アクセスありがとうございます。  HP日記、訪城記録、猫との平穏な暮らしなどの雑記帳のようなものです。 
menu
トップ頁ヘ HP趣旨 訪城覚書 HP日記 参考資料 リンク集
日記の目次 工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想 工事中
・2006年3月31日    花を愛でつつ、平地の城館跡めぐり
           

 昨日に続いての秩父地方の城館めぐりですが、先日の山城廻りで連日の山城訪城に耐えられる体力がないということをつくづく思い知り、本日はもっぱら平地を這いずり回ることに。
 
長留館(埼玉県小鹿野町) 午前8時40分から午前8時55分まで
 またしても河川の合流個所に所在する中世の館跡の一つ。長留川とその支流の合流点の蕨平という地名が残されている辺りが館跡のもよう。付近には現在でも「番場」「屋敷平」などの中世城館との関わりのありそうな地名が残されています。しかし、自然地形の河岸段丘が所在する以外には遺構は存在しない模様で、表面上は走行する車に注意を払いつつ二差路の幹線道路の景色を撮影するといういつものことながらやや無味乾燥な訪城のなりゆきとなりました。

日野城と武州日野駅のカタクリ(埼玉県秩父市) 午前9時20分から午前9時時45分
 小鹿野から旧荒川村に抜ける細い県道43号線を南下し、芝原温泉を過ぎた辺りから昨日の降雪のために雪化粧した熊倉山方面の山並みが視界に飛び込んできました。やはり昨日は早めに撤退していて大正解だったと改めて納得を。国道140号線の丁字路手前辺りからは日野城方面が実によく眺望できましたので、これを数枚の画像に収めてから武州日野の駅へ。
 春の到来を告げるロウバイと福寿草の様子は、小鹿野町にてしっかとこの目に焼き付けることに成功していましたので、昨年機会を逸したカタクリの花だけは今回何としても見ておきたいと思い、どのように訪城ルートに組み入れたらよいのかと数日前からいろいろ思案していました。このような次第で昨年訪城済みの日野城(熊倉城)の遠景の画像がないこともあり、当日の天候と訪城先とを勘案してルートを決定しました。
 事前の情報によればカタクリは駅の北側に生育しているとのこと。「有料駐車場」との表示が気になったもののとりあえず駅の手前の駐車場に駐車させていただき、駅舎の前を通り過ぎ西側の踏切を渡って稲荷神社東側のカタクリ園へ。西側の手前のあたりでは一体どこにカタクリがあるのかと不安になったものの、奥にすすむにつれて綺麗に整備された数え切れない程のカタクリの群落が至るところに出現。設置してあったカタクリ園整備の募金箱に300円を投じて、これでもかというぐらいに十数枚の画像をデジカメに収め再び城館跡めぐりに復帰。しかしこの後、日野鷺橋から眺めた日野城の遠景もまた捨てがたいものがあり暫しとどまり画像に収めました。

敏桑館(埼玉県秩父市) 午前10時から午前10時20分まで
 凡その所在地は判明していたものの直ぐにはそれらしい石塁が見当たらず、北側から観察すべくまわりこもうと集落の中の細い道路を左折すると確かに石塁らしき存在が確認されました。しかし、秩父地方は同様のシシ垣が結構あちこちに所在しているので、とりあえず一度通り過ぎてから北側の畑の方から拝見。するとやはり明らかにシシ垣とは異なる印象の高さ約1.2mから2m、延長にして100mほどの長大な石塁が確認できます。
 「秩父志」の記述によれば背後に山が迫り大きな岩塊が付近に所在するという絵図が付されていますが、現状の石塁はどう見ても荒川が大きく蛇行する段丘状の平坦な台地に所在しているため記述との整合性が見られないことにやや違和感がありました。また。「新編武蔵風土記稿」では具体的に何も触れていないことも気になります。

室山城(埼玉県秩父市) 午前10時25分から午前10時35分まで
 この3月までに訪城することも計画しましたが、「秩父郡内の城館」さんからの情報をいただき、現状では心技体の何れの条件も極めて不十分なことが判明したため、現時点における直接の訪城を断念した城郭です。地図上の直線距離では麓からおよそ1kmですが比高差はなんと400m以上もあり、いかにも息が切れそうな尾根筋をただひたすら登攀していくという余り近づきたくない恐ろしげな山城です。比高差250mの塩沢城でさえ、やっとの思いで登頂したというのに、勾配のきつさやルートの分かりにくさを加味すればまず単独では登れないことは必定かと。従って、比丘尼城と共に当分訪城計画の先送りの筆頭となっています。
 しかし、敏桑館からまるで手に取るように間近に見えたこともあり、この際せめて画像だけでも確保しようということで撮影作業に没頭。西側を浦山川、東側を橋立川に挟まれた峻険な尾根筋の北端部分に所在し、更に北側には深く広い谷を穿つ荒川が東流するという立地条件に加えて、近年は浦山ダムの完成によりダムの堰堤そのものがが巨大な城壁の如く見えてしまいます。現在大きな痛みがないとはいうものの両膝の機能に支障のある自分にとっては、本当に見ただけで登る気力を喪失させるという厄介な山城になってしまいました。

中村氏館(埼玉県秩父市) 午前10時45分から10時50分まで
 秩父市内の荒川に架かる佐久良橋東岸の河岸段丘上が秩父の名族中村氏の館跡の模様で、現在その先端の一部は建設会社の敷地となっていました。事前の情報どおりとはいうものの残念ながら、かつての比高にして6mから10mほどの河岸段丘の地形が残されている以外には館跡の存在を伝えるものは全く確認できませんでした。

伏栗城(埼玉県秩父市) 午前11時から午前11時20分まで
 中村氏館と同様に秩父市内の荒川東岸の河岸段丘上に所在しますが、勿論こちらも河岸段丘の地形以外には城館跡であることを示すようなものは残されてはいません。ただ、少しだけ異なる点があるとすれば河岸段丘の斜面の一部が自然地形に近い状態で残されていることと、北辺の道路部分が不自然なクランク状の曲折を見せているということぐらいでしょうか。城館めぐりとは無関係ですが、荒川の西岸から秩父ハープ橋と呼ばれるかなりの高低差を有する巨大な吊橋のたもとから眺める武甲山はなかなかの絶景です。

田村氏館(埼玉県秩父市) 午前11時35分から午前11時45分
 「秩父郡内の城館」の管理人さんからの情報を頼りに土塁跡をめざして3月25日に続いての再訪。鉄工所のような工場の手前の細い道を西(右)へと入り、しばらく道なりにすすんで行くと情報の通り確かにありました。未舗装の幅員1間半ほどの農道の北側(右側)に高さ約2.5m以上、延長35mほどの見事な土塁が遺されていました。ただもしかすると気のせいかもしれませんが、詳細な理由は不明ですが比較的最近西端の一部分が消失しているように見えました。東側はかなり丹念に探しましたが、西側のこの位置に所在していたとは全く迂闊な話でした。

遠山館・大島館・山田館(埼玉県秩父市) 正午から午後1時30分まで
 秩父市内の東側の高篠地区に3ヶ所まとまって所在している城館跡ですが、それぞれの関連を含めて詳細な経緯はあまり明確ではないようです。遠山館は県道11号線の高篠交差点の北西部分に所在していた模様で西側には横瀬川の深い渓谷が天然の要害を形成していました。山田館は現在は交差点北東部の高篠小学校の敷地となっているあたりとされており、地形状は北側には横瀬川の支流が水堀の役割を果たし東側は定峰峠から続く山岳地帯の尾根の西端部分となっていました。また、大島館は山田館の南側に隣接していますが、その現状からは東側が尾根筋先端部分となっている以外にはこれといった地形状の特徴が感じられませんでした
 なお、この交差点の北側800m地点の横瀬川と定峰川の合流点付近の地形が以前からかなり気になっているのですが、本日も夕方からの所用のためになかなか訪れる機会に恵まれません。西側の一部を除く周囲を横瀬川などの深い渓谷が取り囲んでいる3万平方メートルほどの地域で、地図上ではいかにも中世城館が存在していても不思議がない地形をしています。




■日野城の遠望


■武州日野駅北側のカタクリ園

日野城 
 荒川沿いの国道140号線からおよその見当をつけて眺めると、日野城らしき山が3ヶ所ほど見えます。写真では3か所の中央にある山が日野城のようですが、この高所に所在していては物見の役には立っても秩父往還にたいする防御機能という点について余り積極的な役割を果たせそうにないように思えます。

カタクリの花
 現物を見るのは全く初めてですが、北側の緩斜面に咲く清楚な印象の淡い紫色の6枚の花びらとエメラルドグリーンを基調とした深い緑色の葉が特徴的でした。片栗粉という言葉があるように地中深くに伸びる鱗茎(りんけい)からは良質のでん粉が摂れ漢方では病後の滋養として珍重されたといわれています。(「野草大百科」 1992/北隆館)

■カタクリ園の所在地■

地図サイトいつもガイド

撮影月日:2006年3月30日
撮影場所:埼玉県皆野町にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年3月30日    勘違いと季節はずれの降雪
           

 おそらくは今シーズン最後の山城めぐりかと思われます。群馬県に近い城峰山周辺の多分に伝承地の色合いも濃いと考えられる地域です。一泊の予定とはいえ人気の殆どないような山城のため、余り時間に余裕のない行程は避けようと午前7時過ぎには自宅を出発することに成功。これでも寝起きが頗る宜しくない当人にとっては限りない早出の部類なのであります。
 朝方は気温はこの季節にしては幾分低かったものの、風もなくなかなかの好天。しかし、最初の目的地である「若林館」を過ぎた辺りからだんだんと雲が多くなりはじめ、次の「金沢山城」では分厚い雲に覆われた完全な曇天に。さらに、「両谷城」の山頂では冷たい北西の風が時折僅かばかりの粉雪を運んでくるような空模様に変貌。その後「鐘掛城」「雨乞城」くらいまでは、曇天の間に時折薄日が差し込むような一進一退の変わりやすい空模様に。
 
若林館(埼玉県皆野町) 午前9時20分から午前9時45分まで
 資料によると堀跡が存在しているかも知れないという程度の情報のみ。小山川(身馴川)の上流が川幅20m、深さ15m以上という深い谷を刻む南側の右岸にやや開けた河岸段丘に所在。多少早出をしてきたため時間に余裕もあり、館跡と思しき一帯を徒歩にて一周したところ、小山川に向かって南西から幅20m深さ10m弱の沢筋が南西の方向からのびているために、三方向が天然の渓谷により囲まれた要害の地となっていることが判明しました。具体的な所在地や遺構などの確認には至らなかったものの、おそらくはバス停身馴川橋と加須の間あたりと推察され、付近には館名と同名の旧家も所在している模様でした。
 小山川という名称に少しだけ聞き覚えがあり、よくよく地図を調べてみることに。すると遥か下流は利根川へと続き、その流域には児玉党関連の栗崎館、東本庄の館、北堀堀の内などの館跡やも上杉氏と古河公方の争いで歴史的にも有名な五十子陣城などが所在しているあの小山川であったことに初めて気づきました。

金沢城山(埼玉県皆野町) 午前10時20分から午前10時55分
 昨年12月に浦山城を訪れたときは、この周辺の林道の状況を含む地理が全く分からずにいたため、かなり近くまでは来ていたものの、本格的な山城を経験していなかったことやその遺構の存在が微妙なものであることなどから訪城を先延ばしにしていたという経緯がありました。その後、周辺の林道の道路事情などを収集して「風早峠」までは降雪時でない限り自動車の通行が可能なことを確認できたので今回の訪城となりました。
 若林館から浦山城へと向かった林道を走り、途中で浦山城への道を分岐して皆野町とかみかわ町の界に所在する標高600m程度の尾根筋に向かい林道をぐんぐんと登っていきます。林道の途中からは西側から浦山城を眺めることができ、正面にはやがて標高715mほどの金沢山城が大きく聳えたちます。一応理論的には浦山城から南西の尾根伝いに1km、比高差220mの道なき道を進めば到達する可能性があります。しかし道に徒に体力を消耗し道に迷うなどのリスクを考慮すれば、明らかに林道を標高680mの風早峠まで車で登ってから、徒歩にて尾根筋を北上するのが安全な近道のようです。
 さて、多分ここが風早峠と思われる峠のような個所の脇に車を停めて予想しなかったほどにしっかりとした尾根筋の道を400mほど北に進みます。比高差は僅か40m前後で山頂方向の見通しもよく、やや不安のあった途中の尾根筋の分岐も問題なく判別できました。肝心の遺構は土塁といえば土塁のような、郭跡といえばそのようにも見えるというような光景が3000uほどの比較的平坦な山頂付近に広がっていました。研究者によって見解は分かれているようで遺構は存在しないと指摘する向きもあるようですが、人工的な区画形質の変更が全く見られないと云う訳でもなく本当に判断に苦しむ所です。

両谷城(埼玉県かみかわ町-旧神泉村)午前11時35分から午後12時50分まで
 車で移動途中尾根筋の奈良尾峠付近の林道からは、たぶん両谷山と思われる姿がはっきりと目に入り遠景の画像を撮影しつつ林道を西へと移動。しかし、後で直ぐに両谷山と思われた特徴のある三角形の山容は、実は神流湖南岸に所在する標高732mの「神山」であり、標高586mの両谷山は大分手前に所在する南北にのびた尾根筋の先端部分であることに気づきました。いずれにしても、今回の訪城の参考にさせていただいた梅沢先生の著書の写真からでは、どうしても見事な三角形をなす「神山」が目立っています。したがって、その手前に所在するはずの尾根筋が余り目立たない存在となっていることに全く気づかなかった自分の責任かと。
 さて、ここも登り口と尾根筋の道に不安材料があったものの、南北方向に1kmという地形的な特徴のある長い尾根筋なので案外簡単に林道の峠部分の確認に成功。推定直線距離で約500m、比高差は殆どなく寧ろ下り道なので最後の主郭の登りの15mほどという体力的にはかなり楽なルートです。こちらも遠望した限りでは植林が密生している状態で問題は途中の尾根筋の状態のみというところでした。しかし予想に反して思いのほか踏み跡が明確で森林管理のための伐採がなされていることもあり、尾根筋進行方向の視界もかなり良好でした。このため僅か20分ほどで最初の堀切部分に到達し、時間的にも余裕を持って資料に示された遺構を概ね確認することに成功。唯一の誤算は山頂の主郭で、一時的に冷たい北西の風が時折僅かばかりの粉雪を運んでくるような空模様に変貌してしまったことぐらいでした。
 この時点で一応最低目標の山城2ヶ所をクリア。旧神泉村の無名の遺構を回ることも考えましたが、宿泊施設の所在地との関係もあり、このあとは体力と天候次第という状態で城峰山周辺の城趾伝承地を目指して移動開始。

鐘掛城(埼玉県皆野町) 午後1時30分から午後2時20分まで
 再び城峰山方面の林道にもどり、途中で両谷山の西側の様子も見えたこともありデジカメ撮影を継続し石間峠に駐車して鐘掛城山へ20分ほどのハイキング。遺構は全く存在しない「伝承地」とはいうものの、せっかくここまできたらやはり自分の目で確かめないことには収まりがつかないということで。昨日までの陽気のせいで霜解けでぬかるんでいたと思われる現在は霜柱が融けずに残る稜線をすすみました。やがて「中丸」と呼ばれるちょっとしたピークを超えて丸太の階段が続く鐘掛城の登り道をよたよたと登攀。もちろん遺構は所在していなかったものの、山頂には戦国時代の山城についての解説板が所在し、少しだけ嬉しい気持ちに。このあと北側の尾根筋を更に20分ほど時間をかけて探索したものの無論成果などあるはずもなく、再び山頂に戻って直ぐ南側の雨乞城へ移動。この20分がのちのち苦境に陥る原因になろうとは...。

雨乞城(埼玉県皆野町) 午後2時20分から午後2時30分まで
 鐘掛城から5分ほどで南側の小さな峠道に到着。左側の山腹の巻き道をすすめば1時間ほどで西門平へ到達するハイキングコースで、雨乞城へはそのまま正面の尾根筋を枝を掻き分けて僅か2分ほどのルート。山頂には猫の額ほどの平坦地が所在するものの勿論遺構は確認できません。「新編武蔵風土記稿」などに記されているように、それこそ雨乞いなどの祈祷が行われた場所なのかもしれませんが、阿熊川や日野沢方面を睥睨する物見台としても絶好の位置に所在しているように見受けられました。

王城(埼玉県かみかわ町-旧神泉村) 
 鐘掛城の山を皆野方面では「鐘掛城」と呼び、旧神泉村の矢納方面では「王城山」と呼んでいると「皆野町史 通史編」には記載されています。しかし、「埼玉の中世城館跡」などでは鐘掛城の北側にのびる尾根筋を「王城」と記していました。遺構はいかにもなさそうに見えますし、体力と天候、ルート、残り時間を勘案して尾根筋をデジカメ撮影するだけにとどめるという本当に全くしょうもない手抜きの訪城となりました。

城峰山周辺(埼玉県皆野町) 午後2時45分から午後3時15分まで
 城峰神社での参拝中に、なんと季節はずれの雪がはらはらと上空から舞い降り始めました。それでも冬季ではないので、いずれ短い時間で止むかもしれないと期待しつつ神社の境内から本日の最終目的地である「将門の隠れ岩」方面を目指すことに。
 けれども期待とは裏腹に次第に降雪が本格的な状況となり地面に舞い降りた雪がそのまま溶けなくなり始め、つい先ほどまでは数kmほどは存在した視界も50mを切るような状態に。鎖場の手前までは辿り着いたものの、雪で濡れた鎖と岩場は滑りやすく視界も特にこのあたりでは20m前後という最悪のコンディションに。結局のところ鎖に手を触れて岩場に足を掛けただけで撤収を決断。車の中で一時的に待機することも考えたものの、積雪のため林道の通行に支障が発生する可能性もあり速攻で下山。標高500m付近までは降雪、それより下は次第に雨交じりで麓の方では完全な雨天。
 さて好天の翌朝に、民宿の窓越しにふとなにげなく標高1千m級の稜線を見上げると、麓からでも場所によりかなりの積雪の模様がありありと見受けられる状態。天候が回復したのは午後5時30分頃なのでたっぷりと2時間以上の降雪があった模様。たかが推定3センチ前後の積雪とはいえ、まかり間違えば危険な状況。結果的には正しい判断かと。




■城峰神社の社殿


■視界50mと積もり始めた雪

 夏場にはキャンプなどで賑わう神社の付近ですが、さすがに3月末のこの天候では訪れる人とて見当たらず、全く人気のない城峰神社境内は、それこそ得体の知れない霊気が漂うといった印象さえ感じられる光景が広がっていました。
 おまけに視界はどんどん悪化する一方で、天狗岩と呼ばれている絶景の「将門の隠れ岩」に向った時には、次第に降雪が積もり始め、手はかじかむ、鎖場の鎖も足場の岩場も滑るといった事態に陥り即刻撤退開始の仕儀に。
 伝承によればいちおうは関東平氏の流れを汲む家系の末裔とつたわるようなので、遠いご先祖様にあたるはずの「将門の祟り」でもないでしょうが、寝袋非常食料など一応の装備を搭載しているとはいえ、この天候の急変には正直驚かされました。

■雪に降られた地点■

地図サイトいつもガイド

撮影月日:2006年3月30日
撮影場所:埼玉県皆野町にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年3月27日    近所の散歩
           



■「あんみつ」似の野良猫
(秩父市にて)


■近所の小学校のモクレン

 桜のつぼみも開き始め、ナズナ、オオイヌフグリ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウ、スミレ、ナノハナなどが畑や野原にも目立ち始め本格的な春の訪れをむかえました。そんなこともあって、うららかな陽気にも誘われて近所の小学校まで桜やモクレンの花を見にでかけました。桜の方は概ね3分咲き程度なので、おそらく今週末にはにちょうど見ごろになりそうです。
 一方、もう一つの春の訪れの風物詩でもある「コブシ」の方はというと花芽がなかなか膨らまず、やっと開花した早咲きのものも先日の強風のため四散してしまったようです。また「ハクモクレン」も強風と低温のために幾分花色がくすんでいるようにみえるだけではなく、その花期も例年よりもかなり短かめで既に散り始めています。しかし、「ハクモクレン」よりも幾分遅咲きとなる「モクレン」の方は、昨年同様に独特の赤紫色のおおきな花をつけて今が盛りと咲き誇っていました。
 旅に出てしまった「あんみつ」は、今頃は陽炎の立つどこかの野原で日向ぼっこでもしながら、時折鼻の頭に止まったモンシロチョウでも追いかけているのでしょうか。余り悲観的に考えても仕方が無いので、なるべくそんなのどかな光景を思い浮かべるようにしています。

撮影月日:2006年3月27日
撮影場所:埼玉県にて  

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年3月25日    花園城再訪
           

 縄張り図作成の方々と午前10時に寄居駅にて待ち合わせ花園城を訪城。前回の訪城と同様に諏訪神社境内の裏手から竪堀を這い上がり二の郭の南側に到達。主郭付近の石積みや堀切を見学後に、不器用な性分のため縄張り図の作成には殆ど縁がない自分だけは別行動で秩父市の館跡をまわることに。

小柱堀の内(埼玉県秩父市) 午前11時30分から正午まで
 赤平川の北岸からの画像がなかったのでついでに立寄って撮影したまででしたが、南側に所在する2か所ほどの小さな沢の様子も確認できたので一応それなりの収穫が。

下蒔田の諏訪神社(埼玉県秩父市) 午後12時10分から午後12時30分まで
 小柱堀の内の南東1.2km付近の荒川とその支流である蒔田川の合流地点で近くに諏訪神社が所在するというだけの場所。合流地点の先端部分は民家の宅地であるため遠くから眺め諏訪神社の社殿を見学。戦時中の戦勝祈願と武運長久の祈祷札が社殿の東側に120枚ほど掛けられ、西側にも同数の絵馬が所狭しと並んでいました。武門の神様の諏訪神社ではありますが、さほど人口が多いとは思われないこの地域の神社にしては武運長久の祈祷札の数量が際立って多いことに驚きます。こうしたお札や絵馬の類もだんだん貴重な歴史的・民俗的存在になりつつあるように思われます。
 合流地点付近は多分水面からは高さにして25m前後の断崖が形成されているものと思われますが、そのあと蒔田川に架かる諏訪橋の上から蒔田川の渓谷などを撮影しただけで勿論これといった収穫はありませんでした。
萩平の遺構(埼玉県秩父市) 午後1時から午後1時50分まで
 萩平地区の農村歌舞伎舞台の所在する場所のすぐ北東側で荒川沿いの河岸段丘に郭状の平坦地と天然の谷川を利用した堀跡状の遺構が目的の場所。ほとんど「秩父郡内の城館」さんのHP情報だが頼りでしたが、20分ほどあたりをうろうろしてから、漸くシイタケ栽培の短く刻まれた丸太が積まれた荒川沿いの山林の中にそれらの「遺構を」発見。まず西側に出郭状の地形(北側に土塁状の高まりも見られる)があり、その東側に北側に堀跡状の地形を伴う細長い形状の平坦地が続きますが、東側はどの辺りまでが界なのか分かりにくい状況です。
 必ずしも城郭に関連する遺構であるかどうかは明確ではないようですが、堀と河川に挟まれたただの平坦地にしては不思議な形状をしていました。堀(谷川)を挟んで北西側の県道の通過する台地から見下ろされる地形なので一般的には城郭には向かないと考えられるようですが、それでは一体何のための場所であったのでしょうか。

田村屋敷(埼玉県秩父市) 午後2時から午後3時30分まで
 臨済宗円福寺の近くに遺構が所在しているとの情報。これもほとんど「秩父郡内の城館」さんのHP情報を頼りにした訪城です。円福寺の所在地と目印の稲荷神社の祠はすぐに判明したものの、田村氏の墓所と遺構の土塁跡が最後まで見つからず。その土塁が見つからずはるかに東側の畑の方でウロウロしていたら、10日前から行方知れずとなった飼猫にそっくりな野良猫 ( 毛並みも良くなく大分痩せこけていたので、たぶん...) がいたので、人気のない道路で出合ったその猫としばし遊ぶことに。さて、残り時間もなくなり猫に別れを告げ車を停めた円福寺の方に戻る途中、ふと後ろを振り返ると猫と遊んでいた所は別の場所でしたが、工場の角の道路ところで何とその猫がしばらくこちらを向いて座っていました。
 翌日「秩父郡内の城館」の管理人さんに教えていただいた土塁のまさにその工場の角から入ったところでしたので、もしかするとその猫はこちらの心を読んで土塁の場所を教えてくれていたのかなどと思ったりもしました。

 さて、夕刻の5時前には再び現地にて再び縄張り図作成の方々と落ち合い、鉢形城笹郭近くの「鉢形茶屋」にて夕食・歓談後に笹郭の石垣を見学して現地解散。




■人懐こい「あんみつ」似の野良猫


■円福寺山門前の満開の白梅

 「あんみつ」の姿が見えなくなってからもう2週間近く経ちました。依然として全く音信普通です。寄居の花園城に来るまで2回も無残に轢死した猫の遺体を目撃。こんな遠くまで来るわけが無いと思いつつも、死亡した猫には気の毒とは思いながらも、体の模様などから「あんみつ」でないことを確認してホッとしたりしていました。そんな心理状態で出合ったこの雄猫ですが、車にでもぶつかったのか体の左側に5センチほどの大きな傷があり、おまけにかなりガリガリに痩せこけていました。「あんみつ」よりも一回りほども小さく体を撫でるとあばら骨がはっきりと分かる栄養状態。
 多分状態から見て野良猫かと思いますが、ものすごくおっとりとしていて自分が近寄って言っても全く逃げようと馳せず、自分から近寄ってきてくれたので、手持ちの餌は何もありませんでしたが暫くの間遊んでくれました。全く初対面の見ず知らずの猫とじゃれ合って遊んだのは本当に初めての体験かと。
 帰りがけにはわざわざ表通りの方までついて来てくれたので、あたかも見送っていてくれていたような感じさえしました。

■人懐こい野良猫がいたところ■

撮影月日:2006年3月25日
撮影場所:埼玉県秩父市にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年3月20日    元気でいてほしい
           



■生後6ヶ月ころの「あんみつ」

 姿が見えなくなってから6日目ですが、依然として音信普通です。娘はわりあいと諦めのよい方らしく、さほどは気にしている様子がありません。しかし、中年の親父の方は諦めがつかず、仕事の方もあまり手がつかないような状態です。「もっと構ってやればよかった、大好きなパッ缶の餌を好きなだけあげればよかった、デジカメの写真ももっと撮っておけばよかった...」と、ひたすら後悔の日々が続いています。
 子どもの小さな時分は愛情を注ぐべき存在が明確でしたが、子どもが成長するに従い子どもとの精神的な距離は離れていきました。音信不通の「あんみつ」は最近ではそうした愛情を注ぐべき対象としてかなり重要な存在になっていたようです。

撮影月日:2005年10月9日
撮影場所:埼玉県 自宅にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年3月19日    無駄とは知りつつも近所をひとまわり
           



■生後2ヶ月ころの「あんみつ」

 無駄とは思いつつも「あんみつ」を探しに、とりあえず近所の公園や広場などをひと回りすることに。勿論これといった収穫などはなく、自分に一番懐いていたこともあり飼い主よりもショックが大きいようで困りました。無事に元気でいてくれたらよいのですが、その無類の人懐こさがかえって仇となる世の中なのでなどと考えると...以前は毎日のように構いあっていましたが、最近は少しじゃれあう機会も減っていて、デジカメも昨年の12月以来撮影していなかったことを後悔しています。
 暖かい季節を迎えて、ふと自分の置かれている平凡な日常生活に疑問を感じて何処かへ旅立っていったのでしょうか。

撮影月日:2005年 6月14日
撮影場所:埼玉県 自宅にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年3月18日    アクセス5万件ありがとうございます
           

 多分先月の2月17日頃にアクセス件数(人数)が5万件に達し、訪城覚書の目次のページもアクセス件数が1万件を超えました。HPの開設以来1年7ヶ月での到達は全く思いもよらないことでした。開設当初は年間アクセス件数5千件が目標で、とりあえず1日あたり10件以上を目安としていたのですが嬉しい誤算となったようです。簡易な重複カウント制御機能付ですので、初めのころはなかなか2桁には達せず自分以外の閲覧者は2人、3人という日もおおくコンテンツのページに至っては一週間で2人程度という状況が続いていました。
 アクセス件数が増え始めたのは、およそ昨年の5月ころからでだいたい一日あたりで20件から30件をコンスタントに刻むようになりました。その後一日あたりの平均アクセス人数はデータ解析システムによれば、2005年8月の80件台をピークとして12月には50人台と6割程度にまで大きく落ち込んだものの、今年の1月以降は再び上昇に転じて70人台の後半を維持しています。また、単純な重複カウント制御付のアクセスカウンターでは1日あたり120件から130件の数値を示すようになりました。Googleの検索で「城跡」と検索すると1位から15位くらいの範囲で比較的上位にランクされていることも多少は影響しているのかもしれません。もっとも、Yapooでは残念ながら15位から20位あたりですが。
 余りアクセス件数ばかりを気にしていても仕方が無いのですが、やはりある程度のカウントが無いと寂しいものがあります。今後もコンテンツの充実を心がけて、何とか1日あたり平均100人を目標として日々努力していこうと思うのでありました。




■生後3ヶ月ころの「あんみつ」

 さて、娘の飼い猫の「あんみつ」が、プチ家出をしたまま3日ほど音信不通となっています。昼間は車庫の屋根の上やベランダに出ていても夜になると必ず部屋に戻っていたのですが。自分で餌を探すことなどできそうもない性質で、行動ものんびりしていて危険予知能力は殆どない、やたらと人懐こく気が優しいだけがとりえのネコでした。去勢手術をしたとはいっても、雄ネコですのでふらっと旅に出たのかもしれませんが今回が初めてのことでもあり心配がつのります。体を撫でられるのが大好きで、構ってやった(構ってもらった)のはもう1週間ほど前かと...

撮影月日:2005年 7月 8日
撮影場所:埼玉県 自宅にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年3月8日    山道は過たず、なぜか車道を誤る
           

 睡眠する環境が異なると何故か早起きする習性が。とはいうものの夜中の3時に起きだしてもどうにもならず暫くまどろむことに。漸く外が明るくなり始め朝食が済み次第出立すべく諸準備を開始。とはいえ食事の時間は午前8時からなので暫く資料とテレビなどを見て時間を潰すことに。腰から下の筋肉疲労は極致に達しているものでアキレス腱などのストレッチを試み事故や怪我の防止に勤しんでいるうちにやっと食事の時間。食事を宿泊客4組7名の内最も早く済ませて、とっとと宿泊代を支払い午前8時半過ぎには出発。さすがに時間に大分余裕があったので、道沿いの秩父札所33番菊水寺に立ち寄り参拝し、いつもどおり世界平和と家内安全という全く次元の違う祈願を。

小鹿野氏館・御陣屋(埼玉県小鹿野町)午前9時00分から午前9時30分まで
 遺構など全く存在しないことは承知のうえですが、郵便局や小学校の校庭、住宅街となっていて全くどうにも想像が働きません。北側を流れている自然の細い用水路はおそらく堀跡である可能性があるかもしれません。又しいていえば小鹿野町役場前の表通りの不自然なカーブがやや気になるという程度かというところでした。
 この後、西阿屋山の東側の中腹に所在する福寿草の自生地の見学へ。今年は全体として植物の開花時期が遅れているようで福寿草とあわせてロウバイがこの時期に満開となっていました。

薄館(埼玉県小鹿野町-旧両神村)午前10時00分から午前10時30分まで
 国民宿舎両神荘の辺りが館跡の模様。宅地造成などにより大きく地形が変化しているものと思われますが、東側を北流している小森川との比高差はざっと20mほどはあるようです。勿論遺構らしきものは確認できませんが、小森川の大きく蛇行した南側の段丘の地形は中世の城館跡には相応しい地形であるように思えました。さて、この両神荘は20年以上前に宿泊したことがありますが、公園の遊具施設の土管のトンネルだけが記憶に残っているものの、施設自体も相当大規模に改修されたようで景観が一変していました。この後北条氏邦が移築したと伝わる近くの県道沿いの法養寺薬師堂とついでに隣の両神神社も参拝。

女部田城(埼玉県秩父市-旧吉田町)午前11時から午後0時55分まで
 登口にやや不安があり農作業中の年配のご婦人に尋ねることに。登口のアプローチ自体に間違いはないものの道自体は獣道の方が良いくらいとのお話。また「昔は鉢形城があった」という旨の情報もいただく。うむ、伝承と云うものはこのようにして口碑にのぼり誤り伝えられていくのかということを、直接身を以って体験できたことにある意味感動してしまいました。
 さて、道は墓地のある個所までは非常に良好。途中所在する新しい墓地に向かって右上の畑の上に登ったあたりから道幅は次第に狭まり、左側の谷河沿いはところどころ崩落が発生。更にすすむとやがて倒木が進路を阻み、次第に獣道か山道かの判別が困難に。更にすすむと正面に大きな岩の斜面がどーんと出現して道は完全消滅。この辺りまでは予想通りだったので、少しも慌てることなく(本当はかなり慌てて...)地形を読み岩壁を攀じ登ることがないような安全ルートを模索。まず、向かって右側には明らかに獣道の跡があるものの、どうやら岩場の真下に出てしまう可能性がありそう。尾根筋までの比高差は目測でおよそ50mほどなので、向かって左側の谷沿いに迂回することとし、九折でなんとか斜面を攀じ登り、結局スタートから45分ほどで無事に尾根筋到着。もっとも無事とはいってもここまで既に2回転倒済み。到達した尾根筋の位置が地図上で判然としないもののむかっている尾根筋の方向は間違いがないのでそのまますすんで行くと堀切に到着。勿論この間は帰路に道に迷う可能性が大きいので愛用の黄色のテープをべたべたと15ヶ所ほど付けさせてもらいました。
 さて、事前の資料ではただの堀切のようですが現物は2重の堀切に見えます。堀切の先のやや平坦な尾根筋から一気に斜面を登り標高475メートルの最高地点に到達。比高差で3mほど下ると尾根の先端部分に郭状の見通しのよい平坦地が。平坦地の先端には小さな祠が祀られていたのでとにかく参拝して、持参の握り飯1個を食べてペットボトルのお茶で水分補給。この場所からは上吉田地区の集落が足元の方向によく見え武田勢の侵入路のひとつである土坂峠から下吉田へのルートを監視するにはもってこいの条件です。
 なお、北東の尾根筋伝いに道らしきものが続いているようですが、途中から岩場の難路に出くわすようですのでこのルートからの登攀・下山は困難な模様です。したがって唯一のルートはたぶん梅沢氏の資料に基づいて自分が辿ったもののみになるようです。尾根筋の手前100mほどの地点で道筋が完全に消滅しているものの、他のルートではそこまでの道さえもなさそうです。また、日尾城や合角ダム方面は叢生する樹木だけではなく、ほぼ同程度の標高の尾根筋と観音山などに視界をさえぎられて状況を確認することができませんでした。なおこの後、尾根筋からの道なき下り急斜面にて見事に滑って青空を見上げることになり合計3回目の転倒。今日は前日と比較して気温も高いので水分補給は重要と思い日尾城に向かう途中で自動販売機で水分補給し、ペットボトルのお茶も補給購入。
 4月の初めくらいまでなら登頂可能なので、今のところ目印のテープもあるし訪城は今がお勧めかと。ただし単独行ではいるとしたらそれなりの装備と覚悟を。
 
日尾城(埼玉県小鹿野町)午後2時05分から午後4時05分まで
 結果的には4か所の山城の中でもっとも見所が多く、しかも道がとても分かりやすい訪城でした。彩の国国体の時の標識などが随所に残されているし、登山道もしっかりと整備されているし...したがって転んだのは1回のみでした。ただし、登口に行き着くまでにあろうことか道路を間違えて土坂峠方面へ向ったりしていたので、ざっと1時間近くのタイムロスとなりました。
 さて城跡へは麓の集落から牛首沢沿いの程よく整備された山道を登っていきます。あちこちに砂岩と思われる巨大な岩壁が点在するダイナミックな光景を見ながらどんどん高度を上げていくと30分ほどで、地殻変動の断層後といわれている大きな岩の割目が特徴の牛首峠に到着します。どこの山城もこのくらい道が整備されていると楽なのですが。したがって麓からの比高差が210メートルほどあるにも拘らず、体力的にも余り負担にはなりませんし、峠の稜線部分の位置が見当をつけられるので心理的にもプレッシャーがありません。肝心の城跡は4段の建物が所在してもよいよいな平坦地と出郭、八幡曲輪、物見台と幾つかの腰郭などから構成されています。又遺構の所在する周辺は西側の牛首峠の所在する痩せ尾根と東側の観音山の側を除いて切り立った岩壁に囲まれた正に要害の地です。
 城跡からの下り道もうすぐ麓にさしかかろうとしたとき、何故か突然「北国の春」(イントロ-ONEコーラス-間奏)の曲が流れたので、よくある役場の「防災無線 夕方のお知らせ」かと思っていたところ、実は生活用品販売の1.5トンほどの移動巡回車なのでありました。横目で積載している商品を見ると漬物、菓子、飲み物、調味料、洗剤、雑貨に至るまで少量多品種な商品を積載していました。余り珍しいので少しはなれたところから記念撮影させてもらいました。以前にはこのあたりだけでも30戸ほどの集落ですので商店が所在したものと思われます。おそらくは過疎化や後継者難を含む経営上の問題があって廃業するに至ったのでしょうか。居住されている方の平均年齢も高いようで集まってきたお客さん数名も70歳台前後。北国ではないにしても、山間の集落にはぴったりの音楽と移動販売車なのでありました。

比丘尼城(埼玉県秩父市-吉田町)午後4時30分から午後4時50分まで
 さて、時刻はもう夕刻に。日没時間が大分のびてきたとはいえ山間の地方はやはり太陽が隠れるのは早くもはや訪城する時間は残ってはいません。本来この比丘尼城は最初の日の一番目に訪城する予定でしたが、天候、ルートの難しさ、登頂の困難性などから考えて直前で後回しに。所謂課題先送りというやつです。それでも、どんな様子なのか一応見るだけでもと麓の集落まで車でアプローチ。直接見上げることのできる場所にて道路わきに車を停めてしげしげと様子を観察。ところがどう見ても女部田城とはあまりにも比較にならず、少なくとも単独行は危険な様子。最低でも山慣れた2名以上の人員で無いととても歯が立ちそうにありません。比高差が250mあるだけではなく、とにかく勾配が半端でなく、道も崖を迂回するルート探しながら進むというアドベンチャーの世界のよう。思わず麓の道路で城跡を見上げて一人でニタニタと笑っていました。
 夕暮れ時、ただの山の頂を見上げて薄ら笑いをしている中年男...どう見ても怪しい人物の典型なので、本当に怪しまれないうちにそそくさと退散を。




■とろろ蕎麦大盛900円也



■照明を抑えた店内

 水曜日というのは蕎麦屋さん関係は定休日が多いので、夕食抜きを避けるべく予め帰宅するルート上で目星をつけておいた店。蕎麦屋さんの屋号としてはかなりポピュラーなネーミングのようで、搏c屋さんは深谷市、嵐山町に続いてこれで3軒目に。
 平日ということもあり7時前の入店にも拘らず客は自分ひとり。前回のように団体客の大騒ぎも嬉しくありませんが、客一人というのもやや気が引けて落ち着かない感じです。「うどん」や「ご飯の丼物」もメニューにありましたが、外食は基本的に蕎麦を食べることを信条としている身としては、迷うことなくいつものとろろ蕎麦大盛を注文。幾分もっちりとした手打風の蕎麦は香の物も添えられて大盛150円増しの良心的お値段。
 店内の白熱灯をメインとした照明は、やや落とし気味で落ち着いた空間が醸し出されていました。入口の照明を明るくして、トイレのドアの取り付け位置が改善されると更によいのですが。

■搏c屋さんの所在地■

撮影月日:2006年 3月 8日
撮影場所:埼玉県 東松山にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年3月7日    尾根が広くて危うくガスに巻かれそうに
           

 珍しく午前7時過ぎには自宅を出発することに成功。今回は訪城を始めてから初の宿泊を計画したこともあり朝から気が入って6時前起床に成功。というのも埼玉の西の地域なので往復だけて6時間ほどかかってしまうという事情もあります。くわえて疲労困憊して夜間3時間運転するというのもいかがなものかという判断も加わっての話です。

円福寺(埼玉県皆野町)午前9時20分から午前9時30分まで
 途中通勤時間帯と重なりやや渋滞に巻き込まれたものの、通り道ということもあり少しだけ立寄ることに。この寺は秩父七福神の大黒天が祀られているということでやや観光地のような雰囲気がありますが、平将門の弟である将平の墓(将門との説も)と伝わる自然石の五輪塔が所在しています。また畠山重忠の父にあたるとされる畠山重能の五輪塔と伝わる墓なども所在する大変歴史の古い寺です。なお、この寺の500mほど西側の荒川の対岸には「小柱堀の内」が所在しますので歴史的な相互関係が窺がわれるようにも思われます。
 

鷹谷砦(埼玉県小鹿野町)午前10時30分から午後0時20分まで
 吉田町から県道37号線から国道299号線にすすむつもりが、武田信玄の秩父谷進軍ルートのひとつとされる土坂峠へ向かう県道71号線を走り、そのまま気づかずに合角ダムの近くへまで行ってやっと間違いに気づいてUターン。早くも15分ほど時間を浪費。さて、この間違いには主に2つの原因が。ひとつは道路地図には直進すれば国道299号線にぶつかるように記されているにも拘らず、実際には左折をしないといけなかったこと。もうひとつは旧吉田町の千鹿谷鉱泉付近地形が、三山の鷹谷砦の地形に酷似していたこと。このため途中まではてっきり鷹谷砦だと勘違い。ここまでくれば日尾城に行っても良かったのですが、資料に充分目を通していなかったため戻るはめに陥ったという次第。要するに如何に事前の準備が相当にいい加減であるか明白に。
 さて、黒海土バイパス前の信号から国道299号線を8キロほど西へと向かい赤平川沿いの鷹谷砦へ。今度は間違いなく「秩父郡内の城館」さんのサイトに掲載されていた画像と寸分違わない特徴のある尾根筋を目前にすることができてやれやれ。中学校の跡地の駐車場に駐車させていただいてから、徒歩にて赤平川に架かる橋を渡り、さらに突き当りの道を左折すると墓地のある尾根筋の東端部分が視界に。石祠が2つ並んでいるところから尾根筋に向かう明確な山道が続いています。尾根筋に穿たれた堀底のような地形の山道を息を切らして登攀。比高差は160m程度にも拘らず、いきなりの急登のため何度も小休止のやむなきに。息の切れる登りは辛いものの、ともかく先に進まねば目的は達成されず、重たい足を引きずりつつ80mほど標高を上げると尾根幅が広がりやや平坦な地形に変わり一息つくことに。
 登り始めて20分ほどで最初の堀切部分に到達。その後僅かに土塁状の遺構が確認できる2か所の堀切を過ぎて痩せ尾根の岩塊を利用して普請されたこの城最大の堀切部分に到達尾根筋の南北方向は切り立った崖状ですが、樹木が結構叢生しているためにその高度差や勾配の割にはそれほどぞくっとするという感じがありません。ここから尾根のやや北側寄りの道を進み郭状の平坦地を過ぎて標高505メートルの切り立った地形の主郭へ登頂。山頂からは標高996mの特徴のある白石山(毘沙門山)の岩尾根が頭上に覆いかぶさるようにして赤平川の北岸に立ちはだかり、眼下には国道299沿いに所在する三山の集落が広がっていました。永禄12年この地を舞台にして後北条氏と武田氏の小競り合いが展開され一時的には武田氏が敗退したものの、その年の9月には後北条氏は小田原城まで武田勢の進軍を許す結果となったようです。またこの山頂から西へ8kmほど尾根筋を辿ると秩父の名峰標高1723m両神山に達するはずですが、間の尾根筋は通行不能な岩尾根の難路の連続のようです。南北の谷沿いからの登攀は困難を極めますので、まさに物見砦としては鉄壁の守りではありました。なお、下りの枯葉の坂道で1回だけずるっと転倒し空が見えました。

要害山(埼玉県小鹿野町)午後0時30分から午後0時50分まで
 「埼玉の中世城館跡」に記された戦国時代の山城らしいという記述と、国土地理院の2万5千分の1の地形図だけがたよりという甚だ寂しい情報。鷹谷砦の南東1kmほどの目と鼻の先に所在し、地図上では要害山の西側の鞍部になる戸蓋峠への里道が記されているものの現地では途中消滅の形跡。建設関係の資材置き場なども所在し地形がかなり変わっていることも影響しているかも知れないのですが、何ヶ所か道らしきものを進んで50mほど高度を上げては見たものの通行止なども含めていずれも西側の小さな谷筋の手前で消滅。おまけに途中の道は土石流の発生で崖の崩落が進行中の模様。どうやらこの三山と両神の薄を結ぶ徒歩で1時間ほどの古い峠道は、近年の周辺の自動車道の整備により不要になってしまったものと思われます。
 したがって、残り時間の関係もあり時間に余裕のあるときに再度挑戦することとして、登頂を断念し麓からしげしげと観察して訪城終了することに。比高差は215mほどで多少斜面の傾斜があるものの、よっぽどのことがない限りはおそらく1時間前後で登頂可能な地形に見えるのですが。峠道なので今度は薄川沿いの南側から攻めてみるのもひとつかと。
 
塩沢城(埼玉県小鹿野町-旧両神村)午後2時00分から午後4時25分まで
 本日は天気予報によれば午後からは日が差すはずでしたが、午前中からの重たい感じのする曇天は相変わらずの状態。雨が降り出すまでには至らないものの、視界が1キロから2キロあるかどうかという厚い雲に覆われた見通しの良くない天候に。午前中の「鷹谷砦」で思いのほか時間を消費し、さらに一つ前の「要害山」で敢え無く退却しているため、やや天候や所要時間の関係上から厳しい条件となってしまったものの、装備一式(鉈、鎌、ロープ60m、ヘルメット、懐中電灯、非常食料2日分、昼食の残りのお握り1個、ペットボトルのお茶1リットル、風を防ぐビニールシート、方位磁石2種類ほか)を確認して訪城開始。尾根筋の稲荷神社まで車で行けるのでかなり体力的には楽なはずと思ったのが大間違いで、稲荷神社の広い駐車スペースから最初の遺構らしき平場まで30分間ひたすら登りっぱなしで、膝はガクガク呼吸はゼイゼイ。そこから更に1時間近くかけて幾多の腰郭らしき平坦地を乗り越え主郭と推定される比較的広い杉林に覆われた平坦地に到着。更に、そこから鐘撞場と伝わる山岳信仰関係の石碑が大量に祀られている標高760メートルの山頂まで登ってもうフラフラに。山頂で持参のお握り1個を食べ、自然に冷えたペットボトルのお茶を呑んで一心地ついてから下山開始。うずたかく積もった枯葉の斜面はよくすべり合計にして3回転倒。
 谷沿いにガスが上がってきているのが初めから気にはなっていたことと、最初の平場より上の部分から稜線の幅が広がっているので、要所要所に持参の黄色いテープを枝に付けさせてもらっていたことが結果的に役立ち、
多少ガスに巻かれつつも最初の平場まで1度コースを外した以外には大きな問題もなく無事到着。天候と時間の問題がなければ更に奥の尾根筋を探索することもできたかもしれませんが、今回はともかく安全を第一に最小限度の探索に留めることに。

小沢館(埼玉県小鹿野町-旧両神村)午後4時50分から午後5時10分まで
 日は大分傾いてあたりも薄暗くはなってきたものの、宿泊先に向かう途中の道路沿いに所在するらしいので少しだけ立寄っていくことに。とはいえ具体的な遺構が存在するわけでもなく大体の場所しか分からないので、東側の神社のあたりと西側の現在は屋敷門として使用されている埼玉県指定の文化財である甲源一刀流の道場を表から見学しただけのことでした。北側を流れる赤平川と南側を流れる小森川が合流する地点の台地上に所在し地形的な配慮が働いていることが推察されますが、現地ではそれ以上のことはよく分かりませんでした。 

 このあと、旧吉田町の宿泊施設に向かい6時半から夕食を摂ったあと、アルカリ泉質の温泉で入浴。のどが大分渇いていたので自動販売機で水分補給をしつつ傍らの本棚に無造作に置かれていた「吉田町史」をこれ幸いと読みふけり、部屋に戻って明日訪城予定の女部田城の地形図をしっかりと頭に叩き込み、日尾城の遺構位置を思い描きつつ睡眠...。




■見かけは獰猛..でも尻尾をふりふり


■平重能(畠山重能)の墓

 史跡の探訪とは全く関係ないことですが、この寺には2匹の黒い中型犬が2匹も庭に飼われていて、しっかりと繋いではあるものの、怪しい人影(たぶん自分のこと)を感知したらしくものすごい勢いで駆け寄ってきました。突然吠え立てながら10m以上も走ってきたのでやや焦りましたが、そのままものすごい勢いで吠え立てるわけでもなく比較的大人しく尻尾などをふりふりしていましたので一安心。(丈夫なワイヤーが敷石に沿って白い砂利の中に埋め込まれているので、この位置よりこちらへは移動できない模様です)
 犬は鼻がよいので、おそらくは自分の服に染み付いたかすかなネコの匂いを嗅ぎつけたのかもしれません。

■新義真言宗智山派円福寺■

撮影月日:2006年 3月 7日
撮影場所:埼玉県 皆野町にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ
menu
トップ頁ヘ HP趣旨 訪城覚書 HP日記 参考資料 リンク集
日記の目次 工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想 工事中