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関連ページへのリンク  2006/08/21のブログ 伊奈城 八幡館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合23
所在地
埼玉県比企郡川島町上大屋敷
歴史と沿革

ここにも伊奈氏の陣屋跡の伝承が
 「川島郷土史」によれば、「ここに陣屋跡あり、東西97間(約176m)、南北84間(約153m)。慶長(1596-1615)の頃伊奈備前守(伊奈忠次)の陣屋あり、寛永(1624-1644)の頃之を廃すと口碑にいう」と記されています。( 「武蔵国郡村史」からの引用と推測 ) また、「川島町の地名」などによれば、大屋敷村は元禄の頃に上下の2村に分かれたとされ、伊奈氏の陣屋跡が所在したことから大屋敷と呼ばれたとの推定をしています。
 徳川家の代官頭として活躍した伊奈氏の陣屋跡としては「伊奈城」(伊奈町)、「赤山陣屋」(川口市)が有名ですが、初代の関東郡代となった忠次の次男伊奈忠治の晩年の慶安3年(1650)頃の「武蔵田園簿」によれば幕府の直轄領として武蔵国22郡の内16郡におよび、石高約28万石、村落数512ヶ村に達していました。こうしたことから伊奈氏を中心とする近世初頭の河川改修や新田開発にあたり、一時的な地域支配の拠点として複数に及ぶ中規模の陣屋を配置していたものとも推定されます。
 また、あくまでも一般論としての見方ですが、後北条氏の滅亡後に関東入りした徳川家の重臣はその必要に応じて後北条氏の帰農した旧臣の館、屋敷跡を接収(その代表的な事例が「伊奈城」)していることも十分に想定されますので、戦国時代においては土豪階層の在地領主の館跡であった可能性も考えられますが、無論憶測の域を出るものではありません。

確認できる遺構
なし...たぶん
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

その形跡見当たらず
 激しく蛇行を繰り返したと推定される当時の市野川と古入間川の間の自然堤防上の微高地に所在していたものと考えられます。「川島町の地名」によれば現在の出丸小学校の敷地がその一部になっている」とのことですが、近世初期の荒川・入間川の瀬替えなどの大規模な河川工事のため、現状から陣屋当時の面影を求めるのは困難な状況です。

文化財指定
訪城年月日
2006/08/21
訪城の記録 記念撮影

( 2006/08/21 )
出丸、上大屋敷...
 川島町の出丸小学校付近が伊奈氏の陣屋跡の伝承地のようですが、その裏づけとなる資料はあまり明確ではないようです。 従って堀跡などの関連遺構も耕地の整理や学校建設に伴う造成工事により、もとより確認することは叶いませんでした。
 この旧荒川と古入間川には染まれた地域には出丸本、出丸中郷、出丸下郷、上大屋敷、下大屋敷、御殿など城館に関連しそうな地名があちこちに所在しているという状況にも拘らず、伝承などを除けば具体的な歴史との関わりを示すような資料は見当たらないらしく、これもまた実に不可思議な状況です。
ただ、「東西97間、南北84間、慶長の頃伊奈備前守の陣屋あり、寛永の頃之を廃す」との「武蔵国郡村誌」に記された地元の伝承が、かなり具体的な表現をしていることから推測すると幕末から明治の初期にかけてはまだ何らかの遺構に関連するような地形が残されていたのかもしれません。
 なお、「川島町の地名」(1999/川島町)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)などによると、「出丸」(でまる)の地名に関しては「古くは伊豆丸(いずまる)と呼ばれたが、寛永16年(1639)に松平伊豆上信綱が川越藩主となったために領主の名と重複することを憚ったため」と記されています。

伊奈備前守陣屋
陣屋跡とされる川島町立出丸小学校遠景
( 2006/08/21 撮影 )
訪城アルバム
その名も「出丸公民館」
■1■出丸公民館(出丸公民館)
 県道339号線沿いに所在する川島町立出丸公民館。
 「川島町の地名」(1999/川島町)の解説によると、「いずまる」の「いず」は出っ張った所という語義で、「まる」については川が大きく蛇行した部分や自然堤防の張出した部分であるとのこと。また「武蔵田園簿」によれば「出丸本郷」と記されています。
交通案内

・荒川と入間川に挟まれた県道339号線沿いの川島町立出丸小学校敷地とその周辺
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 比企郡上大屋敷村の小名の項に「御殿 伊奈備前守が陣屋跡と云、御殿の唱えあたらざるは、土民等みだりにいいならわせしによるなるべし」と記されています。
■武蔵志
 「川島出丸大屋敷」の村落に関する簡略な記述のみで、伊奈氏陣屋についての具体的な記述はありません。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)・
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「川島町の地名」(1999/川島町)・「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町)
「川島郷土史」(1956/川島郷土研究会)
「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)
「川島郷土誌 編集復刻版」(2001/川島町)なお、出丸地区については原本欠損 

・2006/09/25 HPアップ

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