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関連ページへのリンク  2006/08/21のブログ 伊奈備前守陣屋
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態3 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合28
所在地
埼玉県比企郡川島町大字表
歴史と沿革

陣屋跡はあくまでも伝承か...岩付太田氏の菩提寺としての性格
 臨済宗常楽山養竹院がその陣屋跡とされていて、陣屋跡であることを示す石碑も山門脇に所在。 「新編武蔵風土記稿」の記述によればこの寺の創建自体が太田道灌の供養のために建立されたとの寺伝を引用していまが、「同稿」では資家が「養竹院義芳道永」という法名であることから、甥(道灌の養子)の資家の菩提を弔うために創建されたという説を示しています。また、付近には中世の環濠をめぐらした居館を指し示す「堀内(ほりのうち)という」小字名が残され、「川島町の地名」でも常楽山養竹院が太田道灌の陣屋跡であるとの伝承を紹介しています。
 仮に、扇谷上杉氏の重臣(相模国守護代の地位に相当)である太田道灌が一時にせよその陣屋を置いたとすれば、古河公方足利成氏の勢力、長尾景春の乱などの反上杉勢力に対して攻勢をかけるため、15世紀半ば以降の康正年間から文明年間時代のものと推定されます。
 「太田道灌書状写」(「松平文庫所蔵文書」)によれば、文明10年(1478)7月上旬に道灌は主君である上杉定正を迎えるために河越から井草(川島町井草)へと着陣したことが記されています。「井草地区」と養竹院の所在する「表」とは直線距離にして4km弱と比較的近いことから、このことが後に伝承として形成されていったた可能性もあるのではないかとも考えられます。
 またこの地は後に、太田資頼を始祖とする岩付太田氏の支配するところとなります。

確認できる遺構
空堀か
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

自然堤防上の微高地に所在
 「新編武蔵風土記稿」の挿絵図を信用する限りにおいては、下記の堀跡といっても良いような溝跡は全く描かれてはいません。周囲には市野川の氾濫原となる低地・水田がひろがり、現在の水田面との比高差は北側で最大2mほど、南側で1mほどを測ります。また自然堤防の微高地自体としては東側の美尾谷十郎館跡の所在する広徳寺に隣接し、その距離は直線にして僅か300m足らずに過ぎません。
 現在残されている空堀跡状の溝については、その規模の点などから当時の遺構そのものであるのかどうかについてはやや疑問がのこります。太田道灌の陣屋が一時的に置かれたとするならば、地形的に見て広徳寺周辺も含めて陣を張るものと考えられます。

文化財指定
訪城年月日
2006/08/21
訪城の記録 記念撮影

( 2006/08/21)
一時的な陣城跡か
 臨済宗常楽山養竹院がその陣屋跡とされていて、陣屋跡であることを示す石碑も山門脇に所在。 「新編武蔵風土記稿」の記述によればこの寺の創建自体が太田道灌(1432-1486)の供養のために建立されたとの寺伝が引用されています。 扇谷上杉氏の重臣である太田道灌が一時にせよその陣屋を置いたとすれば、古河公方足利成氏勢力、長尾景春の乱などの反上杉勢力に対して攻勢をかけるための15世紀半ば以降の康正年間から文明年間時代のものと推定されます。
 周辺は大規模な水田地帯のため構成の用水路などとの関連もあるので、実際に当時の堀跡に関係するものかどうかは判然としません。 しかし、内堀に相当するような幅2間から3間深さ約1mほどの堀跡の一部が境内の南側(約30mの水堀)と西側、北側(約50m以上の空堀)に遺されていたことは時代背景が不明ではあるものの意外な収穫でした。また境内の北側部分にも外堀の役割を果たすような、堀跡状の水路が東西方向に続いていました。

太田道灌陣屋跡の遠景
南側からの「太田道灌陣屋跡」の遠景
( 2006/08/21 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで養竹院の現地解説板へ
■1■陣屋跡の石碑 画像クリックで現地解説板へ
 「太田道灌の陣屋跡」であることを示す真新しい石碑ですが、何処となく墓石に近いような印象を持たざるをえませんでした。花立の筒を手前に2ヶ所設置すれば、直ぐにでも合掌ができそうな形状をしていました。
 下記の「2」の全伝文句と照合すると、その資材からしてどうしても益々「墓石」に見えてしまうのは気のせいでしょうか(笑)
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■2■有名人は「宣伝材料」にされる宿命が
 太田道灌クラスの歴史的な有名人ともなると、寺院や墓地のキャッチフレーズとしても利用されているようです。陣屋跡に関しては多分に伝承としての要素が強い感じもしますが、歴史的に太田氏所縁の寺院であることに相違はありません。
 また、同寺には太田三楽斎資正の父である太田資頼の肖像画(埼玉県指定有形文化財)やその墓所なども所在しています。
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■3■たぶん「弁天池」「天神池」などというような名称かと
 「新編武蔵風土記稿」の挿絵にも描かれている天神社と弁天社の所在している本堂から見て南側の祠と池ですが、下の「4」の西側の空堀跡に直角に繋がってっていました。しかし、下の画像のような堀跡については全く描かれている様子がありません。
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■4■空堀跡らしき溝 画像クリックで拡大
 東側を除いて残存する溝跡は境内からの雨水の排水路、または用水路の一部とも考えられなくは無いのですが、それにしては幅約2間、深さは約0.8mから1mと規模が大きく、「水害対策に伴う水塚」(川島町では、近世中頃からの明治期にかけて202例が確認されているとのこと)などの造成のための土取跡の構堀にしても規模が大きいように思います。
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■5■板碑 画像クリックで拡大
 太いワイヤーでがっちりと固定されていて、おそらくは板碑の保護などのための措置かと思われますが、何処と無く板碑の「磔の上、獄門に処す」というような風情を感じてしまうのでありました。
 右から天文年間、文和3年(1354)、暦応2年(1339)、延慶2年(1309)、3基おいて貞和2年(1346)と鎌倉時代末期から南北朝期にかけての紀年が刻まれています。
■6■北側の堀跡状の遺構
 内郭部分の北側の堀跡で、西側ほど明瞭ではないものの、基本的には「4」の堀跡と同様の規模があります。
 陣屋の内郭の内堀として捉えた場合には、およそ50m四方の規模なので200人の軍勢が駐屯できるかどうかの広さに過ぎず、単独で捉えた場合には余りに小さすぎるように思われます。
■7■北側の外堀に相当してもよさそうな用水路
 南北には現在でも広々とした低地の水田地帯が展開し、自然堤防との比高差は画像からはわかりにくいのですが、最大で2mの規模を測り左の奥の方の平地林が養竹院の境内へと続いています。
 
■8■ゴマの花
 多分自家用だと思われる陣屋跡脇の畑で一畝分だけ栽培されていた淡い薄紫色のゴマの花。
8月頃の花期が終わると、黒い細長い種子のたくさん詰まった袋が茎の下の方から次第に形成されていきます。
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交通案内

・臨済宗常楽山養竹院を中心とした周辺の地域
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 比企郡表村の臨済宗常楽山養竹院の項に「寺伝に云、當寺の境内は古え太田備中守資長入道道灌の陣屋なり、その子(養子)信濃守資家明応の頃父道灌追福のため、叔父叔悦禅師を開山として建立すと...」と記されています。現地の解説板ではその寺伝をそのまま引用していますが、「同稿」では信濃守資家が「養竹院義芳道永」という法名であることから、資家の菩提を弔うために創建されたという説を示しています。なお、道灌の墓は神奈川県伊勢原市の洞昌院に所在し、叔悦禅師はのちに臨済宗大本山の鎌倉円覚寺の住職となります。
■武蔵志
 比企郡表村の記述として叔悦禅師を開山とする養竹院の記述等はありますが、道灌の陣屋跡とする記述は見当たりません。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)・
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「川島町の地名」(1999/川島町)・「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町)
「川島郷土史」(1956/川島郷土研究会)
「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)
「川島郷土誌 編集復刻版」(2001/川島町)
「川島町の板碑」(1999/川島町)
「扇谷上杉氏と太田道灌」(黒田基樹 著/2004/岩田書院) 

・2006/09/25 HPアップ

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