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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/03/07の日記 鷹谷砦 奈倉館 要害山 長尾城 
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ5 交通利便4 体力消耗3 歴史経緯3 印象4 総合29
所在地
埼玉県小鹿野町大字両神薄字塩沢5600ほか
歴史と沿革

長尾景春の築城?
 長尾景春が築城したといわれ、鉢形が城落し後に日野城 ( 熊倉城あるいは高松城などとする諸説あり ) に転戦するまでの文明11年(1479)頃の間に居城したと考えられています。
 「新編武蔵風土記稿」でも記述されているように、南側の更に標高の高い尾根筋には相撲場(住居場)と呼ばれる城郭遺構らしきものが存在しているようです。また東側の小森川沿い四阿屋山の南麓には「夜討沢」と呼ばれる地名が伝えられ、鉢形城などから敗退した後にこの地に立て籠もった長尾崖春を山内上杉勢が奇襲したというような伝承が残されているということです。別名を「塩沢山」「塩沢砦」とも。

長尾景春(嘉吉3年-永正11年,1443- 1514)について
(「埼玉県史 通史編2中世」より抜粋引用)
 文明5年(1473年)、山内上杉氏の執事長尾景信が死去したがその嫡子である景春はその職を継承できず叔父の総社長尾忠景が任じられた。このとき長尾氏には総社・鎌倉・足利・白井の各氏が存在していたが景春の白井長尾氏が最有力となり祖父景仲、父景信と山内上杉氏執事職(上野守護代を兼ねる)が続いていた。このため景春はこの処遇に不満を抱き鎌倉を退去し本拠地の上野白井城に籠ったとされる。
 当時山内上杉氏は古河公方足利成氏と関東の派遣を巡って抗争状態にあったものの武藏の大半・上野・相模・伊豆を事実上支配し、その執事職は管領の代官として鎌倉府の政務に関与し国人一揆を統率し時として主家の山内上杉氏を凌ぐ実権を有していた。しかし、越後上杉氏から山内上杉氏を継いだ上杉顕定は白井長尾氏の勢力の拡大を抑えるため敢えて景春に執事職を継承させなかったとされている。

長尾景春の乱
(「埼玉県史 通史編2中世」より抜粋引用)
 文明8年(1476年)長尾景春は扇谷上杉氏の家宰太田道灌が今川氏の内紛を抑えるべく駿河に出兵した間隙を狙い同年6月鉢形城に兵をあげた。当時鉢形城は山内上杉氏の本拠上野平井城、扇谷上杉氏の拠点河越城、対古河公方戦略拠点の五十子陣などを分断する位置に所在し、その背後には古河公方との関係が深い安保氏を始めとする秩父郡内の景春与党が多く存在していた。
 景春は翌文明9年(1477年)五十子陣を急襲し上杉顕定、上杉定正、長尾忠景は上野に逃れ、これとともに相模、武藏などで景春の与党が一斉に蜂起した。しかし、太田道灌の活躍により武藏の豊島氏などを次々と平定し同年5月用土原にて景春方を破り、古河公方勢力の景春方への与同が行われたものの幕府との和睦の仲介を条件として古河公方足利成氏の介入を阻止した。
 文明10年(1478年)道灌は影春方の勢力を次々と屈服させ景春の本拠鉢形城を落としたが、景春一党は文明11年(1479年)9月頃から秩父郡で蠢動を見せたが、文明12年(1480年)6月24日に日野城(その具体的な所在地については諸説あり)の落城により景春の乱は終局を迎えた。
 なお、景春はこの後上杉定正側に帰属して、長享2年(1488年)の須賀谷原の合戦、明応5年(1496年)両上杉氏の抗争にもその名前が登場する。

確認できる遺構
郭、腰郭、帯郭、堀切?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■北側を薄川、南側を小森川という、いずれも両神山の東側を源頭部とした荒川上流の深い渓谷を刻む二つの支流に囲まれた峻険な山岳地帯に所在しています。城跡としての遺構は標高約600mから760m付近の尾根筋上あり、最大幅で約200m近く、延長にして550mほどの範囲で3ヶ所くらいの郭と十数か所の腰郭、帯郭などから構成されている比較的大規模な山城です。
 薄川沿いの麓の集落からは約2km程の距離を有するかなりの山深い山中に所在し、長尾景春の伝承をはじめとして、その後の後北条氏時代の永禄・元亀年間の上杉氏、武田氏との抗争のなかで戦略的にどのような役割を果たしていたのか分かりにくい山城です。

文化財指定
埼玉県選定重要遺跡 1976年10月1日 選定
訪城年月日
2006/03/07
訪城の記録

( 2006/03/07 )
ガスが発生...天候不良
 本日は天気予報によれば午後からは日が差すはずでしたが、午前中からの重たい感じのする曇天は相変わらずの状態。本格的に雨が降り出すまでには至らないものの、時々雨粒が落ちてくるような視界が1キロから2キロあるかどうかという厚い雲に覆われた見通しの良くない天候に。午前中の「鷹谷砦」で思いのほか時間を消費し、さらに一つ前の「要害山」で敢え無く退却しているため、やや天候や所要時間の関係上から厳しい条件となってしまいました。本格的な雨模様となりそうな気配が感じられないので、装備一式(鉈、鎌、ロープ60m、ヘルメット、懐中電灯、非常食料2日分、昼食の残りのお握り1個、ペットボトルのお茶1リットル、風を防ぐビニールシート、方位磁石2種類ほか)を確認して訪城開始。
 尾根筋の稲荷神社まで車で行けるのでかなり体力的には楽なはずと思ったのが大間違いで、稲荷神社の広い駐車スペースから最初の遺構らしき平場まで正味30分間ひたすら登りっぱなしで、膝はガクガク呼吸はゼイゼイ。そこから更に1時間近くかけて幾多の腰郭らしき平坦地を乗り越え乗り越え、主郭と推定される比較的広い杉林に覆われた削平地に到着。また更に、そこから鐘撞場と伝わる山岳信仰関係の石碑が大量に祀られている標高760メートルの山頂まで登ったのでもうフラフラに。山岳信仰の石碑が大量に祀られた山頂で持参のお握り1個を食べ、気温の低下で自然に冷えたペットボトルのお茶を呑んで一心地ついてから下山を開始。うずたかく積もった枯葉の斜面は登る時も足に力が入らず難航しましたが、下りも実によく滑ってしまい合計にして3回も転倒。
 谷沿いにガスが上がってきているのが初めから気にはなっていたことと、最初の平場より上の部分から稜線の幅が広がっているので、要所要所に持参の黄色いテープを枝に付けさせてもらっていたことが結果的に役立ち、多少ガスに巻かれつつも最初の平場まで1度コースを外した以外には大きな問題もなく無事神社の駐車場に到着。更に奥の四阿山方面の尾根筋を探索することも考えましたが、鐘撞場の山頂に到着した時点で既に午後3時30分に。ここから先は更に難路を伴う標高986mの山頂を目指さねばならず、日没までの約2時間ほどの刻限と自分に残された体力を考慮して、今回はともかく安全を第一に最小限度の探索に留めることに。

記念撮影


 「城の平」と呼ばれる塩沢城の主郭部分と推定されている個所は標高700m弱の尾根筋の削平された感じのする平坦地で、広さは最大でそれぞれ南北35m、東西30m程度の広さがありました。途中3ヶ所ほど樹木にペイント塗装の目印がありましたが、大分古そうなこともありこの天候では見落とす可能性の方が大きいように思われました。そうこうしている内に谷沿いの視界は悪化の一途を辿り、持参した目印用の黄色いテープが大活躍することに。
 写真は主郭の北西部の先端部分。

( 2006/03/07 撮影 厚曇り )
訪城アルバム
■1■「牛蒡」のバス停から
 薄川沿いの集落の「牛蒡」バス停から塩沢の集落へ向う道路から塩沢城方面を撮影したものです。なお、左正面の山は標高500mほどの手前の尾根筋に相当するらしく、この位置からは直接塩沢城自体は眺望できないようです。
 この地点から塩沢城までは直線距離で約2kmほどですが、「新編武蔵風土記稿」の薄村の条に掲載されている塩沢城の城跡の図と正に寸分違わない光景でした。
 塩沢の集落の奥へ奥へと車を走らせ1300mほどすすむと民家の姿は消えまが、そこから、林道は反対側の谷へと移り巻き道となり幾分高度を上げてながらやがて神社の前で行き止まりとなります。なお、神社の位置は右側の山頂付近のようです。
■2■塩沢宇賀神社 小鹿野町指定有形文化財
 林道は途中で2か所ほど分岐がありますが、いずれの場合も左側にすすめば神社の前に到達します。なおこの神社は長尾景春の伝承から、「長尾山稲荷神社」とも呼ばれているようです。
 塩沢城を築いたとされる長尾景春が稲荷を信仰したとされたことから、天文3年(1534年)塩沢城入り口の現在の場所に祠が建立され、現在の社殿は、文政2年(1819年)に再建されたとのことです。(「小鹿野町のHP」を参考にしました)
■3■眷属の狐
 左側の黒い石碑は塩沢宇賀神社が旧両神村の指定文化財であることを示すものです。「新編武蔵風土記稿」薄村の城跡の記述によれば、「...はじめ山を登ること5町(約500m)ばかりにして、東西10間、南北25間の平地あり、稲荷の小祠を安ず...」と記されています。現在でもその尾根筋から登る神社の参道は存在しているようで、概ねその距離も一致しているようです。また塩沢城までの距離も村の南麓から20町と記されかなり正確な調査が行われていた節があるようです。
■4■塩沢城への登口
 10台くらいは駐車ができそうな綺麗に舗装された駐車場から細長く伸びている尾根筋を南西方向に黙々と登っていきます。
■5■このように岩尾根の中ほどに山道が刻まれていますが、枯葉の量がものすごく多いので大変に滑りやすい状態でした。尾根筋の両側の地形は「6」のような急斜面のため、両側の谷から登るのには相当の困難が伴います。
■6■急斜面
 最初の平場の手前あたりから斜面の角度は40度から45度を示しすようになり、道はひたすら一本道で九十九折の登りとなっていきます。まさに「三歩すすんで二歩下がる」状態に陥り、登っている時間よりも休んでいる時間の方が長くなってしまいました。
■7■漸く見えた最初の平場
 この先から城跡の遺構が次から次へと連続して出現します。「新編武蔵風土記稿」では、「...また8町ばかりを登りて東西2町余(約200m)、南北30間(約54m)ばかりの地あり...」というように郭跡らしき記述がなされています。
 
■8■標高600m付近に所在する最初の平場
 ここから先があちこちに腰郭のような整形された斜面が点在し最大で東西200mほどの幅にそれらの遺構が広がりを見せていました。
 このため踏み跡らしき存在は殆ど確認できなくなりどこからでもご自由にお登りくださいといった状態になります。従って登りの場合にはまず方向を誤るようなこともありませんが、下山の時は遺構の範囲から外れないように注意が必要です。事実、東側の谷沿いの方向へ途中まで下りかけてから、その誤りに気づいてまた尾根筋へと戻る羽目になりました。
■9■腰郭状の整形地
 このような大小の腰郭または帯郭状の整形されたと思われる地形が、主郭までの距離にして300mほどのの間に十数か所以上も存在しているために、どこがどれやら次第に分からなくなってきました。この帯郭風の細長い整形地は主郭と推定される平坦地の二段ほど下方に位置しています。「新編武蔵風土記稿」の記述にある「東西1町余、南北5間余」の馬場に相当するのかもしれません。
画像クリックで拡大します
■10■やっと見えた主郭 画像クリックで拡大
 明らかに斜面を切落としたような地形であることが下方からでもはっきりと見て取れました。
■11■主郭
 北東方向を撮影したものですが、土塁などの遺構は確認することができませんが、標高700m前後の平坦な尾根筋を更に削平したような感じのする平坦地で、広さは最大でそれぞれ南北35m、東西30m程度の広さがありました。おそらくは、「新編武蔵風土記稿」に「...東西20間余(36m)、南北25間(45m)の平地あり、このところを城跡と云...」と記されている個所に相当するようです。
画像クリックで拡大します
■12■上方から眺めた主郭部分 画像クリックで拡大
 梅沢氏の著書である「中世北武蔵の城」(2003/岩田書院刊)には、この主郭と推定されている個所の南西側に尾根筋と区分する8mの切落としが所在していると書かれているように読み取れるのですが、写真の示すようにそのまま尾根筋の斜面に繋がっているとしか見えませんでした。
■13■主郭上方の堀切または腰郭のような地形
■14■
 主郭部分を過ぎると「13」の個所を経てふたたび尾根筋の登りとなり、比高差で15メートルほど登ると標高720mほどのやや幅10m奥行き25mほどの細長い平坦地に到着します。
 ここでもう既にとりあえず主郭らしい場所まで来たので下山しようかとも思いましたが、せっかくここまできたので、残された気力を振り絞って石のようになってしまった重たい両足を引きずりながらもう少し先の様子を見に行くことに。
■15■鐘撞場への登り
 画像で見るよりもはるかに急で登りがいのある比高差40mほどの尾根筋です。
■16■ここまでくればもうじき山頂
 尾根筋の両側が切り立った斜面の痩せ尾根となりますが、樹木が多いのでたぶん転んでも何とか途中で止まりそうです。
 
■17■鐘撞場
 「新編武蔵風土記稿」では「...東西7間余、南北20間余の地あり、この山の最高頂なり、土人鐘撞場と云えり、往昔物見など構えし處かと思わるるなり...」と記されている場所です。現実には余りにも山奥の中に所在しているために薄川の谷沿い対する物見台としての役割は果たせません。同じ物見台としての役割が果たせそうなのは、東側の四阿山あるいは写真「2」の塩沢宇賀神社の境内付近の方が向いています。
 標高760mの山頂付近には明治期から大正期にかけて流行した山岳信仰関係の石碑や石祠がこのように所狭しと置かれていました。
■18■南西側の堀切部分かと
 この段階で最早、「鐘撞場」の山頂からここを下ってまた登るという気力と体力が欠乏してしまい、途中まで降りたものの上方から撮影しただけであっさりと退却。
 更に奥の四阿山方面の尾根筋を探索することも考えましたが、この鐘撞場の山頂に到着した時点で既に午後3時30分に。ここから先は更に難路を伴う標高986mの山頂を目指さねばならず、日没までの約2時間ほどの刻限と自分に残された体力を考慮して、今回はともかく安全を第一に最小限度の探索に留めることに。
■19■神社の駐車場付近から眺めた塩沢城方面
 多分正面に見える山が塩沢城の方向だと思うのですが、南北方向は何とか眺望できるものの谷筋を上ってくるガスのため東西方向の見通しが悪くて...
交通案内

・県道279号線の薄地区牛蒡集落のバス停から塩沢集落を経て塩沢宇賀神社を目指す。神社からは尾根筋の一本道。
・所要時間は上り80分、下り50分で比高差は250mほど
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)、
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)、
「小鹿野町のHP」より 

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