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画像クリックで水堀状の構堀跡へ
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おすすめ評価
訪城季節5 遺構状態4 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯4 印象4 総合31
所在地
埼玉県比企郡川島町下八ッ林
歴史と沿革

「道祖土家文書から」浮かび上がる土豪階層の実像
  26点にも及ぶ戦国時代の古文書である「道祖土家文書」を所蔵していたことで県内でも著名な旧家です。道祖土家に伝わる文書類からは、岩付太田氏の家臣として享禄3年(1530)太田資頼から「29貫500文」を拝領していること、あるいは元亀3年(1572)、天正9年(1581)の氏政、氏直への代替わり時の改定着到状において「馬上1
名、鑓持1名、旗持1名で合計3名の軍役」
という比較的規模の小さな在地領主であることなどを明らかにする内容も伝わっています。
 また、太田氏資の討死により後北条氏の直接支配の傾向が強まった永禄10年(1567)の北条家印判状では美尾谷、戸森の郷代官に再任されています。このことから道祖土氏は八ツ林を含む3ヶ郷の郷代官を務めていたことが推定されます。
 なお、佐脇栄智氏の「後北条氏と領国経営」(1997年/吉川弘文館)によれば、道祖土氏の存在は土豪階層の小代官として位置づけられおり、これらの事柄から道祖土氏はあくまでも岩付太田氏の家臣、代官として存在していたものと考えられます。
 また、「赤浜之原の合戦」(上田氏と岩付太田氏の抗争--後北条氏と上杉氏の代理戦争の性格)において道祖土図書助(康兼か)が上田朝直の家臣山田伊賀守(腰越城主あるいは安戸城主)を討取ったことに対する永禄5年(1562)の太田資正感状は有名な存在です。

確認できる遺構
堀跡、一部水堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

「堀跡」であることは確信
 肝心の遺構については、東側に所在する善福寺との境に草木に隠れてやや確認しづらい状況もありますが、南北方向に延長約100m、幅3mから5m、深さ1m以上の一部水を湛えた堀が明確に存在し、屋敷の北東部で直角に曲がって屋敷の西側へと続いていました。 勿論近世以降の用水路などとの関係もあるかもしれないので、あくまでも時代背景などについては断定などはできませんが、一定の歴史的な背景を有する屋敷の構堀の一部であることはほぼ間違い無いものと思われました。 またことによると、南北の用水路などと併せて二重堀のような景観を呈していたのかも知れないなどと、勝手な想像が広がる予想外に見事な堀跡なのでありました。明治13年に作成された「道祖土氏屋敷図」においても「堀」として宅地の東側と北側に鍵の手状に記されています。なお、館跡と推定される道祖土家は市野川などの長年にわたる氾濫により形成された自然堤防の微高地に所在している模様です。

文化財指定
訪城年月日
2006/08/28
訪城の記録 記念撮影

( 2006/08/28)
「道祖土家文書」で著名な道祖土氏屋敷
 「道祖土家文書」の所有者のお宅で、約150mほど先の宅地へと至る一本道の県道沿いに、ポツンと「道祖土家文書の文化財の標柱」が設置されていました。 「埼玉の中世城館跡」などでは城館跡としては収録されていませんが、多数の戦国期の古文書を所蔵されていたお宅なので、地形的に何かそれらしい痕跡は絶対にありそうだとの確信のもとに訪問を。運よくたまたま庭掃除をされていた年配のご婦人に少しだけお話を伺うことができ、「大分以前には構堀が屋敷の四方を取巻いていた」というような事情なども判明しました。
 訪城後に調べ始めた「川島町史 資料編 古代・中世」には、訪城時に撮影した堀跡そのものが「堀」として明確に記されていました。実を言うと、A4サイズ2段組み845ページ、総重量2.14kgという分量に圧倒され、事前に良く見ていなかっただけのことですが。なお、資料編の検証中に、机上より落下して右足の甲に激突。本自体には影響はありませんでしたが、右足の甲は皮がむけて暫くの間凹んでおりました。
 なお、館跡近くの用水路には今年オタマジャクシからかえったばかりのトノサマガエルがうじゃうじゃと百匹以上棲息中。 子どもの頃から大の蛙好きなので、まずはこれ幸いと蛙の写真撮影に専念。 しかし傍目にはいい年をした人間が、ただひたすら田んぼのトノサマガエルの姿を連写しているというのは相当に不気味な光景かと。


画像クリックで水堀状の構堀跡へ
道祖土氏館遠景(北東方向より)
画像クリックで東側の水堀跡の画像へ
( 2006/08/28 撮影 )

( 2006/10/13)
東側と北側の堀跡の再確認
 白岡町方面に向かうにあたり目の前を通過することと、前回の訪城時に北側の堀跡の状況を十分に把握していないことなどもあり再訪。
 つい先日まで長雨や大雨のあった関係からか、東側の堀跡の水量は特に豊富で構堀としての規模の大きさを改めて実感することができました。最も幅の広い部分では4間近くはあります。
北側の堀跡(用水路)は幅や深さが縮小しているような印象ですが、少なくとも50m以上は続いていることを確認。たぶん東西方向に100m前後は痕跡が残されているものと推察。 しかし、そこから先は雑草が蔓延り水路と耕作地の境際の区別が難しく足元に不安等もあり自重することに。 なお、幅1.5m弱の用水路を渡る時に何とか飛び越えることに成功。膝その他の足回りに弱点の多い小生としては、人気の全く無い雑草の生茂る水田跡で思わず小さなガッツポーズを決めるのでありました。


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道祖土氏館東側の水堀
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( 2006/10/13 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで南西方向からの遠景へ
■1■埼玉県指定文化財「道祖土家文書」の文化財標柱
 著名な道祖土家文書」所有者のお宅で、約150mほど先の宅地へと至る一本道の県道沿いに、ポツンと「道祖土家文書の文化財の標柱」が設置されていました。 「埼玉の中世城館跡」などでは城館跡としては収録されていませんが、多数の戦国期の古文書を所蔵されていたお宅なので、地形的に何かそれらしい痕跡は絶対にありそうだとの確信のもとに訪問を。 画像クリックで南西方向からの遠景へ
画像クリックで外堀のような用水路においでになったトノサマガエルへ
■2■外堀のような用水路 画像クリックで水路のトノサマガエルへ
 県道74号線に平行している用水路で、常識的に考えれば中世の館の堀跡とは無縁かと考えます。この日はトノサマガエルとよく出会ったので、久しぶりにその生態をじっくりと観察しながら記念撮影。
画像クリックで水堀状の構堀へ
■3■この堀跡を北へ辿ると構堀へ続く 画像クリックで東側の堀跡へ
 東隣の善福寺との間に所在する堀跡状の溝ですが、その「道祖土氏館」について纏めようと「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町)をの中世のページを付箋を貼りながらじっくりと検証していると、何と471ページに地租改正後の明治13年に作成された「道祖土氏屋敷図」が掲載されていることを発見。この屋敷図によれば、その当時は南北に細長い水田と記されています。北側の道祖土家東側の堀跡と直線状に位置していました。
■4■東側からの遠景
「川島町史 資料編 古代・中世」は元来が資料編のため内容の殆どが古文書と板碑関係。このため「読み下し」や「解説」が掲載されていなければ手を出しにくい内容で、実のところかなり辟易しながら眺めていたこともあり、「道祖土氏屋敷図」が掲載されていたことにはある種の驚きさえ感じました。
 
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■5■ノウゼンカズラ  画像クリックで拡大
 独り立ちはしない性質のつる性の蔓の一種。ノウゼンカズラ科ノウゼンカズラ属の落葉低木で、独特なラッパ型のオレンジ色の花をつけます。他の高木に巻きついて生育するため、樹形は千変万化。別名をチャイニーズトランペットフラワーとも。人間社会でも自立していないのによく目立つタイプの人は少なくないようですが。
                   -善福寺の境内にて撮影-
モモイロヒルザキツキミソウ 画像クリックで拡大します
■6■モモイロヒルザキツキミソウ 画像クリックで拡大
 カタカナ表記だとなにやら暗号のような文字配列です。漢字で書けば「桃色昼咲月見草」となるのですが、桃色・昼咲と月見草の取り合わせがどうもがしっくりとこない印象です。読んで字のごとくマツヨイグサなどの月見草の仲間ですが、この品種は日中に開花します。
 北アメリカ原産のアカバナ科マツヨイグサ属の多年草で、花径は1.5cmほどで、その可憐な薄桃色の花びらは遠くから見るとコヒルガオのようにも見えます。  -善福寺の東側の水路沿いに自生-
ミソハギ 画像クリックで拡大します
■7■ミソハギ 画像クリックで拡大
 旧盆の頃に満開となるミソハギ。漢字で書くと「禊萩」とされ、お盆の切花として使用されることも多いようです。
 ミソハギ科ミソハギ属の多年草で草丈は大きくても1m程度で、直線的な茎の先端に紅紫色の小花が纏まって咲きます。遠目にはミントやハナトラノオにも似ていますが、この品種の花色は鮮やかな薄紫色をしていました。本来は水辺や湿地に自生するとのことで、善福寺脇の用水路の端に群生していました。
堀跡と宝篋印塔 画像クリックで拡大します
■8■堀跡と宝篋印塔 画像クリックで拡大
 館跡の東側に所在する善福寺の墓地には道祖土氏の墓石と宝永年間(1704-1711)と刻まれた近世の宝篋印塔が造立されていました。
             -善福寺墓地より-(2006/10/13 撮影)
イモカタバミ 画像クリックで拡大します
■9■イモカタバミ 画像クリックで拡大
 ムラサキカタバミによく似ていますが、花色が濃く、中心部分の色が更に濃いのが特徴です。南米原産の多年草の帰化植物で、6月から8月にかけて道端などで咲いているのをよく見かけますが、今年は例年よりも暖かいせいか10月中旬でも元気な花を咲かせていました。
             -善福寺近くの道端にて-(2006/10/13 撮影)
北側の堀跡 画像クリックで拡大します
■10■北側の堀跡(用水路) 画像クリックで拡大
 北側の堀跡(用水路)は幅や深さなどの規模がだいぶ縮小しているような印象がありますが、少なくとも50m以上は続いていることを確認。たぶん東西方向に100m前後は痕跡が残されているものと推察しています。また、明治13年に作成された「道祖土氏屋敷図」では西側にも堀跡状の南北に細長い水田が記されていますが、田の畦道の雑草が生茂り足元の地面が見えないため、冬季でないとその現状確認は難しいものと思われます。
                            (2006/10/13 撮影)
交通案内

・県道74号線の北側で下八ツ林の交差点から東へ約300m、善福寺西隣。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 比企郡下八ツ林村の項の旧家として、道祖土氏が「藤原氏、須藤氏、那須氏を経て関東管領上杉氏に仕え、更にその後北条早雲に仕え...」との家譜を紹介しいるものの、収録した「道祖土家文書」の内容から推察して、「図書助康兼」の頃から岩付太田氏に仕えた旧家であるとの判断を下しています。
■武蔵志
 八ツ林村、表村の記述の中において「道祖土家文書」を計11点ほど筆写しているものの、道祖土家やその居館などに関する記述は全くありません。道祖土家から分かれたとされる祖先を同じくする福島氏の当主である福島東雄が編纂したという事実と、道祖土氏に対する記述の少なさが意味するものは実に興味深い事実です。 老袋城のページへ

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「川島町の地名」(1999/川島町)・「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町)
「川島郷土史」(1956/川島郷土研究会)・「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)
「川島郷土誌 編集復刻版」(2001/川島町)・「川島町の板碑」(1999/川島町) 

・2006/10/08 HPアップ
・2006/10/09 一部加筆訂正
・2006/10/17 画像追加、画像入替え

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