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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/03/08の日記 塩沢城 鷹谷砦 奈倉館 寺山砦 竜ヶ谷城 要害山
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯2 印象4 総合28
所在地
埼玉県秩父市上吉田4278-1
歴史と沿革

土坂峠からの往還を監視する戦国時代の砦
 御嶽城の攻略により意気のあがる武田勢は永禄12年(1569)7月に吉田、小鹿野方面に侵攻しました。このとき武田勢の武将である松田肥前守を討取ったとして、北条氏邦が上吉田の在地領主である山口総五郎に宛てた感状が残されています。このときの褒賞として「野城の所在する上吉田村」を扶持されています。また、天正8年(1580)の山口家文書によると、北条氏邦が山口下総守らに対して女部田城と推定される場所に10人の城番を配置し守りを固める旨を命じています。
 「皆野町史通史編」「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町)などでは、この「野城」が女部田城であるという可能性を示唆しています。別名を「城山」とも。

確認できる遺構
郭、堀切
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■合角ダムの東側約700mほどの山中に所在し、上吉田地区の中心となる塚越の集落や上州との国境となる土坂峠方面を見渡せる標高475mの山頂を主郭とする物見のような砦。遺構としてはこのほかに郭と思われるような小規模な2か所の平坦地と1か所の堀切が所在する連郭形式の山城です。

文化財指定
訪城年月日
2006/03/08
訪城の記録

( 2006/03/08 )
予想外の遺構との遭遇は極上の喜びで
 登口にやや不安があり農作業中の年配のご婦人に尋ねることに。登口のアプローチ自体に間違いはないものの「道自体は獣道の方が良いくらい」とのお話。また「昔は鉢形城があった」という旨の情報もいただく。うむ、伝承と云うものはこのようにして口碑にのぼり誤り伝えられていくのかということを、直接身を以って体験できたことにある意味感動してしまいました。
 さて、道は墓地のある個所までは非常に良好。途中所在する新しい墓地に向かって右上の畑の上に登ったあたりから道幅は次第に狭まり、左側の谷河沿いはところどころ崩落が発生。更にすすむとやがて倒木が進路を阻み、次第に獣道か山道かの判別が困難に。更にすすむと正面に大きな岩の斜面がどーんと出現して道は完全消滅。この辺りまでは予想通りだったので、少しも慌てることなく(本当はかなり慌てて...)地形を読み岩壁を攀じ登ることがないような安全ルートを模索。まず、向かって右側には明らかに獣道の跡があるものの、どうやら岩場の真下に出てしまう可能性がありそう。尾根筋までの比高差は目測でおよそ50mほどなので、向かって左側の谷沿いに迂回することとし、九折でなんとか斜面を攀じ登り、結局スタートから45分ほどで無事に尾根筋到着。もっとも無事とはいってもここまで既に2回転倒済み。到達した尾根筋の位置が地図上で判然としないもののむかっている尾根筋の方向は間違いがないのでそのまますすんで行くとようやく堀切に到着。勿論この間は帰路に道に迷う可能性が大きいので愛用の黄色のテープをべたべたと15ヶ所ほど付けさせてもらいました。
 さて、事前の資料ではただの堀切のようですが現物は2重の堀切に見えます。堀切の先のやや平坦な尾根筋から一気に斜面を登り標高475メートルの最高地点に到達。比高差で3mほど下ると尾根の先端部分に郭状の見通しのよい平坦地が。平坦地の先端には小さな祠が祀られていたのでとにかく参拝して、持参の握り飯1個を食べてペットボトルのお茶で水分補給。この場所からは上吉田地区の集落が足元の方向によく見え武田勢の侵入路のひとつである土坂峠から下吉田へのルートを監視するにはもってこいの条件です。
 なお、北東の尾根筋伝いに道らしきものが続いているようですが、途中から岩場の難路に出くわすようですのでこのルートからの登攀・下山は困難な模様です。したがって唯一のルートはたぶん梅沢氏の資料に基づいて自分が辿ったもののみになるようです。尾根筋の手前100mほどの地点で道筋が完全に消滅しているものの、他のルートではそこまでの道さえもなさそうです。また、日尾城や合角ダム方面は叢生する樹木だけではなく、ほぼ同程度の標高の尾根筋と観音山などに視界をさえぎられて状況を確認することができませんでした。
 なおこの後、尾根筋からの道なき下り急斜面にて見事に滑って青空を見上げることになり合計3回目の転倒。今日は前日と比較して気温も高いので水分補給は最優先課題と判断して、日尾城に向かう途中で自動販売機で2本分約1Lの水分補給を行い、ペットボトルのお茶も補給購入。
 4月の初めくらいまでなら登頂可能なので、今のところ目印のテープもあるし訪城は今がお勧めかと。ただし、稜線の直下は道もなく急斜面で水分を含み滑りやすく、単独行で入山するとしたらそれなりの装備と覚悟を

記念撮影



 一番南側の郭の手前には堀切が所在しますがこの岩塊の存在のため二重の堀切のようにも見えるのですが。かなり苦労して沢沿いの斜面を這い上がり、稜線に到達した後最初に目に入る遺構です。両側の斜面は急傾斜なので堀切としての長さは数メートルもありませんが、とても嬉しいご対面です。

( 2006/03/08 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■女部田城(西側から)
 群馬県境の土坂峠からの県道71号線の新しいバイパスから撮影したもので標高475メートルの山頂にしてはどっしりとした存在感があり、「14」の写真のように旧道沿いの上吉田地区の様子を窺うには正にもってこいの地理的条件を備えています。
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■2■女部田城(東側から) 画像クリックで拡大
 大波見集落付近から撮影したもので、本来女部田の集落はもっと南東に所在する上吉田小学校付近を指していると思われます。したがって地名からすれば「大波見城」でも良さそうなものですが。
■3■女部田城への登口
 入山ルートは「4」の谷筋の1ヶ所のみのようですが、写真の個所から入っていく道と100mほど南側から民家の庭先を通る道があります。ただし、いずれにしても「4」の場所に行き当たります。
■4■墓地の右側を登って沢筋の道へ
 この場所辺りまでなら軽自動車くらいならば入れそうでしたが、勿論この場所で自動車は通行止めになります。
■5■谷筋の山道
 始めは国土地理院の2万5千分の1の地形図にも掲載されているように、思いのほかしっかりとした山道が続きます。しかし、200mも進まないうちに倒木や斜面の崩落個所があり次第に踏み跡が寂しくなっていきます。更にすすむとやがて倒木が進路を阻み、次第に獣道か山道かの判別が困難になってきますが、ひたすら稜線を目指して谷筋をすすみます。このときは渇水期で谷川には殆ど水流がありませんでしたが、途中からは沢そのものを登るようになるので雨の多い時期にはおそらく進むことは困難となるのではないかと思われます。
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■6■眼前の岩場 画像クリックで拡大
 両側の谷が迫り道は次第に「けもの道」の様相を呈し始め、やがてこの岩場が目前に出現します。この辺りまでは予想通りだったので、少しも慌てることなく(本当はかなり慌てて...)地形を読み岩壁を攀じ登ることがないような安全ルートを模索。まず、向かって右側には明らかに獣道の跡があるものの、どうやら岩場の真下に出てしまう可能性がありそう。尾根筋までの比高差は目測でおよそ50mほどなので、向かって左側の谷沿いに迂回することに決定。
■7■すでに道は完全消失
 「6」の岩場を巻いてから九折でなんとか斜面を攀じ登り、結局スタートから45分ほどで無事に尾根筋到着。倒木や足元の悪さに前進が阻害されるものの稜線までは直線で50mほど。再び稜線をにらみつつ登りやすそうなルートを選び、下山の時の目印のテープを木の枝に巻きつけつつ、前進して登り始めてから45分ほどでなんとか稜線に到達。
■8■堀切
 到達した稜線の場所が丁度尾根筋が分岐する最短ルートであったため、稜線を歩き始めてから3、4分ほどでこの堀切の個所に到達しました。右側の岩塊の高さは約2.5mほどで、「記念撮影」の画像のとおりその先にまた堀切が施されているように見えました。
■9■三の郭
 堀切を過ぎた所にこのように幅3m長さ6mほどの小さな平坦地がありまので、しいて言えば三の郭ということになるのではないでしょうか。
■10■二の郭
 「9」の平坦地からやや急な斜面を木の枝に掴まりつつ比高差にして10mほど登っていくと、幅約約6m長さ約20mほどの余り見通しのよくない平坦地にでます。
■11■観音山方面
 二の郭の木の枝の間からは観音山方面が見渡せますが、日尾城や合角ダム方面は叢生する樹木だけではなく、この観音山や同程度の標高を有する派生した尾根筋などに視界をさえぎられて状況を確認することができませんでした。
 
■12■主郭
 尾根筋の先端部分なのでとりあえず主郭に相当するようです。なお、この地点から北東の尾根筋伝いに道らしきものが続いているようですが、途中から岩場の難路に出くわすようですのでこのルートからの登攀・下山は困難な模様です。
 したがって入山のルートはおそらく梅沢氏の資料に掲載されているこの道筋だけのようです。
■13■主郭先端の石祠
 山の神を祀った石祠があるということは、かつてはもう少し明確な登山ルートがあったものと思われます。ここまでのルートが事実上廃絶していますので、お参りに訪れるはずの地元の方も少なくなってきたのでしょうか。
■14■上吉田塚越の集落
 200mほど下方には山間の集落としては意外なほど規模の大きい旧上吉田村の中心の一つとなる塚越の集落が手に取るように見下ろせますが、余り縁の方まで近寄ると転落しますので要注意なのでありました。遠く霞んで見えるのは武田勢の侵攻ルートの一つである土坂峠方面かと思われます。
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■15■堀切のような括れ 画像クリックで拡大
 主郭と二の郭の間はこのように痩せ尾根が更に括れたような地形をしていましたが、この現状からでは堀切などの形跡を見つけ出すことはできませんでした。また主郭は風当たりが強いためか落ち葉なども見当たらず、このように恰も掃き清められたような実にこざっぱりとした景観でした。
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■16■女部田城(北東側から) 画像クリックで拡大
 ルートを探しながらの上りと比べて、ひたすら下山するだけの下りは所要時間が全く異なるようで、稜線直下の水分をたっぷり含んだ枯葉の斜面でスライディングした以外にはたいして時間もかからず正味30分程度で下山完了。勿論目印に付けさせていただいたテープがその効用を発揮したことはいうまでもありませんでした。
交通案内

・「かおる温泉」の南西側の山で、所要時間は上り1時間下り40分ほどで比高差190mくらい。
・唯一のルートと思われる北側の集落からの谷筋の道は稜線の手前で100m付近で消滅しますが、正面の岩場を避けて向って左側から回り込んでとにかく稜線を目指します。稜線上は思いのほか歩きやすいのですがルートとなる沢は水量が多いようなので訪城は11月から4月上旬の範囲です。なお、下山ルートも同じ道を戻るのが安全です。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町) 

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