切部分かと
この段階で最早、「鐘撞場」の山頂からここを下ってまた登るという気力と体力が欠乏してしまい、途中まで降りたものの上方から撮影しただけであっさりと退却。
更に奥の四阿山方面の尾根筋を探索することも考えましたが、この鐘撞場の山頂に到着した時点で既に午後3時30分に。ここから先は更に難路を伴う標高986mの山頂を目指さねばならず、日没までの約2時間ほどの刻限と自分に残された体力を考慮して、今回はともかく安全を第一に最小限度の探索に留めることに。
|
|
■19■神社の駐車場付近から眺めた塩沢城方面
多分正面に見える山が塩沢城の方向だと思うのですが、南北方向は何とか眺望できるものの谷筋を上ってくるガスのため東西方向の見通しが悪くて...
|