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関連ページへのリンク  2006/08/21のブログ 伊奈備前守陣屋 太田道灌陣屋
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯3 印象4 総合28
所在地
埼玉県比企郡川島町表東道内
歴史と沿革

十郎か四郎か、美尾屋、水尾谷か
 「武蔵国郡村誌」では水尾谷四郎廣徳を廣徳寺の開基とする寺伝がそのまま引用されています。しかし「新編武蔵風土記稿」では、下記のようにその寺伝などに対して疑問を提示しています。また、現在の「廣徳寺の参詣者向けの解説」「川島町関係の諸資料」「大御堂の解説」においても「美尾屋十郎廣徳の館跡」と明記しています。
 また「平家物語」(巻第十一)に平家方の武将として名高いかの有名な悪七兵衛景清と戦う武蔵国の住人として「みをの屋四郎、同籐七、同十郎」の活躍が見えます。「吾妻鏡」の文治5年(1189)年の奥州藤原氏への攻略の陣容に四方田氏、阿保氏、成田氏、岡部氏、浅羽氏等の多くの武蔵武士の中に「美尾谷十郎」の名も記され、建久2年(1190)には小見野盛行らの御家人とともに頼朝の上洛に供奉しています。

美尾屋十郎の事跡 
 ただし見方によっては以下に示すとおり、美尾谷十郎の事跡については余り芳しい記録が残されてはいません。
・元暦2年2月(1185)屋島の合戦において、悪七兵衛景清に自分の乗馬を射殺され、敵に後ろを見せて逃げる途中で背後から兜の鍜(しころ)を毟り取られた。(「平家物語」(巻第十一))
・文治元年10月(1185)土佐房昌俊に率いられた水尾谷十郎ら60騎の児玉党が京都の源義経の居館を急襲したが追い散らされた。(「吾妻鏡」「玉葉」)
・正治2年(1200)12月近江国柏原庄の柏原弥三郎を討伐に向い弥三郎を取り逃がした。(「吾妻鏡」)

 いずれにしても鎌倉武士である美尾屋(水尾谷)氏の所縁の地であったことは間違いはないようです。しかし、同氏に実子が無いことから鈴木氏がその養子となったものの、3代後の子孫が鈴木姓に復したことから事実上美尾屋氏の名跡は途絶えたと伝えられています。しかし、「吾妻鏡」には三保谷郷として記され、明治22年の合併では10ヶ村の村名として復活し、1954年の川島町の発足により地名としての三保谷村は消滅したものの大字三保谷宿の地名や小学校や公民館の名称として現在に伝わっています。

確認できる遺構
堀跡?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

境内を取巻く水路の形は五角形
 現在の真言宗広徳寺を取巻いている堀跡(用水路)の形状は説明板に描かれている「古図」のとおり、やや扁平な五角形となっています。このことはたまたま同町に所在する「小見野氏館」の外堀と推定される形状と符合しています。偶然の一致なのか、あるいは相互に何らかの関連が存在したのか少々興味が沸くところですが、おそらくは近世以降の「水利を巡る利権」などの影響による普請と考えるのが妥当かもしれません。なお、全体の広さは西側の養竹院と比較すると、現在の境内地は東西200m南北100m以上とその倍近い規模を有しています。

文化財指定
訪城年月日
2006/08/21
訪城の記録 記念撮影

( 2006/08/21 )
堀跡か、用水路か...
 鎌倉期の武士の館跡の遺構と推定され、現在は真言宗広徳寺の境内となっています。
また、ここは中世城館跡というよりも、国の重要文化財に指定されている室町時代の建築様式を伝えるとされる「大御堂」という建築物の方が有名で、このため万一の時の用意として放水設備が設置されていました。 また寺の参道脇には{美尾屋十郎広徳館の古絵図}を書き写したものが設置されており、画風そのものは別として初めて訪れるものにとっては大変ありがたい配慮がが伝わってきます。
 (追記)この「古図」の出典は、おそらく廣徳寺関係のものと推定されますがその詳細は不明です。
 さて「堀跡」が遺されているとの情報があるものの、西側や北側の比較的規模の大きな用水路を指すのか、はたまた南側の細い水路を指すのかが判断がつかず、暫し困惑して暑さも加わり呆然と立ち尽くしていました。何れも、かつての堀跡といえばそのようにも見え無くもないし、用水路といわれれば正にその通りかも知れません。
 そのようなことをしているうちに、昨今はかなり暑さに弱い体質となり果てているため体力・体調はそろそろ限界点に...加えて徐々に頭がボーッとして呼吸も少しずつ乱れ始めて気分も優れない感じに。それこそ持病の呼吸障害に加えて熱中症などを発症しては元も子もないと我に返り、当初の予定通りにふらふらと即刻退却を開始。


大御堂(国指定の重要文化財)
( 2006/08/21 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで館の説明板?へ
■1■改修工事予定の「二王門」 画像クリックで館跡略図へ
 寺伝によれば正保、享保の二度にわたる火災により、大御堂とこの「二王門」以外は灰燼に帰したとの説明がなされています。屋根の葺き替えなどその都度の改修が施されている様子です。棟札などの記述を確認していないのでその詳細は分かりませんが、柱の傷み具合などから恐らくは近世初期から中期頃の建立と推定(あくまでも憶測)されました。
大御堂の解説の石碑へ
■2■大御堂(阿弥陀堂)入口 画像クリックで「大御堂」の解説へ
 かの有名な二位の尼すなわち源頼朝の正室である北条政子が建立したことが寺伝に記されているようです。ただし現在の大御堂そのものは鎌倉時代の建築様式を踏襲し、室町時代の末期に再建されたものと推定されています。
■3■「フヨウ」
 「館跡」の廣徳寺境内の参詣者用の駐車場の庭先に咲いていたものです。図鑑などによれば、花期は8月から10月ころとされていますが9月下旬頃には余り見かけたことがありません。多年草の巨大な「アメリカフヨウ」とは異なり一応は木の仲間ですが、寒冷地では冬季には地上部が枯れて地下の根だけが越冬するようです。草木の区別は、実になかなか難しいものがあります。花径は最大でも15センチ前後と常識的な大きさですが、葉の食害がめだちました。
■4■堀跡か用水路か その1
 境内の南側の東西に延びる長さ100mほどの参道沿いにほぼ並行して所在する細い水路。幅約1間、深さ数十センチほどの大きさですが時節がら画像のように水が溜まってました。また、その規模から推定すると後世の畑の畝堀とも考えられます。
■5■堀跡か用水路か その2
 境内への西側からの入口で南北方向に幅2間、深さ1.5mほどの用水路が流れています。希望的な観測としては「堀跡」ですけれども、その現状からでは判断のしようがありませんでした。
画像クリックで拡大します
■6■堀跡か用水路か その3 画像クリックで拡大
 北西側のコーナー部分の堀跡もしくは用水路です。やや奇妙なことに黄色の実線で示したように、本来の用水路とは別に、その内側にも水路がありました。このことから「堀跡」としての性格も捨てきれないのですが、この内側の水路は途中で南東方向に折れ曲がっています。このため境内の形状はやや扁平な五角形を形成する結果となっています。
交通案内

・太田道灌陣屋跡の伝承のある養竹院の東側約250mの自然堤防上の微高地に所在。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 比企郡表村の北側に所在する三保谷村の項には「三保谷村」古き地名なり、かの水尾谷十郎同四郎など、此地より出し人なりと云」と記されています。また館跡が所在しているとされる表村の項には、開基とされる水尾谷四郎廣徳と、その墓所についての記述が示されていますが、寺伝等の誤りとして捉え「水尾谷十郎廣徳」を実在の人物として推定しています。(上記の「歴史と沿革」の項を参照)
■武蔵志
 美尾屋氏とその居館などに関する記述はありません。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「川島町の地名」(1999/川島町)・「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町)
「川島郷土史」(1956/川島郷土研究会)
「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)
「川島郷土誌 編集復刻版」(2001/川島町)
「川島町の板碑」(1999/川島町) 

・2006/09/29 HPアップ
・2006/10/02 記述追加

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