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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/02/09の日記 永田城 寺尾城 宮崎城 諏訪城 鉢形城 日野城(熊倉城)
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態2 探し易さ5 交通利便5 体力消耗4 歴史経緯1 印象2 総合24
所在地
埼玉県秩父市黒谷
歴史と沿革

長尾景春の居城との伝承
 「秩父志」によれば長尾威玄入道(長尾景春)の首塚や墓がかつてこの周辺に所在していたと云う伝承が記されています。秩父地方には長尾景春に関連する伝承が少なからず残されていますのでその関係の深さが偲ばれます。また、この長尾城についても「長尾威玄入道城は字堀之内にあり 山間に入る岩下に構たり 瑞岩の岩窟を背にし 蓑山(美の山)の山足を面とし中間山渓を湟とし 西に門路を開く 東行右に本丸あり 次に二の丸あり 湟に水を湛えて左に三丸あり 是より北方一高嶺を物見台と為し 形状にして自然の峻険に因しなるべし」と絵図入りで細部にわたり記されています。なお、当該絵図には「堀之内城跡 長尾威玄居跡」と記されています。
 また「増補秩父風土記」の黒谷村の項に意玄入道の子鳥坊丸と奥方ほか27人が隠れ住んだとの伝承が記されていますが何れも伝承の域を出ず歴史的な経緯は不明のようです。

長尾景春(嘉吉3年-永正11年,1443- 1514)について
(「埼玉県史 通史編2中世」より抜粋引用)
 文明5年(1473年)、山内上杉氏の執事長尾景信が死去したがその嫡子である景春はその職を継承できず叔父の総社長尾忠景が任じられた。このとき長尾氏には総社・鎌倉・足利・白井の各氏が存在していたが景春の白井長尾氏が最有力となり祖父景仲、父景信と山内上杉氏執事職(上野守護代を兼ねる)が続いていた。このため景春はこの処遇に不満を抱き鎌倉を退去し本拠地の上野白井城に籠ったとされる。
 当時山内上杉氏は古河公方足利成氏と関東の派遣を巡って抗争状態にあったものの武藏の大半・上野・相模・伊豆を事実上支配し、その執事職は管領の代官として鎌倉府の政務に関与し国人一揆を統率し時として主家の山内上杉氏を凌ぐ実権を有していた。しかし、越後上杉氏から山内上杉氏を継いだ上杉顕定は白井長尾氏の勢力の拡大を抑えるため敢えて景春に執事職を継承させなかったとされている。

長尾景春の乱
(「埼玉県史 通史編2中世」より抜粋引用)
 文明8年(1476年)長尾景春は扇谷上杉氏の家宰太田道灌が今川氏の内紛を抑えるべく駿河に出兵した間隙を狙い同年6月鉢形城に兵をあげた。当時鉢形城は山内上杉氏の本拠上野平井城、扇谷上杉氏の拠点河越城、対古河公方戦略拠点の五十子陣などを分断する位置に所在し、その背後には古河公方との関係が深い安保氏を始めとする秩父郡内の景春与党が多く存在していた。
 景春は翌文明9年(1477年)五十子陣を急襲し上杉顕定、上杉定正、長尾忠景は上野に逃れ、これとともに相模、武藏などで景春の与党が一斉に蜂起した。しかし、太田道灌の活躍により武藏の豊島氏などを次々と平定し同年5月用土原にて景春方を破り、古河公方勢力の景春方への与同が行われたものの幕府との和睦の仲介を条件として古河公方足利成氏の介入を阻止した。
 文明10年(1478年)道灌は影春方の勢力を次々と屈服させ景春の本拠鉢形城を落としたが、景春一党は文明11年(1479年)9月頃から秩父郡で蠢動を見せたが、文明12年(1480年)6月24日に日野城(その具体的な所在地については諸説あり)の落城により景春の乱は終局を迎えた。
 なお、景春はこの後上杉定正側に帰属して、長享2年(1488年)の須賀谷原の合戦、明応5年(1496年)両上杉氏の抗争にもその名前が登場する。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■「美の山」の南端に所在し、南側は比高80mほどの東西300mほどの細長い峻険な岩山を天然の要害とし、主郭、二の郭などはその北側に所在していたとされています。ただし居館として想定した場合には防御性の問題はともかくとして北側斜面となるので余りにも日当たりが悪すぎるように思われます。

文化財指定
訪城年月日
2006/02/09
訪城の記録

( 2006/02/09 )
またしても岩山登りに
 秩父市の図書館へ立寄ることも本日の重要な目的なので、時計の針とにらめっこをしながらの訪城。こうした事情にも拘らず「美の山」への南側からの道路の入口を間違えるなど更に時間を浪費。それに加えて結局は瑞岩寺側からしか登れそうもないことが分かり夕方の寒風吹きすさぶ小さな岩山をよじ登ることに。
 登口には危険個所を改修するための工事予告の看板が設置されてはいましたが、足回りさえしっかりしていれば全く問題もなさそうでした。肝心の城跡はゴルフ練習場の建設などにより消滅している模様で、詰の城となる背後の岩山だけが屏風のような地形で残されていました。
 さほど標高があるとは思えない山頂からの眺望は視界をさえぎる樹木などが少ないこともあり思いのほかの絶景で、城峰山、両神山、武甲山方面がよく見通せます。また眼下の荒川沿いの街道を監視する役割としてはまさにうってつけの立地条件かと。こういうことは登ってみないと体感できないことで、時間が余りない状態でしたが比高差80m足らずの岩山に残り少ないエネルギーを消費して大正解でした。

( 2006/02/13 )
消滅したとされる辺り
 前回北側からの遠景を撮影し忘れたため天神山城(長瀞町)から根岸城(秩父市)に向う途中に寄り道を。最近「城館跡の遠景」も表現手法の大事な要素かと思いはじめ少しだけ拘っています。

記念撮影




 どうも見ても低山ハイキングガイド風のページになってきたような感じが。遺構があったとされる場所は「秩父志」に掲載されている絵図によればこの左側(北側)の部分ですが、現在はゴルフ練習場となっていてその面影は全くありません。遺されている岩尾根の頂上のひとつは物見台として利用されていたのかとも考えられますが、その詳細は不明です。

( 2006/02/09 撮影 晴れ )
訪城アルバム
画像クリックで現地解説板へ
■1■曹洞宗瑞岩寺 画像クリックで解説板へ
 現地の解説板によれば、享禄元年(1528年)に上杉顕実の家老である長尾四郎左衛門昭国(長尾景春との関係不明)が開基となったとされているとのことです。寺は岩山の南面の暖かな場所に所在していますので、かりに何某の居館が所在するとすればこちら側でなくては不自然ではないかと思われました。
画像クリックで拡大します
■2■西側の尾根筋先端部分 画像クリックで拡大
 岩山の細い尾根筋は必要以上に見通しがよく、「新編武蔵風土記稿」などに記されている通り標高の割には本当に足のすくむほどの絶景でした。
■3■山頂より城峰山方面を望む
 全山が堅い岩山なので大きな木が育つことなく360度の絶景です。荒川沿いの南北に細長い印象が強い秩父盆地もこの大野原から影森辺りまでの地域は秩父市の中心地でもあり東西3km前後の広さがあります。
■4■消滅したと推定される辺り
 明治初期に編纂された「秩父志」所収の絵図によれば、岩山の北側に三か所ほどの郭が存在していたとされていますが現在はゴルフ練習場となっているようです。左側の黒く影になっている岩山が上の「記念撮影」の山頂の山です。なお、絵図に従うと強いて言えば手前の枯れ草の繁る付近が三の郭あたりとなるのかもしれません。
 2/9の時にうっかり撮影し忘れたため、秩父市の根岸城に向う途中に寄り道をして美の山へ向う道路から撮影したものです。なお、中央の鋸状の山並みは標高1723mの名峰両神山。(2006/02/13撮影)
交通案内

・岩ツツジの名所でもある。比高差は約80メートル。所要時間は上りに15分、下りに10分程度ですが切り立った岩尾根なので慎重な行動とハイキングの装備が不可欠。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)、「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)「増補秩父風土記」を所収 

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