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関連ページへのリンク  2007/02/12のブログ  2006/03/07の日記 鷹谷砦 奈倉館 塩沢城 
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態5 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯1 印象4 総合25
所在地
埼玉県秩父郡小鹿野町三山
歴史、人物、伝承

戦国時代の砦跡か
 「新編武蔵風土記稿」の三山村の項には「要害山」の記述があります。その名称から城砦跡の可能性を窺わせているものの、単に名峰のひとつとして記述されていると見ることもできます。具体的な城趾などの由来についての記述は「鷹谷砦」と同様に記されてはいません。
 また、「秩父風土記」では三山村の項に、「二子山毘沙門山にて三山村という 三山五郎兵衛居跡、斉藤新左衛門」居跡。永禄13年午年(※原文のまま 史実は永禄12年とされているようです)の軍北条氏邦候の方にては諏訪部遠江守、出浦式部、久長但馬守、井上三河守、三山五郎兵衛、嶋村近江守、日野二郎三郎、蒔田彦五郎、猪俣能登守、三千人出浦式部抜馳にて甲州勢敗北、然れども軍例を背候に付北条家追放薄村に居住す、斉藤新左衛門討死す、合戦の地今に軍平という信玄落行し所を法師落という」と詳細な記述がなされています。
 また、このうち出浦氏、齋藤氏に関しては北条氏邦の感状が伝わっています。武田信玄が落ち延びた「信玄落行」や北条勢「三千人」の記述の真相は別として、この山間の狭隘な地を舞台に合戦が行われた可能性を示すエピソードとして注目に値します。
 西北西に位置する「鷹谷砦」の存在や、この永禄12年(1569)の武田氏と後北条氏の戦いの場となったことなどから推定すると、やはりその当時における後北条氏方の物見などの城砦跡の一つと考えるのが妥当のように思われます。

確認可能な遺構
平場(郭)?、堀切、竪堀?
地理的特徴

標高615mの独立峰
 武甲山と並び称される秩父の名峰である標高1723mの両神山から東側に派生した北側を赤平川、南側を薄川に挟まれた東西方向に長大な尾根筋に所在しています。標高615mの山頂付近が城砦跡で、西北西に所在する「鷹谷砦」(標高504m)と相互に補完し合いながら、北側の赤平川沿いの上野・信濃へ通じる志賀坂峠からの往還を監視する役割を担っていたものと推定されます。
 また西方約400m付近には三山と薄の集落を結ぶ戸蓋峠が所在し三山方面だけではなく、薄川沿いの塩沢城や薄地区方面およびこの峠道を合わせて監視できるという絶好の立地条件を備えているとものと考えられます。

文化財指定
訪城年月日
2006/03/07、2007/02/12
訪城の記録 記念撮影

( 2006/03/07 )
峠への登り道消失..茫然自失
 「埼玉の中世城館跡」に記された戦国時代の山城らしいという記述と、国土地理院の2万5千分の1の地形図だけがたよりという甚だ寂しい情報量。鷹谷砦の南東1kmほどの目と鼻の先に所在し、地図上では要害山の西側の鞍部になる戸蓋峠への里道が記されているものの現地では途中消滅の形跡。建設関係の資材置き場なども所在し地形がかなり変わっていることも影響しているかも知れないのですが、何ヶ所か道らしきものを進んで50mほど高度を上げては見たものの通行止なども含めていずれも西側の小さな谷筋の手前で消滅。おまけに途中の道は土石流の発生で崖の崩落が進行中の模様。どうやらこの三山と両神の薄を結ぶ徒歩で1時間ほどの古い峠道は、近年の周辺の自動車道の整備により不要になってしまったものと思われます。
 したがって、残り時間の関係もあり時間に余裕のあるときに再度挑戦することとして、登頂を断念し麓からしげしげと観察して訪城終了することに。比高差は270mほどで多少斜面の傾斜があるものの、よっぽどのことがない限りはおそらく1時間前後で登頂可能な地形に見えるのですが..道が無いので相当に難航する可能性が大かと。後日、小鹿野町役場の担当課に問い合わせたところでは、残念ながら当方が現地で確認した以上の情報は入手できませんでした。峠道なので今度は薄川沿いの南側から攻めてみるのもひとつかとも考えたのですが、やはり道は消失しているとの情報でありました。。

( 2007/02/12 )

進むべきか戻るべきか..進退は如何に
 単独での入山にはルートが不明なことと体力の欠乏などかなりの問題が。このため今回は儀一殿(「赤服の紳士」「儀一の城館旅」管理人さん、「直登」と「地形図読取」の達人)に同行いただくことに。国道299号線の要害山の麓には、所要時間にして1時間40分ほどで午前8時20分頃に到着。三山地区の大鷹神社の境内に駐車させていただき、午前8時30分頃より早速攻城開始。
 ここで登攀ルートは2通りの選択肢が。ひとつは斜面崩落の現場を通り抜けて戸蓋峠への旧道を探しつつ比高差150mを直登するルート。もうひとつは儀一殿の収集した地元の方の情報による西側尾根筋からのルート。
相談の上、とりあえずは前者のルートで行ってみることに..然しこれが最後は尾根筋に這い上がるべく、斜面にしがみつくような登攀となった次第。
 さて、這い上がった尾根筋上からは双子山、毘沙門山、鷹谷砦が一望に。尾根筋からは東京電力の送電線の鉄塔の構築に伴う標識に沿って東側へと進むのがベストであることが後に判明。しかし、この時点では尾根筋沿いにそのままピークを超えてひたすら前進。次第に道が曖昧となったものの、戸蓋峠の手前の山腹から目的地の要害山を眺望できるベストポイントを発見(嬉)時刻は未だ午前11時だったものの、この要害山を目前にした絶景ポイントにて暫し早めの昼食と休憩を。
 この場所より戸蓋峠の所在すると思われる鞍部目指して移動開始。ちょっとした藪こぎの後に、まもなく10分ほどで峠状の地形に到着。三山地区と、薄地区(旧両神村)をつなぐ大切な生活道路としての峠道も林道などの建設によりいまやほぼ廃道となっている様子が明確に。また、この尾根筋全体は岩盤自体がある程度脆い性質のようで各所で崩落個所を見ることに。峠の南側には2体の安永年間(18世紀末)の紀年銘が刻まれた今や首なしと化した地蔵尊が2本の大杉の根元にひっそりとおいでになりました。手前に転がっていた白いペンキで塗装された小さな角材を見てみると幸い「戸蓋峠」の3文字が明瞭に記述。このため地蔵尊の間にこの元標識を立て直して、あらためてお参りを。
 峠の東西はかつて開墾されたとのことで、やたらに尾根幅が広くかつ平坦な地形を形成。このような地形で西側からの進入を阻止できるものかと疑問が湧くことに。しかし、その疑問は山頂への尾根筋を辿るに従い氷解。
何と幅60から80cm、長さにして20mほどの「蟻の戸渡」上の地形が存在。このため山頂に近づくものを断固として拒絶するという光景が目前に展開。さらにその一部分の5mほどの距離は幅約40センチ弱。加えて北側は現在崩落が進行中で、かつオーバーハングした地形。おまけにこの部分のみ摑まるべき木の枝が皆無。
昨日のような季節風の強い日ならば渡ることさえ躊躇する可能性のある明らかな危険地帯。
どちらに転落しても間違いなく運がよくても15mほどは滑落し、木の枝などに引っかかれば儲けものといった按配にて。生命の危険とはこういう状況を指すものやも知れずなどと納得を。仮に一列縦隊で慎重に攻め登ったとしても、石礫数個で何人も転落することは必定かと。
 要害山の山頂は石祠の所在するネコの額のように狭い部分と南側の幅6m、長さ20mほどの平場状の地形が存在。両者の間には「堀切」というには些か頼りない窪地が存在。始めに北東側の尾根筋から探訪。山頂の4mほど直下には約3坪ほどの明らかに人工的要素を思わせる平坦地が所在。志賀坂峠の往還を監視するには妥当な条件。然し如何せん風の影響をまともに受けるため小屋掛けが可能かどうかの疑問も。さらにその場所より一段下には腰郭状の狭い平坦地も所在し、そこからやや下った個所にも同様の平坦地を確認。
然し、堀切などの地形の名残りを確認するまでには至らず。
 一方山頂の南側の平場状地形から続く小口のような岩場をやや下った南東方向に伸びる尾根筋に、唯一「堀切」「竪堀」(南側のみ)と見ても差し支えのないような地形が所在。またその下方にも自然石の巨岩が天然の防御ラインを構成し、細長いやや傾斜のある平場へと続いておりました。
 さて、帰路は再び「蟻の戸渡」を恐る恐る渡り終え、斜面の崩落などの個所を慎重にすすみつつ送電線の保守のための道を西へと戻り、送電線の鉄塔が所在する尾根筋の明確なルートへと合流。
再び「二子山」「毘沙門山」「鷹谷砦」を一望にしつつ、異常な暖冬のため霜解けの始まった滑りやすい尾根筋の九十九折のルートを一気に降下し、谷を渡って元の林道へと無事復帰。

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要害山山頂西側の崩落地帯強風・雨天時注意
( 2007/02/12 撮影 )
訪城アルバム
2006年3月7日(厚曇りで霧雨模様)
■1■要害山遠望(第1の関門)
 赤平川に架かる皆本橋の上から撮影したもので、以前は国土地理院発行の2万5千分の1の地図にも掲載されている三山と薄地区を繋ぐ古い峠(戸蓋峠)道が所在していたはずなのですが。一応「新編武蔵風土記稿」では「とふだ峠 村の南の方登り18町、絶嶺村界にして、薄村に至れる峰なり」と記されていましたので古い峠道であったと推測されます。
 国土地理院の地図によれば古い峠道は赤平川の支流であるミナモト(皆本)沢を越えるように記されています。しかし、土石流のために消失したのかその付近には渡るべき橋がどうしても見当たりません。
■2■土石流の爪跡(第2の関門) 崩壊規模はおよそ幅20m高さ50mほど
 しかたなく鷹谷砦に向う登口からミナモト沢の林道に沿って遡上すると、対岸の道路に渡るコンクリート製の橋を見つけました。しかし目の前には崩壊して間もない斜面と流れ落ちた土石流の一部がミナモト沢の下流に残されていると云う光景が。けっして能天気にして崩壊した斜面をのんびりと撮影していたのではなく、撮影中にも細かい砂礫や土がパラパラと...とりあえずヘルメット着用してから足早に危険個所を退避して先へとすすんでいきました。
■3■林道は通行止め(第3の関門)
 崩壊した斜面を東側へと回りこむと峠の方向にむかってこの林道が築造されていたので一安心したのもつかの間で、この先で林道は通行止めに。迂回路も、踏み跡さえも全く見当たりません。周囲を見渡すと左下のあたりに墓地が所在するのでその付近からの道をあらためて探してみたものの全て途中消滅行き止まりに。
 このあと林道の通行止めを迂回して正面の杉林を抜けて、戸蓋峠へとつづく小さな谷筋を横断する個所まではルートを確認。しかしこの辺りでは既に踏み跡は殆ど確認できず、現状の天候やこの後の塩沢城での時間配分を考慮してやむなく要害山訪城を中断を決定。
■4■国道299からの要害山
 正面に見える樹林帯の左側から谷筋に沿って戸蓋峠方面に這い上がるのが一つのルートであるかもしれません。岩場は外見上からは確認できませんが全く道が無いので、比高差にして150m分くらいは生茂る潅木の枝とに摑まりながらの急斜面との壮絶なバトルが予想されます。なお、写真左下の「12.4」という標識は「国道299号線志賀坂峠まであと12.4km」という意味のようです。
■5■古鷹神社
 要害山北西の赤平川対岸の間明平(まみょうだいら)地区に所在する神社で
、境内の樹齢400年から500年と推定されている大杉は小鹿野町の指定天然記念物(1973/01/10指定)。かつては向って右側にも目通り6m以上の大杉があったようですが現在は左手のものを含めて3本が残されていました。
 高さ40メートルを超えるこれらの大杉は、450年ほど昔に行われたこの三山谷での北条氏と武田氏の戦いを見つめていたのでしょうか。「新編武蔵風土記稿」では「諏訪社 小名間明平の鎮守」と記されているものがこの神社に相当するのかもしれません。
■5■要害山
 小鹿野町役場や国土地理院の2万5千分の1などの情報を総合すると、どうやらこの送電線の鉄塔が建てられている山が要害山のようです。(追記 鉄塔部分は要害山手前の尾根筋の一部で、山頂はさらに比高差100の個所でこちら側からは直接眺めることはできないようです -2007/05/29- )北側の斜面には垂直に近く切り立った岩場があちこちに見え隠れしています。登口は多分右手の峠となった方からアプローチするのが良さそうなのですが、土石流の跡や通行止めやらで進路を阻まれ最終的に断念しました。

訪城アルバム
2007年2月12日(快晴・微風)
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凸1 鷹谷砦(標高504m)
 登攀にあたりルートは2通りの選択肢が。ひとつは斜面崩落の現場を通り抜けて戸蓋峠への旧道を探しつつ比高差約150mを直登するルート。もうひとつは儀一殿の収集した地元の方の情報による西側尾根筋からのルート。
峠の尾根筋は麓からでも確認できる明瞭な地形を形成。
凸2 斜面との戦い
 2人で相談の上、とりあえずは前者のルートで行ってみることに..然しこれが最後は尾根筋に這い上がるべく斜面にしがみつくような登攀となっていったのでありました。
この辺りは当方でも未だ余裕が..
 然しこのあと斜面は次第に傾斜を増し、足元は崩れ、やっとの思いで掴んだ枝は折れる..とても写真など撮影している余裕など..

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凸3 這い上がってきた谷筋
 足場も枯葉が積もったガレ場に近いような状態で、摑まるべき木の枝も枯葉などが多く難渋。膝に余り踏ん張りが利かない体質の当方は、此処で2度ほどずり落ちる羽目に。
一方「直登の達人」である儀一殿はといえば、何ほどのこともないように確実に這い上がっていく様子。改めて体力の衰えと年齢の格差を切実に痛感。
凸4 二子山
 結果的には下山ルートとして利用した後者が勿論大正解なのであります。
 漸く這い上がった尾根筋上からは二子山、毘沙門山、鷹谷砦が一望に。特に上州境に屹立する双子山はネコの耳のような尖った2つの山頂からなる独特の地形を形成。
このためネコ好きの親父にとっては、まさに「ネコ岳」と命名したくなるような愛らしさを感じてしまうのであります。

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凸5 要害山遠景 その1
 辿りついた尾根筋からは東京電力の送電線の鉄塔の構築に伴う標識に沿って東側へと進むのがベストであることが後に判明。しかし、この時点ではルート不案内のため、尾根筋沿いにそのまま標高583mのピークを超えてひたすら東側へと前進。
凸6 要害山遠景 その2
 次第に道が曖昧となったものの、戸蓋峠の手前の山腹から目的地の要害山を眺望できるベストポイントを発見(嬉)時刻は未だ午前11時だったものの、この要害山を目前にした絶景ポイントにて暫し早めの昼食と休憩を。
 右端に見えるのは秩父の武甲山。


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凸7 戸蓋峠東側
 ことによると「堀切跡かも知れず」などと半ば冗談で記念撮影したまでのことにて。かつては農耕地として利用されていた時期があるとのことで、日当たりの良い峠の周辺は緩慢な傾斜が広がる削平地の様相を呈しておりました。峠の南北の方向には一応は夫々明確な峠道が残されていましたが、途中で消滅崩落している可能性がありそうでした。
凸8 戸蓋峠のお地蔵さん
 戸蓋峠の大木の陰には2体のお地蔵さん(たぶん)の石像が南側の薄地区を向いて安置されておりましたが、長年の風雪のためか首なし地蔵と化しておりました。
 「新編武蔵風土記稿」にも「とふだ峠 村の南の方登り18町、絶嶺村界にして、薄村に至れる峰なり」と記された古い峠道です。

凸9 戸蓋峠東側の平坦地
 峠の東側にはこのような城跡には相応しくない平坦地が距離にして200m近く続いています。この550m前後の標高を有する場所で耕作するとしたら、その土地柄からやはり桑畑ということになるのかも知れません。
凸10 幾分険しい地形が
 峠からの平坦地が途切れて幾分痩尾根状の山岳地形となりますが、この時点ではそのすぐ先に難所が待ち構えているとは予想だにせず。

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凸11 山頂側から見た西側の難所
 痩せ尾根の極限状態のような難所の距離は40m足らずですが、強風時や雨天、霧などの時には確実にかなりの危険を伴います。どちらの方向に落ちても、まず無事である可能性はゼロかと。運よく木の枝にでも引っかかってくれればラッキーかも知れず。たまたまこの日は風もほとんど無いような穏かな冬晴れという天候なので助かりました。
凸12 ここまでくれば一安心
 戸蓋峠から要害山の山頂までは直線にして約400mほどの距離で比高差は僅か70mほどに過ぎませんが、まさか左のような難所が待ち構えているとは思いもよりませんでした。然し復路は再度この個所を通過せざるをえない訳で..

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凸13 腰郭状の削平地
 始めに北東側の尾根筋を探訪。山頂の4mほど直下には、このような約3坪ほどの人工的要素を思わせる平坦地が所在。志賀坂峠への往還を監視するには極めて妥当な立地条件。然し如何せん風の影響をまともに受けるため小屋掛けがなどが可能かどうかという疑問も。
さらにその場所より一段下にも腰郭状の狭い平坦地が所在し、そこからやや下った個所にも同様の平坦地を確認。
然し、北東側の尾根筋には堀切などの地形の名残りを確認するまでには至らず。
凸14 南側の山頂部分
 北側の山頂と比べて幾分幅6m長さ20mと南北方向に細長い形状をしていますが、画像のように小屋がけするには北風がまともに吹きつける環境なので些か無理がありそうです。
 画像中央部分の凹状地形が気になりますが、およそ1mほどの幅しかありませんので堀切と見るには微妙な印象です。

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凸15 尾根筋の自然石
 自然石とはいえ、痩せ尾根の中央に鎮座しているため城方にとっては格好の防御施設になるかと思われます。
凸16 堀切と竪堀か
 山頂の南側の平場状地形から続く小口のような岩場をやや下った南東方向に伸びる尾根筋に、唯一「堀切」「竪堀」(南側のみ)と見ても差し支えのないような地形が所在しています。

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凸17 南東側の平坦地
 南東側の堀切状地形の先にはこのような細長い平坦地が所在していましたが、平場あるいは郭状地形と呼ぶべきか迷うところであります。小屋がけするには適当な広さを有しておりました。
凸18 北側山頂の石祠
 戸蓋峠の首なしのお地蔵さんでもお参りを。勿論こちらでも復路の安全を祈願して丁重にお参りせずにはいられない心境なのでありました。

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凸19 行きも怖いが帰りも
 帰路は再びこの「蟻の戸渡」を戻らねばならず、バランス感覚の欠如した小生の場合には、10回くらい往復すれば確実に1回ぐらいは転落しそうな按配にて。
 このあと戸蓋峠からは往路とは別の送電線の保守のための道を西へと戻り、途中斜面の崩落などの個所を慎重に進んで送電線の鉄塔が所在する始めの尾根筋の明確なルートへと合流。
凸20 双子山
 標高は西岳(左側)1165m、東岳1122mの標高を有しますが、どう見ても「猫の耳」に見えてしまうのでありました。登山ガイドを見ると、真ん中の俣峠から夫々往復所要時間は100分と80分(鎖場つき)とのこと。これがもしも城跡だとしたら、とても困るのであります。

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凸21 佳景
 再び「二子山」「毘沙門山」(白石山)「鷹谷砦」を一望にしつつ、異常な暖冬のため霜解けの始まった些か滑りやすい状態となった尾根筋を下山。
凸22 九十九折
 比較的緩やかな尾根筋は途中から次第に傾斜を強めて九十九折のルートとなり、脚の方が勝手に前へと進み一気に降下していきます。小さな谷を渡って元の林道へと無事復帰。

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凸23 ミナモト沢の支流
 ミナモト沢の増水時には渡るべからずという印象ですが、冬場の渇水期ならばご覧のように石の上を歩いて渡れます。

凸24 要害山の本来の登り口
 要害山へのルートは、このガードレールの途切れた「黄色の矢印」の部分から沢に下りて対岸へと渡り、小さな谷を横断して尾根筋に取り付いていきます。

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凸25 ミナモト沢の崩落現場
 土石流の発生した斜面の崩落現場では、折から小さな落石が発生中でありました。カラカラと小さな落石の発生と共に、時折岩盤が割れるような「ピシッ」という異音も耳にすることになり対岸とはいえ現場から早々に撤退。
凸26 要害山遠望
 皆本橋から見上げた要害山でここから眺める限りではあのような難所が待ち構えていようとは予想だにせず。
 今回は待ち合わせ時間に遅刻するなどのハプニングも。その殆んどが概ね当方の責任によるものにて。単独行ではおそらく1年前と同様に途中で引き返した可能性が濃厚。同行いただいた儀一殿に改めて感謝申し上げる次第。

交通案内

・黒海土バイパス前の交差点から国道299号線を志賀坂峠に向うと左側に東京電力の「新秩父開閉所」という名称の大規模な変電所が所在します。その後ろ側(南側)の送電線の鉄塔が見える個所のさらに奥の山が標高615メートルの要害山。
・所要時間は上り約90分、下り約60分くらいで、比高差は270mほど。
山頂の西側部分は痩せ尾根の両側が崩落し、「蟻の戸渡り」状の地形が続くため危険性は大。とくに強風・雨天時はかなり危ないので慎重な行動が求められます。

■もしもこのHP情報を元にしておいでになる場合には次のことが重要なポイントとなります。

①必ず西側の沢を横断する比較的安全なルートから入山するとともに、登山道が不明なときには地元の方に失礼のないようにお聞きすること。なお、2007年2月の時点で崩落中の個所は少なくとも3ヶ所ほど存在しますので一定のリスクを伴います。
②戸蓋峠までの間が尾根筋が広がり些か道に迷いやすいので注意が必要なこと。
③最低でも軽登山靴、厚手の棘が刺さっても大丈夫な手袋、地形図、非常食料、応急手当用品、飲料水、方位磁石のほか必要に応じてザイル一式などの登山装備が必要
④山頂西側の 「蟻の戸渡」部分は、現在でも崩落中なので雨の後や強風時には引き返すことも含めて自重すること。
⑤所要時間は休憩時間を含めて往復3時間ほどですが、中級程度の登山経験を有することが求められます。また探索時間はこれ以外に1時間ほどの余裕を見ておいた方が良いようです。(「高所恐怖症」の方はご遠慮を)
転落事故を含む一定の危険性が確実に伴います。然しどうしてもお出かけになるという場合には可能な限り情報をご提供いたしますが、当地での事故に関する責任は一切負いかねます。
⑦管轄する役場では必ずしも正確な情報を掴んでいない可能性がありますので、最新の情報は現地にて地元の方に直接お聞きするのが最も安全で確実であると思われます。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 秩父郡三山村(さんやまむら)の項に、「要害山 村の南にあり、登ることおよそ19町」と記されていますが、「瀧ノ澤山」「毘沙門山」「戸蓋峠」などの山岳地名とともに列記されているに過ぎません。その名称からは如何にも城砦跡の可能性を窺わせているものの、中世城郭遺構であるかどうかについてはその由来なども含めて具体的記述はありません。
■武蔵志
 三山村の項に「古城アリ 三山伯耆守住タリ」とのみ記されていますが、「秩父風土記」同様にこの記述が「鷹谷砦」「要害山」の何れに関係するものであるかは不明です。
■秩父志
 巻4の矢納庄の個所に三山村の目次が記されていますが、残念ながらその詳細な記述については欠落しています。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)、「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会 

・2007/05/29 HPアップ

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