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アクセスありがとうございます。このページは菅谷館跡(菅谷城址)とその周辺のちょっとした話題を集めてみたものですが、いまだ未完成で逐次追加修正していきたいと思います。
須賀谷原
の合戦
山内、扇谷両上杉氏による長享2年(1488年)6月18日に起きたとされる太田道潅の謀殺を伏線にした20年の長期にわたる「長享年中の大乱」の合戦の一つ

「鎌倉九代後記」
 鎌倉公方・古河公方九代の年代記である「鎌倉九代後記」によれば、長享2年6月18日に上杉顕定と上杉定正が「須賀谷原」の地で合戦を行った旨の記述がある。「鎌倉九代後記」は編者・成立年代ともに不明とされるものの、後北条氏の滅亡までの記述があるので江戸時代初期の成立であると推定され、関東政治史としての史料価値が高いとされている。なおこの「須賀谷原の合戦」の年代を延徳元年(1489年)と記述し、「長享2年の記述の誤りではないか」と書き加えられていることが見受けられるが、その仔細については不詳である。原文は以下のとおりである。( 「新編埼玉県史 資料編中世4記録2」より引用〜昌平坂学問所本と推定される内閣文庫本版を底本とする )

 「顕定・憲房、相州須賀谷原へ出陣、関東ノ諸勢悉ク属ス、定正並子息五郎朝良出張、古河政氏、定正カ合力トシテ同ク出馬、長尾景春入道、定正カ陣ニアリ両陣相戦フ、朝良一番ニカカリ、長尾新五郎・同修理亮ニ掛合テ追立ラル、顕定・憲房、横合ニ是ヲ追フ、定正左右ノ軍兵ニ下知シテ是ヲ撃ツ、又長尾入道ハ藤田と掛合テ追散シ、其イキホイニ顕定ノ旗本ヘカカル、顕定・憲房利ヲ失ヒ引退ク」とあり、末尾に「須賀谷合戦ハ、『梅花無盡藏』巻2ニヨレバ、長享ニ年六月十八日ノコトナリ」との付記がある。

「長享年中の大乱」
 この戦いは「享徳の大乱」(関東管領山内上杉氏・長尾氏×古河公方足利成氏)「長尾景春の乱」(関東管領山内上杉氏×重臣長尾景春を代表とする武蔵の国人在地領主)に続く「長享年中の大乱」の始まりである同年2月3日の相模実蒔原(さねまきがはら)合戦(神奈川県伊勢原市)に続く合戦である。これは山内上杉氏の扇谷上杉氏の武蔵における重要拠点である川越城に対する攻勢の過程で発生したものとされており、この資料によれば合戦の当初は山内上杉方が優勢で、後半に扇谷上杉方が長尾景春らの奮戦により逆に優勢となり、本陣に攻め込まれた山内上杉方が戦場から先に退却したということが伺える。
 したがって、戦死者の人数の比較は不詳であるにとしても、戦術的な勝敗の帰趨は最後まで戦場にとどまった扇谷上杉方にあったと考えるのが妥当であると思われる。
 またこの合戦の以前に発生した例の長尾景春の乱で一度は敗退した景春自身が剃髪し扇谷方として参戦していることも示されており、この点この人物のしぶとさという意味において大変興味深いものがある。というのも、歴史の大きな流れの中で鮮やかな足跡を残すことはなかったが、東国の限られた地域の戦乱の歴史の中でほんの短い間であるにせよ、ある意味で鍵を握る人物であったことには違いないのだから。
 なお、「梅花無盡藏」の記録によれば、この合戦には作者の万里集九と個人的な関わりのあった太田道潅(2年前に定正により謀殺されたといわれている)の遺児、嫡男太田元六資康が顕定方として当時東国における大寺院の一つであった菅谷城址の西約2Kに所在した平沢寺の明王堂あたりに在陣していた。万里はこれを尋ねると厚遇され36日もの間いつ合戦が始まるとも知れない地に逗留し、9月25日白山神社にて漢詩会を開いている。この時「明王堂畔問君軍、雨後深泥似度雲、馬足未臨草吹血、細看要作戦場文」(明王堂畔に君が軍を問う、雨後の深泥雲をわたるがごとし、馬足いまだ臨まざるに草血を吹く、細かに看れば戦場の文をなさんとす)という詩作を行い、自ら書き足したとされる割注のなかで「須賀谷にて両上杉の合戦があり戦死者七百余、馬も数百匹死亡」した旨の記述がある。
 したがって双方の戦死者などの多寡は別として、結果的にはこの合戦が両者の軍事的な均衡を大きく変えるようなものではなかったと推定されるのである。それを傍証するものとして半年後の11月には須賀谷の地の直線で北西約5kmに位置する高見原(比企郡小川町高見)で再び合戦が行われている。なお、万里は翌日の9月26日に出立し山内上杉氏の武蔵における拠点である鉢形城に赴いている。

「万里集九」について
 正長元年(1428年)9月9日美濃国に生まれる。戦国時代初期の臨済宗の禅僧、京都五山の流れを汲む。応仁の乱後に還俗し漆桶万里と称した。在京の後、美濃・尾張の各地に寄寓し文明12年(1480年)美濃国守護代斉藤氏の庇護の下に「梅花無盡藏」と称した草庵を構えた。文明17年(1485年)9月7日江戸城主の太田道潅からの招請により関東に下向し、10月2日江戸到着。道潅の庇護の下詩作吟詠の日々を送るものの、翌文明18年7月26日道潅の主君上杉定正により道潅は謀殺されるが、しばらく定正に留め置かれた後、長享2年(1488年)8月14日に江戸を発し武蔵国鉢形、上野国白井、越後国府中、飛騨の国を経由して翌年5月13日に美濃鵜沼の草庵に戻る。死没年代は不明だが16世紀初頭まで漢詩作者として活躍した。<<2004/09/05>>

「須賀谷原」の地について
 ところで、この「須賀谷原」とは具体的にどのあたりの地域をさすのであろうか。菅谷館跡周辺には西原、向原、東原、上原、中原、下原などの「原」という文字がつく字名が数多く残されており、スゲの繁茂する原野という意味からもこの地に相違ないと考えられている。ただし、先ほどの原文の示すとおり、なぜか「武州」ではなく「相州須賀谷原」と記されている点が多少気にかかるが、元来年号、人名など誤記の多い記録でもあるのでその点あまり厳密に捉える必要もないのかもしれないが.......。なお、最近の遺跡発掘調査でも五輪塔、銅銭、板碑などの出土の様子から見ても十分に関連性のあることが推定されているので、これに従うこととしたい。(「須賀谷原遺跡」(2002年嵐山町遺跡調査会)<<2004/09/05>>

 

 
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