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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/02/22の日記 高松城 浦山城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態8 探し易さ5 交通利便5 体力消耗4 歴史経緯1 印象5 総合31
所在地
埼玉県秩父市(旧吉田町)久長寿畑1744―1ほか
歴史と沿革

歴史的経緯は不詳ですが
 「秩父志」「新編武蔵風土記稿」「秩父風土記」「北武藏名跡志」などの近世の地誌や古文書などに全く登場しない城跡です。なお、梅沢氏の下記の著書などでは地元では「物見平」と伝えられこの通称「寺山」に堀切が所在していることは知られていたと記されています。また、「秩父風土記」(埼玉叢書所収版)によると約800メートルほど北東に所在している竜ヶ谷城には久長但馬守(北条氏邦の家臣か)が居城したとの伝承が記され、永禄年間には用土新左衛門尉が久長の地を安堵されている(永禄6年2月「北条氏康・氏政連署判物写」(管窺武鑑より))ことなどからこれらの人物とのかかわりも考えられます。いずれにしても、こうしたことから永禄年間の武田氏などの侵攻に備えて構築された後北条氏の戦国期の砦跡のひとつと考えるべきなのでしょうか。

確認できる遺構
堀切、郭、平場
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■標高309.9メートルの山頂付近に2か所ずつの小さな郭と堀切などからなる物見や狼煙台のような砦跡ですが、小規模であるにも拘らず痩せ尾根上の岩塊を利用したや堀切や急斜面などの自然地形を活用した縄張りはなかなか堅固で保存状態も良好です。
 また麓近くには謎の広大な平場が所在し、色々と想像をかきたてられる遺構です。

文化財指定
訪城年月日
2006/02/22
訪城の記録

( 2006/02/22 )
小規模な遺構でもなかなか楽しい山城
 とりあえず旧吉田町の龍勢会館を目指して午前8時前に自宅を出発。途中思いのほかの交通渋滞で現地到着は2時間30分後に。さて、この龍勢会館は十数年ほど以前に吉田町のキャンプ場に行ったついでに立寄った場所。当時はそれほど広い場所ではなかったのですが、現在は「道の駅」ととして大規模に拡張整備され、又最近では映画「草の乱」のロケーションに使用された建物も所在する観光スポットとして宣伝されていました。
 砦跡への道は、天徳寺の手前西側にある細い道路を北西方向にすすみます。砦跡の城山自体は天徳寺の北西の裏山として特徴のある三角形の山容で聳えていますのでまず間違いようがありません。。砂利道を200mほど山裾に沿って谷筋をすすんで行くと右手にいくらか開けた感じの小さな沢があります。沢に向ってその左側に沿って細い山道の踏み跡があるのでこれを沢沿いに直進すると一端道は沢の右側に移りまた左側に戻ります。すると目の前に進路を阻む格好で谷筋一杯に比高2mから3mほどの段差のある地形が現れます。沢の水量は渇水期のため歩行に支障がないものの、水分が豊富な土質のためにかなり滑りやすい状況なので要注意です。
 さて、その段差を乗り越えると谷を東西方向に横断している小道にぶつかりますので、これを右手の東側にすすみ小さな斜面を登りきると意外なほどに広大な平場に行き当たります。平場の中は道らしいものはありませんが見通しが比較的良いので北側の稜線に向って100mほど直進します。すると稜線の鞍部に斜めに踏み跡が見えますので、これを登って稜線上から南に所在する城跡へと向います。
 100mほど緩やかな尾根筋を登っていくと目前に手前に堀切をもつ大きな岩塊が出現し、少しすすむと更にもうひとつの岩塊の個所も堀切となり、その先にまさにネコの額ほどの小さな郭が所在します。頂上に所在する三角点の座標の所に腰をかけ持参した握り飯2個を平らげて少し早めの簡素な昼食を。頂上付近の岩塊が所在する尾根筋は下方には植林帯などがあるので何十メートルも落下することは無さそうな感じですが、尾根幅自体が非常に狭いので体のバランスにとりわけ注意を払い慎重に行動しました。
 また、最初の平場から主郭のある尾根筋が見えるので近道をして登れるかというと、途中から傾斜が厳しくなり、また荊などの棘のある植物も生えていたりするので遠回りの様に見えても北側の尾根筋から迂回するのが賢明なことが判明。いずれにしても、この山の地形から見てこの北側から登る以外にはルートは無く東西の斜面は頂上に近づくほど50度前後と傾斜がきつくなります。なお、南側も頂上付近は40度ほどの傾斜となっているため登攀困難です。

記念撮影




 竜ヶ谷城を訪れる途中の北東方向の市道から撮影したものですが、どこから見ても特徴のある三角形の山容なのですぐに判別できます。
 城跡自体の遺構そのものは本当に小規模なものですが、岩塊を上手く利用した鉄壁の堀切や城跡下部に展開する謎の広大な平場などが所在し実に楽しい訪城でした。

( 2006/02/22 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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■1■絵に書いたような風景が 画像クリックで拡大
 山岳や静物画の油彩をやめてからもう25年近くになりますが、山城を訪ね歩いているといろいろと画材に事欠くことだけはなさそうです。しかし、今や混色の加減や筆遣いを完全に忘れてしまいました...というような訳でせめてデジカメでそれなりに。
■2■あの天辺あたりが砦跡かと
 砦跡への道は、天徳寺の手前西側にある細い道路を北西方向にすすみます。砦跡の城山自体は天徳寺の北西の裏山として特徴のある三角形の山容で聳えていますのでまず間違いようがありません。舗装された道路は小川を渡り終えた山裾で終わり車1台分ぐらいが通行できる程度の幅の砂利道となります。
■3■登口はこの右側の沢筋へ(青色の矢印
 砂利道を200mほど山裾に沿って谷筋をすすんで行くと、右手にいくらか開けた感じの小さな沢がありますが無論標識などは全くありません。この小さな沢に向ってその左側に沿って細い山道の踏み跡があるので、これを沢沿いに直進すると一端道は沢の右側に移りまた左側に戻ります。ただし水の豊富な沢なので、前日が雨天の場合には多分歩行が困難かと思われます。その場合には沢の手前の尾根筋を登れば「5」の平場の下段に到達するはずですが勿論道らしきものはありません。
■4■行く手を阻む段差
 谷筋の踏み跡を登って行くとややひらけた行く手を阻むように比高2mから3mほど段差のある地形に出くわします。この上に左右(東西方向)に比較的明確な踏み跡がありますので、それに従い右側の斜面を登ります。すると「5」を含む異様なほど広大な平場が正面方向に出現します。なお、この地点は沢に入る分岐から僅か約100mほどの地点です。沢の水量は渇水期のため歩行に支障がないものの、水分が豊富な土質のためにかなり滑りやすい状況なので雨の後は要注意です。また、山裾に土石流の危険がある旨の表示が出ていたことを今更のように納得。
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■5■最上段の平場 画像クリックで拡大
 さて、その段差を乗り越えると谷を東西方向に横断している小道にぶつかりますので、これを右手の東側にすすみ小さな斜面を登りきると意外なほどに広大な平場に行き当たります。
 この平場は梅沢氏の「中世北武藏の城」や「秩父・中世吉田の城’01」に2か所所在していることが掲載されていますが、実際には手前の南側から北側の尾根筋に向けて3段ほど存在しているに見えました。中間部分を自然地形の緩斜面とすれば確かに2か所ということになるのですが。
 
■6■平場
 「5」と同様の平場ですが、その印象を例えていうならば「昔の神宮球場の外野のスタンド」(或は改装される以前の西武球場)のような印象というと分かりやすいかもしれません。梅沢氏によればその著書などにおいて、「寺院跡」ではないかとの指摘をされています。
 さて、平場の中は道らしいものはありませんが見通しが比較的良いので北側の稜線に向って100mほど直進します。すると稜線の鞍部に斜めに踏み跡が見えますので、これを登って稜線上から南に所在する城跡へと向います。
■7■北側の稜線
 左側は写真のように45度以上の急斜面のため上り下りは困難です。この尾根筋部分だけはハイキングコースでもないのに、びっくりするぐらい大変歩きやすく実に不思議な気分でした。「6」の平場の個所は写真の右下にあたりに相当します。
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■8■最初の堀切 画像クリックで拡大
 100mほど緩やかな尾根筋を登っていくと目前に手前に堀切をもつ大きな岩塊が出現します。北側の稜線から撮影したもので枯れ草なども少なく堀切の構造が大変分かりやすい環境で、遠景にはこの岩峯の杉林の部分が山頂付近の黒っぽい山林として必ず写り込んでいます。
 左側の斜面の傾斜はかなり厳しく、ロープを使用するほどではありませんでしたがバランスを崩したりうっかり足を滑らすと大事に至りそうでした。
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■9■最初の堀切 画像クリックで拡大
 西側から撮影したもので枯れ草や潅木が少ないので撮影しやすい環境です。深さは左側で2m、右側の岩山部分で5mから6m程度の規模ですが、両側は「8」の写真の通り切り立っていて迂回ルートもありません。やむを得ず乗り越えることとしたものの、登るのに適当なホールドや足場を確認するまで些か時間を要しました。
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■10■最初の堀切 画像クリックで拡大
 こちら側は滑り落ちたとしても植林と勾配の関係で大事には至りませんが、念のためしっかりと足を踏ん張って北西側から撮影したものです。
■11■次の堀切
 最初の堀切から数メートルほどすすむと、更にもうひとつの岩塊の個所も堀切となります。西側から撮影したもので、この画像からではあまり大したことがなさそうに見えますが「12」の写真のように正面から見るとなかなか手強いのでありました。
 
■12■次の堀切
 一瞬すすむべきルートが見つからず焦りましたが、左側から回り込んで這い上がりました。この堀切の高さも5mほどでしたが、防御施設といえるのは以上2か所の堀切だけでした。
 岩の上から数人で弓射すれば狭い尾根筋は人が二列で歩くのがやっとの幅ですので物資の補給さえあればほぼ完璧な防御ラインかと思われます。
■13■三角点の指標が埋め込まれている小さな主郭
 堀切を越えた先にまさにネコの額という表現がぴったりする3m×5m程度の本当に小さな郭が所在します。
 この頂上の三角点の座標の所に腰をかけ持参した握り飯2個を平らげて少し早めの簡素な昼食を。この先の2mほど下ったあたりには5m四方程度の郭があり、その下方にはやや幅の広い腰郭が所在するとのこと。頂上付近の岩塊が所在する尾根筋は下方には植林帯などがあるので何十メートルも落下することは無さそうな感じですが、尾根幅自体が非常に狭いので体のバランスにとりわけ注意を払い慎重に行動しました。
■14■西側の山頂
 この山頂も山城があっても良さそうな形状をしていました。かといって、確認するための簡単な登山ルートがあるわけでもないのですが、周辺には山城に相応しい山容の地形があちこちに見ることができ、堀切と小郭の組合わせ程度の小規模な砦規模の城跡ならば、この寺山砦以外にも存在しているような気にさせてくれました。
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■15■「道の駅龍勢」の駐車場から眺めた寺山砦 画像クリックで拡大
 どこから見ても大変目に付く特徴的な形状のため、探しやすいことこの上ありませんでした。
 十数年前に訪れた当時は、山城どころか城跡などには殆ど興味が無く、「随分ととんがった形状の裏山があったような...」という程度のおぼろげな記憶しか残っていません。さて、それから十余年が経過し城跡めぐりで再訪することとなろうとは全く夢にも思わないことなのでありました。
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■16■寺山砦はスギ花粉で防御 画像クリックで拡大
 スギ花粉が手ぐすねひいて待っているような光景ですが、今年は飛散量は平年より少ないというのは本当だろうかと疑いたくなるような色づき加減でした。
 また、十数年前の当時はどこへでかけるのも必ず子どもたちがぞろぞろとついてきて恰もミニ子供会のような状態。しかし、いまや声をかけどもついてくるような気配はまったく見られず、血縁関係のある居候のような存在になってきました。もっともそういう年代となってきたこともあり、こうやってのんびりと無名に近いような城跡めぐりが可能となった次第です。
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■17■まさしく「寺山砦」かと 画像クリックで拡大
 久長山天徳寺のちょうど裏山に相当します。この角度から見ると山門の真上に頂上がきますのでなかなかによい景色でした。
■18■寺山砦遠景
 赤平川の南岸に所在する台地から撮影したものですが、秩父氏館の遠景の撮影ポイントをロケーションしている最中に目に入ったついでに撮影したものです。
交通案内

・「道の駅龍勢会館」の北東側のよく目立つ三角形の山。
・比高差100m、上り25分、下り20分前後。ただし堀切の岩場では慎重な行動が必要で、また登口の沢筋は水が豊富なので前日が雨天の時は歩行困難が予想されます。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)「増補秩父風土記」を所収、「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町) 

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