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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/12/17の日記 山田館 腰越城 砂久保陣場
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯2 印象3 総合26
所在地
埼玉県秩父郡東秩父村大字御堂字城山
歴史と沿革

安戸の地は上田氏の本拠地
 永禄年間のはじめ上田朝直と太田資正の武州松山城の領有を巡る争いの中において、一時合戦に敗れた上田朝直が体勢を立て直すために退却したとされる地域と考えられています。したがってその城主には上田氏の重臣の一人が担っていたものと考えられ、「文化財調査報告書第30集 深見城跡 」(神奈川県大和市文化財調査報告書 1988)によると「根古屋式の城であり...平時は山田一族の安戸肥後守が城主として配置されていたものと思われる」(『壇越山田伊賀守家系法号記録』)としています。なお、 「東秩父の文化財」などの東秩父村の関係資料でも「根古屋方式の詰めの城あるいは物見台」の役割があったものと推定しています。
 なお「新編武蔵風土記稿」は安戸村の項に「城山」の記述を載せ、山田屋鋪跡の個所にも「城山」の記述がなされています。ともに安戸城に関する記述であると思われますが、微妙に内容が異なっています。なお、前者では「村の西御堂村界にあり 松雑木等生茂れり 登ること5、6町 頗る平坦あり 鉢形城全盛の頃、大河原神冶太郎と云るものの居城なりと云う 事蹟詳ならず」とされているのに対し、後者では「城山とも云う 村の西北にあり 雑木生茂りたる小山あり 今に堀切などの蹟あり その審なることは土人も伝えず」とされています。

太田資正と上田朝直 「扇谷上杉氏と太田道灌」(黒田基樹 著 2004/岩田書院)等抜粋引用
 この二人の人物は武州松山城の領有を巡り因縁の争奪戦を繰り広げます。岩付太田氏の庶子である太田資正(1522-1591)は扇谷上杉家の重臣で松山城主(城代とも)の難波田弾正左衛門尉(法名は善銀、実名は憲重と推定)の娘を妻に迎えて善銀の婿養子となります。一方上田朝直(後の案独斎宗調)は善銀の甥に当たることから二人は強いていうならば義理のいとこ同士ということになります。
 ところが、天文15(1545)年4月の河越砂久保の合戦で扇谷上杉朝定、難波田善銀が討死をとげ扇谷上杉氏は事実上滅亡し、その本拠地の武州松山城も落城します。扇谷上杉氏方として一時上野に逃れていた資正は、後北条氏の主力が里見氏との抗争を繰り広げている間隙をぬって、松山城の守備を任されていた後北条氏の垪和伊予守らから同年の9月には松山城を奪い返します。
 また資正は天文16年(1546)12月資正は兄資顕の死去により居城である岩付城を奪取し岩付城主となります。このとき資正は善銀の甥に当たる義理の従兄弟上田朝直に松山城の支配を委ねます。しかし、善銀の養子問題で資正に対して遺恨のあった朝直は北条氏康に内応して松山城とその所領を安堵され資正から独立します。このあと北条氏康の軍に囲まれた岩付城の太田資正は後北条氏の軍門に一時期に下ります。
 しかし、資正はその後上杉謙信の関東侵入に応じて永禄3年(1560)頃から後北条氏と敵対関係となり翌永禄4年には謙信の軍事力を背景として松山城を回復します。そののち後北条氏の反抗により永禄5年7月赤浜原で前松山城主上田朝直と合戦してこの時は後北条方の朝直の軍を敗走させます。このときに登場するのがこの安戸の地ととされています。なお、資正は永禄6年2月には再び手中に収めた松山城を再び奪い返され、更に永禄7年(1564)7月には後北条氏に内通した嫡子である氏資により岩付城を追放されてしまいますが、その後は成田氏や佐竹氏の庇護を受けて武将として活躍することとなります。

確認できる遺構
郭、堀切、竪堀など
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■集落からの比高差は約110m程度で標高235.5mの頂上に所在し南側の御堂、帯沢方面の集落を一望できる条件を有します。縄張りは400平方メートルほどの本郭と100平方メートルほどの二の郭、細長い帯郭から構成される小規模な山城で、飲料水の問題を別として広さとしては50人ほどの人数が籠れるかどうかの大きさです。東側に所在する腰越城の小規模ながらも多数の郭などからなる本格的な普請と比べると極めて簡単な縄張りとなっており、少なくとも居住性の良い環境とはいえないと思われます。このことから狼煙での連絡やその地理的条件から考えて秩父方面や鉢形城方面への往還を監視する役割があったものと推定されてます。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「文化財調査報告書第30集 深見城跡 」(神奈川県大和市文化財調査報告書 1988)のHP
「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行)
「東秩父の文化財」(1982/東秩父村)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「扇谷上杉氏と太田道灌」(黒田基樹 著 2004/岩田書院)   

文化財指定
村指定史跡 1981年12月20日指定
訪城年月日
2005/12/17
訪城の記録

( 2005/12/17 )
登口はどこだ...
 登口がよく分からないものの城山の山頂は麓から見えるので、保育園の東脇の沢から尾根筋を目指してひたすら直登を開始。登坂は膝の心配がほぼ不要となってきたものの、日頃の運動不足が祟って思いのほか息が切れるのが早く、途中で何度か呼吸を整えつつ一気に50mほど標高を上げて漸く尾根筋の踏み跡に合流。
 ここまで来ればしめたもので、およその地形が分かる資料と一応山歩き歴20年+α?の勘で、道があるような無いような眺望の全く無い尾根筋を兎も角東の方向に向って高度を上げていく。すると麓から通算して約30分ほどで、漸く南側の帯郭と思われる平坦地に到着。
 さて、目当ての本郭は直ぐ目の前で比高差にして2.5mほどの切落しが確認できます。この切落し自体は現在でも急勾配のため、登りは別としても下りるときには注意しないと足が止まらなくなる恐れがあります。しかるべく周辺を観察するために本郭に上がったものの、文化財の標柱と「城山大神の石碑」以外には何も無く、また予想されたとおり眺望もほとんど見られず。また、北側の一段下がった小規模な二の郭もあまり地形的にははっきりとは分からず、さらにその北側に所在するとされる堀切に至っては具体的にどこにあったのか殆どその存在が分からず仕舞いに。
 また、本郭の東側は木々が生茂っているために景色の眺望以前に見通しさえ利きません。それでも本郭の周囲の地形だけでも確認しようと木の枝を排除しつつ、季節はずれの蜘蛛の巣を払いながら東側から北側に回りこんで探索。季節が初冬とはいえ、晴天の午後1時30分という時間にも拘らず、叢生する樹木のため本郭北側の斜面は相当に薄暗く著しく陰気な光景が目の前に展開していました。なお、東側の尾根筋の道は踏み跡さえ見られずほぼないに等しい様子が窺がえました。いずれにしてもせっかく来たのだからと、それほど広くはない、どちらかというと狭い城跡に何と都合1時間以上も在城し、心残りのないように堀切・竪堀などの所在とその位置などを確認して満足を。
 ここで残り時間が少なくなり始めたので一路下山し始めたものの、膝のバネが弱っていることや踏ん張りが全く利かないことを改めて思い知ることに。今回は時間の制約で実に中途半端なところから登ってしまいましたが、本来の登山口は「大霊神社」あるいはその西側の「八幡神社」方面から西側の尾根筋に続いているのかもしれません。また、歳のせいか山道の途中で何度か神経痛が発症したのには弱りました。

( 2005/12/28 )
やっぱり登山口は無いような...
 後日、少し気になったもので東秩父村の方に問い合わせをしてみたところ、現在の所では整備された山道は存在しないとのことです。話によれば東側の尾根筋から登る方法があるとのことですがケモノ道のような状態だということのようです。東側の尾根筋は本郭側から少し歩いてみたのですが、藪が酷く見通しも悪いように感じました。尾根筋の状態だけで比較するならば、自分の登った西側からのルートの方が道は殆どありませんが近道かもしれません。また、将来的には登山道を整備していきたいというような構想もあるような話でした。

記念撮影

 東側から登るか西側から登るかいずれにしても現在の所では整備された道は存在しない模様です。したがって今の所では訪城する季節は冬季限定のようです。見ての通りの低山ではありますが、本郭部分も殆ど見通しが利かないので往路・復路ともに同じ道を辿るほうが良さそうです。

( 2005/12/17 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■千部供養板碑群 東秩父村有形文化財(考古資料)1965年9月15日指定
 大霊神社の南側の崖沿いに建ち並ぶ日蓮・日朗上人の供養に関連して造立された戦国時代の板碑。紀年銘は大永8年(1528)、天文22年(1553)、天正7年(1579)、天正17年(1589)、文禄4年(1595)となっています。尤も自分で判読できたのはそのうちの三体だけでした。
■2■
 この「城山保育園」の看板のある道路を北へ進み正面の谷を這い上がり、左手の尾根筋に出るとやっと山道にでますが、そこまでの50mほどの登りが頑張りどころ。間伐した杉の丸太や古い導水設備などが点在し足元が悪く斜面はきつく...
■3■
 南側の斜面の平均勾配は写真のように30度ぐらいですけど道がないので、手当たり次第木の根や枝などにつかまったりして這い上がっていきます。
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■4■西側から見た本郭
 八幡神社方面からの尾根筋の道が左手から合流したあと、踏み跡のはっきりしない尾根筋を10分ほどひたすら登っていくと、杉木立の間からこのように本郭が見えますのでここでやれやれほっと一安心かと。
■5■
 本郭の北西部分には東秩父村の史跡であることを示す文化財の標柱が設置されていますのでここが目指す城跡であることを再確認。
■6■
 南側から眺めた本郭の北側部分でこの部分だけは比較的見通しがあります。しかし東側に幾分湾曲している南半分については見通しが悪く写真の撮りようもありませんでした。また、写真のように本郭部分には土塁状の遺構は存在していない模様です。
■7■
 所在が分からず少し探し回ってしまった「城山大神」の石碑で、文化財標柱の東側の方に木の陰に隠れるようにして建てられていました。
■8■
 本郭の東側の先端部分を南側から撮影したもの。この辺りでの下の帯郭との段差は2.5mから3mあるかないかという程度で本郭の防御としては斜面の切落としがなされていると推定されています。せめてあと1mほどの高さの土塁が周囲に設置されないと防御施設としては不十分なように思われます。
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■9■
 「8」の部分を北東側から撮影したもので、恐らくこの箇所を東側の堀切と推定してしているようです。この露出した岩の高さは約3mほどあり、しばらく周囲をうろついていて分かったことですが、本郭自体が実はこの岩の上に存在している模様です。
■10■
 「9」の場所から北側に回りこむと、このような急斜面となり比高差も5m程度はあろうかという規模になります。したがって東側部分の防御は西側・南側と比べて大分堅いのではないかと思われます。
 昼間の明るい時間帯であるにも拘らず、鬱蒼とした杉木立などに覆われてかなり本郭の北側部分については薄暗く陰気な光景が眼前に広がりを見せていました。
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■11■
 本郭南側の帯郭で本郭の形状に沿って西側から南側にかけて4m前後の幅で50mほど続いています。
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■12■
 本郭の北側に所在する100平方メートル程度の広さを有する腰郭のような二の郭とされる平坦地。本郭とはゆるい坂道でつながっていて比高差は2.5m程度です。南側の帯郭から一度北側に向かい小さな竪堀の脇を抜けてこの郭を通って本郭へと上がるのが正しいルートのように思えました。
■13■
 北側の堀切を探してしばしウロウロとしたものの自然地形との区別がつかず断念し、とりあえずこの辺りではないかと云うことで撮影したものです。この細い尾根筋の道が北側に伸びていますが道としてはこの道が一番はっきりとしています。恐らくは在家の集落の北側の谷沿いの道路に行き当たる道ではないかと思いますが、この時点ではすでにそれほど時間もなくなり見通しも悪く道に迷っても困るのと判断して途中で引き返しました。
交通案内

・東秩父村立城山保育園の北側の山 いつもガイド の案内図です 地図 

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