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おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合24
所在地
埼玉県川越市老袋玉泉寺跡付近
歴史と沿革

伝承としての老袋城
 「新編武蔵風土記稿」には北条氏の直臣である道祖土氏がその戦功により老袋城に居住したとの事項について道祖土氏系図より引用した旨が記されています。しかし、下記の道祖土氏に関係する古文書類から考察する限りにおいては、老袋城の存在と道祖土氏の関わりは具体的な明確さを欠いており、あくまでも伝承の一つとして評価すべきものかもしれません。
 しかし、地元に伝わる伝承地名や当時における村落支配の形態から、老袋周辺を根拠地とした在地領主階層の中世城館が存在していた可能性は十分にありうることで、そうした曖昧さもまた歴史のロマンを辿る城館めぐりの楽しみのひとつです。

確認できる遺構
不詳
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

自然堤防の微高地
 入間川の瀬替え以前の複雑に蛇行した古入間川の流れに囲まれた自然堤防上の微高地に所在していたものと推定されますが、その規模や道祖土氏との関わりは明確であるとはいえないようです。なお近世までは比企郡に含まれていました、が明治期には入間郡へと編入されています。

文化財指定
訪城年月日
2006/08/21、08/28
訪城の記録 記念撮影

( 2006/08/21 )
何時も通過するだけで気にも留めず
 地図上の情報からでは周辺には入間川右岸の水田地帯が広がる中に旧来の集落が点在し、次第に宅地化が進行しているという地域。このため今まで何度か目にしている地域ですが、かつての面影は全く存在しないものと推定。
 しかし、推定地の北側部分に相当する氷川神社の付近は元来の自然堤防の微高地に明らかに人工的な造成の跡が遺されており、水田面との最大比高差は目測で3mほどを測ります。ただしこの低い台地上の地形が水害対策のために近世や近代になってから人工的に形成された可能性もあり、西側の水路の存在を含めてその時代背景や経緯については何ともいえない印象でした。

 いままでにこの辺りを幾度も往復しているにも拘らず、老袋城の推定地がこの川島方面への近道に所在していることを最近になって気がつくというお粗末さに我ながら呆れました。

( 2006/08/28 )

本来の推定所在地は
 先週訪れたばかりですが、下調べが不十分なため北側の氷川神社の辺りしか探索していなかったと云う事情から、今回は少し南側の消防団の小屋・集会所・墓地(天台宗玉泉寺跡)などの所在する辺りから、主に川越運動公園の東側を中心にじっくりと1時間以上歩き回ることに。もっとも早く歩けないという事情も抱えてはいるのですけど。
 さて、実際に歩き回ってみると、自然堤防の形成した微高地とそれ以外の低地部分の比高差を含む地形の違いがより明確に。「城館址探訪記」さんの情報によれば、玉泉寺跡周辺が城館跡との伝承があるようです。確かに全体としてかなり広範囲な微高地を形成していますので、当所想定していた1kmほど北側に所在する氷川神社の辺りよりも、かなりそうした可能性が高そうな印象でした。
 実は前回もこの場所に車を停めてそれなりに辺りの様子を窺っていたのですが、地形状の痕跡が見出せないために、そのまま氷川神社の方に向かってしまったという経緯がありました。「新編武蔵風土記稿」において村の南西に所在する旨が記されていることとも符合しています。
 また、墓地の近くのお地蔵さんの写真などを撮影している最中に、地元の年配の方に少しだけお話を伺うことができました。それによれば、以前はこの一帯は度重なる入間川などの氾濫により常に水害の被害を受けていたとのこと。最近堤防を2mほど嵩上げするなどの治水対策が整備されてからは、水害の心配はほとんど無くなったとの事。(もっとも最近といっても昭和27年頃の話でしたが...) 道理で現在でも古い民家は道路より1.5m前後の盛り土による嵩上げ造成をしているのが目立つわけなのでありました。現状の地形からでは具体的な所在地の特定ができなかったものの、地元の方から色々と参考になる情報を得ることができたことが大きな収穫でした。

この水田の段差を意味するものは?
水田(現在は畑)の所在した低地と
「自然堤防」と推定される微高地の境目付近の様子

( 2006/08/28 撮影 )
訪城アルバム
■1■氷川神社の遠景 ( 2006/08/21 撮影 以下同様)
 城館跡としての立地条件はだいだい満たしているように思われますが、どう見ても明らかに規模が小さな自然堤防の微高地で、参道部分を含めても東西約80m、南北40mくらいの広さでした。
 やはり「御所蹟」と呼ばれる玉泉寺周辺の方が有力な比定地のようです。
■2■氷川神社西側の堀跡のようにも見える用水路
 水田面から神社社殿までの比高差は約3mほどの規模を有しています。この西側に用水路も何処となく堀跡のようにも見えたのですが、何分にも学術的根拠が乏しいので...
■3■旧日本軍の口径155mmクラスの砲弾と推定
 地元下老袋地区出身者の武運長久を祈願して奉納されたもののようです。一名を「軍明神」とも呼ばれて戦時中には職業軍人、出征兵士を含む関係者の参詣で賑わったとのことで、まさにそうした事情を象徴するモニュメントとなっていました。
 そういえば深谷市の新開氏館跡にも、日露戦争当時のものと推定される旧日本海軍の艦載砲らしき砲身が魚雷とともに記念碑として建立されていました。
■4■氷川神社の社殿
 社殿の向かって左側が斜面を形成していることがはっきりと分かり、周囲との比高差は約1.5mほどですが多分に人工的な要素を感じます。 ただしこの低い台地上の地形が水害対策のために近世や近代になってから人工的に形成された可能性もあります。
 近世には上中下老袋村、東本宿、川口、鹿飼、戸崎7ヶ村の鎮守とされ、本殿は18世紀中葉のものと推定されています。
■5■玉泉寺跡付近 ( 2006/08/28 撮影 以下同様)
 玉泉寺跡には地元の消防団の小屋、地域の集会所の建物、墓地などが所在していますが、地形上では全くの平坦地という感じです。このため、この場所が「老袋城」の有力な比定地であるということが直ぐには分からず仕舞いに。 前回もこの場所に車を停めて様子を観察したものの、地形状の痕跡が見出せないために、そのまま氷川神社の方へと向かいました。「新編武蔵風土記稿」において「村の南西に所在する」旨が記されていることとも確かに符合しています。
■6■「望楼跡」と伝わる稲荷神社付近の様子
 玉泉寺跡の向側に所在するこのお宅の盛り土もかなりの規模を有していて、およそ1.5mから1.8mほどの高さを示していました。
 この一帯は入間川の氾濫や後の瀬替えなどにより土地の区画形質が大きく変わっているものと推定され、この辺りが中世城館跡であるとは俄かには信じがたい現況です。近世には「上尾道」と呼ばれ主要な地方道であったものと考えられます。
■7■堀跡または水路跡
 現在は用水路が流れていますが、城館跡の北限を示している堀跡のような「雰囲気」が漂っていましたので、参考までに撮影してみたものです(笑)
■8■宅地の盛り土がそこかしこに
 水害対策の自己防衛策として地元の旧家の殆どがこのような盛り土を宅地に施しています。
 「武蔵国郡村史」の編纂された明治9年当時によると、総計54戸の下老袋村に災害予備船として22艘の川舟が常備されていたことからも当時における入間川の水害対策は極めて切実な問題であったことが推察されます。
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■9■周辺に所在していた池沼
 氷川神社のと玉泉寺の中間辺りに所在している池沼で、近世初期松平伊豆守の時代に河川が瀬替えされる以前には旧入間川の流路の一部だったのかもしれません。以前の入間川は老袋城が所在したと推定されている玉泉寺跡周辺を取り囲むように蛇行していた模様です。
 現在でも満々と水を湛えているので、おそらくは地下からの湧水があるものと推定されます。大きさは南北約50m、東西20mほどの規模かと思われます。
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■10■アメリカフヨウ(たぶん) 画像クリックで拡大
 アオイ科の植物でハイビスカスも仲間だそうです。直径にして15センチから20センチくらいのとても巨大な花をつけます。国産の芙蓉に比べると一回り以上も大きくその大きさがとても目立ちます。

 なお、以下の植物の画像は全て老袋城と推定される地域の周辺に咲いていたものです
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■11■ムクゲ 画像クリックで拡大
 ムクゲの花にも色々な品種があり、八重咲きのもの、ハイビスカスに似たようなものなど様々です。この品種はもっとも一般的なものの一つで、花期も長くて6月下旬から10月上旬の間咲いていることもありました。
 また、自動車の排気ガスにも強いので交通利用のある県道385号線の熊谷東松山有料道路の細長い中央分離帯にも大量に植樹され、炭酸ガスを吸収して酸素を吐き出し地球環境の保全に健気に貢献。
■12■ハキダメギク
 確かに見た目にもさえない小さなキク科コゴメギク属の熱帯アメリカ原産の一年草の帰化植物。
 名前の由来は「ゴミ捨て場」で発見されたといわれていますが、それにしても気の毒なネーミングです。道端、空き地、畑の端などに目立たぬようにひっそりと咲いていますが、確かに「余りに花が貧乏臭い」ので余程のことがない限りは切花にして飾ろうという気にはなりません。頑健な性質で自宅でも毎年ほぼ同じところに顔を出していました。
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■13■ニラのハナ 画像クリックで拡大
 ユリ科の多年草の野菜で、8月中旬から9月の中旬にかけて畑の端や道路の脇などでこの白い花をよく目にします。一つの株に群がって咲きますので結構目立ちます。近くでよく観察してみると6枚の細長い花びらがあります。なお、偶然ですが画像の左隅にモンシロチュウの姿が写り込んでいました。もう10年以上は口にしていませんが、卵でとじて醤油のすまし汁にするとなかなかいけます。
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■14■クレオメ(西洋風蝶草) 画像クリックで拡大
 形の上で特徴のある花ですが、その形からスパイダーフラワー、セイヨウフウチョウソウなどとも言われています。花びらは蝶のようにも見えますが、アメリカ原産の宿根草で半ば野生化して水田の脇に咲いていました。フウチョウソウ科クレオメ属の一年草で花期は7月から9月中旬まで。そういえば旧花園町の小前田氏館付近の水田脇の農道の端にも自生していました。
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■15■ハナトラノオ(花虎の尾) 画像クリックで拡大 
 8月上旬から9月中旬頃にかけて民家の庭先や花壇のほか半ば野生化して畑の端などでもよく見かけるシソ科の多年草。艶やかな薄紫色の花が花茎の先端付近に纏まっている姿はとてもよく目立ちます。
 別名をカクトラノオ(角虎の尾)、学名はヒソステギアというそうです。寄居の「桜沢堀の内」の付近で初めてこの花を見てその名称を調べたときには、「タムラソウ」あるいは「バジル」の一種かと誤解をしていました。
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■16■純朴な雰囲気の「六地蔵」 画像クリックで拡大
 玉泉寺跡に残る共同墓地入口脇の六地蔵尊で、比較的地味で純朴なお姿と比べて、その明るい紫色のコスチュームがとても印象的でした。 なお、中国から伝来した経典には「六地蔵」は存在せず、我国独自の「地蔵本願経」よれば「六道の衆生を・・・六道の一切衆生を教化し」と記されているものの、「六地蔵」については記されていないとのこと。 「天」「人」「修羅」「」「畜生」「餓鬼」「地獄」の入口に立って輪廻転生する生き物を救うとされる民間信仰とのことです。(「民間信仰辞典/東京堂出版」より引用)  「お地蔵様」のベストショットといえばこちら
交通案内

・川越市立運動公園の東側、天台宗玉泉寺跡周辺。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 比企郡下老袋村の項に「御所蹟 村の坤(南西)の方なり、按ずるに道祖土系図に云、下総守康成北条氏康に仕え、康の字を賜い、康成と名乗り、比企郡老袋城に住すとのせたり、康成は元亀元年7月7日卒せり、またその孫図書助康満も当所にて、50貫の地を領せしこと見えぬれば、恐らくは道祖土氏の屋敷ありし地なるべし、さわあれ道祖土氏の居蹟を御所と云は、其の謂れ詳にすべからず」と記されています。しかし、現在伝わっている「道祖土氏系図」には一字拝領の件と軍功のあったことなどは記されているものの、「比企郡老袋城」に関する記述は示されてはいません。また、「御所蹟」というからには「鎌倉公方や少なくとも守護大名階層以上の系譜に繋がる家系」などが連想されますので、確かに大きな疑問となります。

■武蔵志

 比企郡老袋村の項に「古城 道祖土豊前守居之」とのみ記されています。「豊前守」の受領名は道祖土康成の子である康兼を指すものと思われ、「道祖土氏系図」(「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県))によれば北条氏政、氏直父子に仕え戦功により武州比企郡を賜ったとされているものの具体的な村名や貫高は記されてはいません。
 さて、この「武蔵志」を編纂した福島東雄は、道祖土氏の後裔となる大間村名主福島家の当主であるという事実から考えると、上記の記述が余りに簡略であることが極めて不思議に思えてなりません。東雄が当時の下八ツ林村(現川島町)の道祖土氏に現在も伝わる多数の文書類(「道祖土家文書」埼玉県指定有形文化財)を検証していることは、「武蔵志」の記述自体に数点を引用していることからみても、恐らく間違いのないことであるものと推測されます。また、本来ならば自分の先祖に関する事項であることから、ある程度詳細に記述するのが当然であるべきものと考えられます。
 しかし、道祖土家に伝わる文書類からは岩付太田氏の家臣で享禄3年(1530)太田資頼から「29貫500文」を拝領していること、あるいは着到状における「軍役人数が3人」という規模の比較的規模の小さな在地領主であることなどの文書が示す事実から、こうした老袋城に関わる道祖土氏に関する事項についてはあくまでも伝承の一つとして受け止め、その記述を簡略にせざるをえなかったものと考えられます。
 なお、こうした点については「新編武蔵風土記稿」の下八ツ林村の旧家道祖土氏に関する記述にも示されているとともに、佐脇栄智氏の「後北条氏と領国経営」(1997年/吉川弘文館)によれば、道祖土氏の存在は土豪階層の小代官として位置づけられています。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「埼玉ふるさと散歩 川越市」(1992/新井 博/さきたま出版会)老袋城の伝承を略述
「川越市史 中世編」(1985年/川越市編集発行)
「川越市 歴史の道 調査報告書」(1992/川越市教育委員会)
「川越の神社建築」(2004年/川越市教育委員会編集発行)
「後北条氏と領国経営」(1997/佐脇栄智 著/吉川弘文館)道祖土氏の在地領主としての性格を検証 

・2006/09/18 HPアップ
・2006/09/19 写真撮影日の追加ほか

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