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■1■千部供養板碑群 東秩父村有形文化財(考古資料)1965年9月15日指定
大霊神社の南側の崖沿いに建ち並ぶ日蓮・日朗上人の供養に関連して造立された戦国時代の板碑。紀年銘は大永8年(1528)、天文22年(1553)、天正7年(1579)、天正17年(1589)、文禄4年(1595)となっています。尤も自分で判読できたのはそのうちの三体だけでした。
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■2■
この「城山保育園」の看板のある道路を北へ進み正面の谷を這い上がり、左手の尾根筋に出るとやっと山道にでますが、そこまでの50mほどの登りが頑張りどころ。間伐した杉の丸太や古い導水設備などが点在し足元が悪く斜面はきつく...
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■3■
南側の斜面の平均勾配は写真のように30度ぐらいですけど道がないので、手当たり次第木の根や枝などにつかまったりして這い上がっていきます。
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■4■西側から見た本郭
八幡神社方面からの尾根筋の道が左手から合流したあと、踏み跡のはっきりしない尾根筋を10分ほどひたすら登っていくと、杉木立の間からこのように本郭が見えますのでここでやれやれほっと一安心かと。
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■5■
本郭の北西部分には東秩父村の史跡であることを示す文化財の標柱が設置されていますのでここが目指す城跡であることを再確認。
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■6■
南側から眺めた本郭の北側部分でこの部分だけは比較的見通しがあります。しかし東側に幾分湾曲している南半分については見通しが悪く写真の撮りようもありませんでした。また、写真のように本郭部分には土塁状の遺構は存在していない模様です。
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■7■
所在が分からず少し探し回ってしまった「城山大神」の石碑で、文化財標柱の東側の方に木の陰に隠れるようにして建てられていました。
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■8■
本郭の東側の先端部分を南側から撮影したもの。この辺りでの下の帯郭との段差は2.5mから3mあるかないかという程度で本郭の防御としては斜面の切落としがなされていると推定されています。せめてあと1mほどの高さの土塁が周囲に設置されないと防御施設としては不十分なように思われます。
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■9■
「8」の部分を北東側から撮影したもので、恐らくこの箇所を東側の堀切と推定してしているようです。この露出した岩の高さは約3mほどあり、しばらく周囲をうろついていて分かったことですが、本郭自体が実はこの岩の上に存在している模様です。
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■10■
「9」の場所から北側に回りこむと、このような急斜面となり比高差も5m程度はあろうかという規模になります。したがって東側部分の防御は西側・南側と比べて大分堅いのではないかと思われます。
昼間の明るい時間帯であるにも拘らず、鬱蒼とした杉木立などに覆われてかなり本郭の北側部分については薄暗く陰気な光景が眼前に広がりを見せていました。
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本郭南側の帯郭で本郭の形状に沿って西側から南側にかけて4m前後の幅で50mほど続いています。
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本郭の北側に所在する100平方メートル程度の広さを有する腰郭のような二の郭とされる平坦地。本郭とはゆるい坂道でつながっていて比高差は2.5m程度です。南側の帯郭から一度北側に向かい小さな竪堀の脇を抜けてこの郭を通って本郭へと上がるのが正しいルートのように思えました。
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北側の堀切を探してしばしウロウロとしたものの自然地形との区別がつかず断念し、とりあえずこの辺りではないかと云うことで撮影したものです。この細い尾根筋の道が北側に伸びていますが道としてはこの道が一番はっきりとしています。恐らくは在家の集落の北側の谷沿いの道路に行き当たる道ではないかと思いますが、この時点ではすでにそれほど時間もなくなり見通しも悪く道に迷っても困るのと判断して途中で引き返しました。
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