2006/08/21のブログ 2006/08/28のブログ | ||
おすすめ評価 |
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埼玉県川越市老袋玉泉寺跡付近 | |
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不詳 | |
周辺の地理的特徴 |
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無 | |
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2006/08/21、08/28 |
「自然堤防」と推定される微高地の境目付近の様子 ( 2006/08/28 撮影 ) |
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凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿 比企郡下老袋村の項に「御所蹟 村の坤(南西)の方なり、按ずるに道祖土系図に云、下総守康成北条氏康に仕え、康の字を賜い、康成と名乗り、比企郡老袋城に住すとのせたり、康成は元亀元年7月7日卒せり、またその孫図書助康満も当所にて、50貫の地を領せしこと見えぬれば、恐らくは道祖土氏の屋敷ありし地なるべし、さわあれ道祖土氏の居蹟を御所と云は、其の謂れ詳にすべからず」と記されています。しかし、現在伝わっている「道祖土氏系図」には一字拝領の件と軍功のあったことなどは記されているものの、「比企郡老袋城」に関する記述は示されてはいません。また、「御所蹟」というからには「鎌倉公方や少なくとも守護大名階層以上の系譜に繋がる家系」などが連想されますので、確かに大きな疑問となります。 ■武蔵志 比企郡老袋村の項に「古城 道祖土豊前守居之」とのみ記されています。「豊前守」の受領名は道祖土康成の子である康兼を指すものと思われ、「道祖土氏系図」(「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県))によれば北条氏政、氏直父子に仕え戦功により武州比企郡を賜ったとされているものの具体的な村名や貫高は記されてはいません。 さて、この「武蔵志」を編纂した福島東雄は、道祖土氏の後裔となる大間村名主福島家の当主であるという事実から考えると、上記の記述が余りに簡略であることが極めて不思議に思えてなりません。東雄が当時の下八ツ林村(現川島町)の道祖土氏に現在も伝わる多数の文書類(「道祖土家文書」埼玉県指定有形文化財)を検証していることは、「武蔵志」の記述自体に数点を引用していることからみても、恐らく間違いのないことであるものと推測されます。また、本来ならば自分の先祖に関する事項であることから、ある程度詳細に記述するのが当然であるべきものと考えられます。 しかし、道祖土家に伝わる文書類からは岩付太田氏の家臣で享禄3年(1530)太田資頼から「29貫500文」を拝領していること、あるいは着到状における「軍役人数が3人」という規模の比較的規模の小さな在地領主であることなどの文書が示す事実から、こうした老袋城に関わる道祖土氏に関する事項についてはあくまでも伝承の一つとして受け止め、その記述を簡略にせざるをえなかったものと考えられます。 なお、こうした点については「新編武蔵風土記稿」の下八ツ林村の旧家道祖土氏に関する記述にも示されているとともに、佐脇栄智氏の「後北条氏と領国経営」(1997年/吉川弘文館)によれば、道祖土氏の存在は土豪階層の小代官として位置づけられています。 |
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林) 「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県) 「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県) 「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県) 「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店) 「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など 「埼玉ふるさと散歩 川越市」(1992/新井 博/さきたま出版会)老袋城の伝承を略述 「川越市史 中世編」(1985年/川越市編集発行) 「川越市 歴史の道 調査報告書」(1992/川越市教育委員会) 「川越の神社建築」(2004年/川越市教育委員会編集発行) 「後北条氏と領国経営」(1997/佐脇栄智 著/吉川弘文館)道祖土氏の在地領主としての性格を検証 ・2006/09/18 HPアップ |
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