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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/03/07の日記 奈倉館    
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ5 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯3 印象4 総合30
所在地
埼玉県小鹿野町大字三山字皆本4995ほか
歴史と沿革

一時的には武田勢が敗退?
 永禄12年(1569)7月に、この三山の地を舞台にして後北条氏と武田氏の小競り合いが展開されて、一時的には武田氏が敗退したと推定されます。このとき北条氏邦が発給した在地武士の山口總五郎、出浦左馬助、多比良将監、斉藤右衛門尉五郎、朝見伊勢守らに宛てた感状などが伝えられています。しかし、同年の9月には大挙して襲来した武田勢により、後北条氏側は児玉郡の御嶽城が落城し、北条氏邦の鉢形城、北条氏照の滝山城も激しい城攻めに遭い、相当の損害を被り最終的には小田原城下までその進軍を許す結果となったようです。なお、有名な三増峠の合戦が行われたのはこの年とされています。
 鷹谷砦の北側を走る国道299号線は中世からの街道で上州甘楽郡を経て信州へと抜けます。武田勢はこの街道から武蔵への侵入を図ったこともあるとされ、「新編武蔵風土記稿」によれば、合戦と関わりのありそうな「法師落人」「軍平」「兵の原」などの小名が伝えられています。また、「秩父風土記」の三山村の項には、「...永禄13年午年の軍訪城氏邦候の方にては諏訪部遠江守、出浦式部、久長但馬守、井上三河守、三山五郎兵衛、嶋村近江守、日野二郎三郎、蒔田彦五郎、猪俣能登守、三千人出浦式部抜馳にて甲州勢敗北、然れども軍例を背候に付北条家追放薄村に居住す、斉藤新左衛門討死す、合戦の地今に軍平という信玄落行し所を法師落という」と記されています。
 したがってこの鷹谷砦は北側の赤平川沿いの谷筋の街道を監視する役割を帯びていたということになります。狭い尾根筋には平坦地も少なく主郭東側に所在するやや開けた鞍部付近に小屋を設けて、最大でも20人程度の番衆により機能していたのではないでしょうか。

確認できる遺構
郭、堀切、土塁?坂小口?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■武甲山と並び称される標高1723mの秩父の名峰である両神山から東側に派生した尾根筋のひとつで岩塊が露出した急斜面が続く痩せ尾根の東端部分に所在しています。標高504mの主郭と尾根の東側に施された3、4か所の堀切などから構成されています。西側の尾根続きは急斜面の幅の狭い岩だらけの難路が続くだけでなく、幾つもの尾根筋が複雑に派生していることもあり、奈良尾峠方向からアプローチするのは正確な地形図が用意されている現在でも困難を極めそうです。
 砦跡の所在する痩せ尾根は北側を赤平川、南側を支流のミナモト沢がそれぞれに深い渓谷を刻んでいて、南北方向から登攀することは極めて困難な状況です。したがって登口は東側の尾根筋以外には存在しません。
 

文化財指定
訪城年月日
2006/03/07
訪城の記録

( 2006/03/07 )
似たような山容が
 吉田町から県道37号線から国道299号線にすすむつもりが、武田信玄の秩父谷進軍ルートのひとつとされる土坂峠へ向かう県道71号線を走ってしまい、そのまま気づかずに合角ダムの近くへまで行ってやっと間違いに気づいてUターン。この時点で、早くも15分ほど時間を浪費。ここまでくればいっそのこと日尾城に行っても良かったのですが、資料に充分目を通していなかったため分岐の所まで5キロメートルほども戻るような破目に陥ったという次第。要するに如何に事前の準備が相当にいい加減であるかが明白に。しかし、細かい地図や資料などの文字が最近全く見えませんし、勿論「記憶力」などという言葉は自分の辞書にはありません。
 さて、黒海土バイパス前の信号から国道299号線を8キロほど西へと向かい赤平川沿いの鷹谷砦へ。今度は間違いなく「秩父郡内の城館」さんのサイトに掲載されていた画像と寸分違わない特徴のある尾根筋が目前に。中学校の跡地の駐車場に駐車させていただいてから、徒歩にて赤平川に架かる橋を渡り、さらに突き当りの道を左折すると墓地のある尾根筋の東端部分が視界に。石祠が2つ並んでいるところから尾根筋に向かう明確な山道が続いています。尾根筋に穿たれた堀底のような地形の山道を息を切らして登攀。比高差は160m程度にも拘らず、いきなりの急登のため何度も小休止のやむなきに。息の切れる登りは辛いものの、ともかく先に進まねば目的は達成されず、重たい足を引きずりつつ80mほど標高を上げると、尾根幅が広がりやや平坦な地形に変わり一息つくことに。
 それでも、登り始めてからわずか20分ほどで最初の堀切部分に到達。その後は、僅かに土塁状の遺構が確認できる2か所の堀切を過ぎて、痩せ尾根の岩塊を利用して普請されたこの城最大の堀切部分に到達しました。この辺りからは尾根筋の南北方向は切り立った崖状を呈してきますが、樹木が結構叢生しているためにその高度差や勾配の割にはそれほどぞくっとするという感じがありません。さらに、ここから尾根のやや北側寄りの道を進み郭状の平坦地を過ぎて標高505メートルの切り立った地形の主郭へ登頂。山頂からは標高996mの特徴のある白石山(毘沙門山)の岩尾根が頭上に覆いかぶさるようにして赤平川の北岸に立ちはだかり、150メートル以上の比高差のある眼下には国道299沿いに所在する三山(さんやま)の集落が広がっていました。
 またこの山頂から西へ8kmほど尾根筋を辿ると秩父の名峰標高1723m両神山に達するはずですが、間の尾根筋は通行不能な岩尾根の難路の連続のようです。南北の谷沿いからの登攀は困難を極めますので、まさに物見砦としては鉄壁の守りではありました。なお、下りの枯葉の坂道で1回だけずるっと転倒し、厚い雲に覆われた空を仰ぐこととなりました。

記念撮影




 黒海土バイパス前の信号から国道299号線を8キロほど西へと向かい赤平川沿いの鷹谷砦へまっしぐら。すると間違いなく「秩父郡内の城館」さんのサイトに掲載されていた画像と寸分違わない特徴のある尾根筋が目前に出現してやれやれ。

( 2006/03/07 撮影 厚曇 )
訪城アルバム
■1■方向音痴の極限状態
 吉田町から県道37号線から国道299号線にすすむつもりが、武田信玄の秩父谷進軍ルートのひとつとされる土坂峠へ向かう県道71号線を走り、そのまま気づかずに合角ダムの近くへまで行ってやっと間違いに気づいてUターン。早くも15分ほど時間を浪費。さて、この間違いには主に2つの原因が。ひとつは道路地図には直進すれば国道299号線にぶつかるように記されているにも拘らず、実際には左折をしないといけなかったこと。もうひとつは旧吉田町の千鹿谷鉱泉付近地形が、三山の鷹谷砦の地形に酷似していたこと。このため途中まではてっきり鷹谷砦だと勘違い...(^^;
■2■
 さて諸般の事情でロスタイムがあったものの、無事目的地の近くまで到着。現在はグランドとなっている中学校の跡地の駐車場に駐車させていただいてから、国道299号線を西側に300mほど歩いて赤平川に架かる皆本橋へと向います。
■3■鷹谷砦
 「少なくともあの天辺までは行かねばならないはず」と、考えるだけで足が重くなってくるのは明らかに歳のせい...国道から皆本の集落へと向う道路が左側にあるのでそこを左折して坂を下ると「4」の皆本橋の手前に到達します。
■4■皆本橋
 赤平川に架かる皆本橋を徒歩にて渡り100mも進まないうちに丁字路に突き当たります。突き当りを左折すると「5」の墓地のある尾根筋の東端部分が視界に入ってきます。赤平川の川幅はおよそ50m前後で谷の深さは20mほどでの断崖を連ねていました。
■5■鷹谷砦の西側の尾根筋の先端部分
 登口は尾根筋の先端を少し南側に回りこんだところから、「6」の祠へ向う舗装された細い坂道を登ります。
■6■石の祠2体
 とりあえず無事に山頂まで往復できるようにと祈願してから、右手の尾根筋に刻まれた山道を登っていきます。向って左側が山の神の総元締めとされる大山祇命(おおやまづみのかみ)、右側は天満宮と記されていました。
 
■7■40度以上の急斜面
 山道自体は尾根筋を幾分くねりながら登っていくので決して急傾斜ではありませんが、右手に見える北側の斜面はとても真直ぐには登れるような気がしません。砦跡の所在する痩せ尾根は全体としても、北側を赤平川、南側を支流のミナモト沢がそれぞれに深い急傾斜の渓谷を刻んでいるため、南北方向から登攀することは極めて困難な状況です。
■8■稜線に刻まれた山道
 山頂には祠が所在することもあり道自体はかなりしっかりと刻まれていますし、稜線上の一本道なのでいくら方向音痴の自分でも絶対に間違えようがありません。しかし、登り始めてから比高差にして80mほど登るあたりまでは多少急坂が続くため、足はつっぱるし息はあがるし...それでも尾根筋が広がりを見せる所まですすむと、後はずっと楽になりました。
 この尾根筋に刻まれたような感のある山道の両側の地形は実質的に土塁の役割を果たしているようにも見えるのですが。
■9■東側の堀切
 最初の堀切部分のようですが、東側の方が殆ど埋まってしまっているらしく、「斜面の切落とし」や「腰郭」のようにも見えてしまうのでありました。
■10■小口部分と思われるあたり
 
西側から撮影したもので、掘りあげられた土塁のような地形です。一見した限りでは坂小口のような感じもしますが、うっかりすると通り過ぎてしまうようなそれほど目立った存在ではありませんでした。
■11■3番目の堀切
 北側から撮影したもので、現状では左側で深さ1.5m、右側で1.8mほどの規模です。
■12■4番目の堀切の上部
 左側のミナモト沢方面は傾斜にして70度を越える急斜面で尾根幅もこのように極端に狭くなり尾根筋での行動の自由が狭められてしまいます。
■13■4番目の堀切の東側
 「12」の写真の個所を堀切の濠底から見上げたもので手前の個所でも4m以上の深さがありますが、尾根筋が非常に狭く切り立った地形であるために回り込むことなどは殆ど難しいようです。
 
■14■4番目の堀切
 鷹谷砦最大規模の堀切名のですが、尾根幅が狭いので全体を撮影することができません。南北どちらの方向とも急斜面のためこれ以上撮影位置を後退させることができませんでした。
画像クリックで拡大します
■15■主郭 画像クリックで拡大
 東側の主郭への鞍部から眺めたもので、北方向に当たる右側の斜面は傾斜75度以上の岩壁でほぼ垂直の状態で数十メートルほど下方まで続いていました。想像以上の急崖の光景が目前に出現してくれたので暫く見とれていました。
画像クリックで拡大します
■16■主郭 画像クリックで拡大
 山頂の直下の岩が露出している稜線は掴まるものがあまりないので、ちょっとよろけただけでも取り返しのつかないことになりそうな極端に幅の狭い痩せ尾根です。
■17■標高504mの主郭のある山頂
 それでも主郭と考えられる山頂は平坦に削平されているので、南北方向の両側の崖が切り立っている割には居心地のよい雰囲気があります。狭い山頂には石造りの「天狗祠」が祀られ、向って左側の石碑は昭和37年に祠を再建したときに建立したもののようです。碑文の始めの方には、「鉢形北条監視哨跡...」とやや用語が混乱しているような言い回しですが、城跡であることを示す石碑には違いありません。
 現在でも村人の信仰を集めているようで、浄財やお供え物などが並んでいました。
■18■主郭の西側
 このような岩が露出した痩せ尾根が両神山の方まで続いているようです。尾根筋の南北方向に当たる両側は切り立った断崖が延々と続いています。したがって、仮に峠道から登って稜線に出たとしても、一列縦隊に潅木に掴まりながら悪路の岩尾根上を進軍することとなりますので、西側から攻め寄せることは事実上困難であると思われます。
■19■主郭
 西側の主郭先端部分から撮影したもの。広さは南北約6m、東西約10mほどの楕円形で周りは尾根筋の僅かな部分を除いて切り立った崖で囲まれています。150メートル以上の比高差のある眼下には、国道299沿いに所在する三山(さんやま)の集落が広がっていました。
交通案内

・上り40分、下り20分で比高差は約150mほど。
・国道299号線を黒海土バイパス前の信号から志賀坂峠方向に向かって7kmの左側で小鹿野町三山(さんやま)に所在し東側に皆本という集落がある。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)、「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)、「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)、「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)

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