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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/02/22の日記 寺山砦 高松城 浦山城 仲山城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ5 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯3 印象4 総合30
所在地
埼玉県秩父市(旧吉田町)吉田久長1556ほか
歴史と沿革

久長但馬守の居跡
 「増補 秩父風土記」の記述によれば矢畑庄久永村(原文ママ)の記述に「久長但馬守の居跡、小田原籠城の後御当家へ出るなり...」との記述があり、これを受けて「秩父風土記」では矢納庄久長村(原文ママ)の記述に「この村の内に馬場と云うところあり、居跡残れり、土人の口碑に久長但馬と云いし人の住しと云う然れども詳説なし」と記されています。こうした事柄からのみでは、久長氏について伝承以上の事蹟を確認するのは難しいようです。
 近世に編纂されたこの二つの地誌についてはやや「城跡」と「居跡」の分類が不明瞭な部分もあるようですが、「城跡」とせずに「居跡」と記している所が疑問に思われます。また、「新編武蔵風土記稿」では調査・編纂の段階で遺漏・削除されたものかは不明ですが、久長氏の伝承と共にこれだけの規模と遺構が存在している城跡について一切の記述が行われていないというのも理解しがたい謎のひとつです。

「吉田の盾」との異名
 さて「吉田の盾」については、永禄12年7月の武田氏の秩父郡侵入に際して阿左見氏に対して発給された北条氏邦の感状(写)に次のように記されています。
 「甲州勢、夜中土坂を忍入り、阿熊に屯し候を、物見山より早朝之を見附け、即刻吉田之楯へ駆付け 、相固め候條、感悦の至りに候...」  (「武州文書」)。
 「新編埼玉県史通史編2」(1988/埼玉県)では、鉢形城出城分布図のなかで注釈を加えてこの竜ヶ谷城を吉田の楯として比定しています。また、梅沢氏の「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町)などによれば「土坂」とは城峰山の西方4kmに位置する標高800mほどの土坂峠を指し、この峠から東の尾根筋を辿り城峰山へと到り、そこから南方の阿熊地区の谷筋に下りてきたものと推定しています。
 なお、この感状に記されている「物見山」の位置は少なくとも阿熊地区の集落が見通せる位置に所在すべきでであると考えられますが、その所在地については不明のようです。また、県道284号線沿いの阿熊地区は竜ヶ谷城の南西に所在する「寺山砦」からでも西側の標高368メートルの山が障害となって眺望することは不可能です。まして、阿熊地区から東へ直線で2km以上の距離を有し谷を2つ隔てた山上の竜ヶ谷城の守備固めを行う積極的な意図が見えないように思われます。さらに、同年の永禄12年9月には武田勢により鉢形城、江戸城、滝山城などの拠点を攻撃され小田原城さえも包囲されるという状況から見ても、「吉田の楯」についてはあくまでも形容的表現の一つと考えることもできるのではないかと思われます。いずれにせよ、感状に記されている「吉田の盾」の存在等をどう見るのかによって、この山城の評価が変わってくるように思われます。

戦国時代の秩父郡地方の兵力動員力は
 秩父風土記に記された秩父郡八十数か村の石高は2万9600石余りで、この数値は近世中期以降の治安地秩序の安定、生産技術の進歩、新田開拓などの公共事業の進展などの事由により、近世当初に比較して国内人口が3倍に増加した後の石高であると考えられます。これに対して関が原の合戦が行われた慶長5年(1600年)頃の国内人口は1000万人から1200万人程度と推計されています。(「日本史必携」(2006年/吉川弘文館)、「人口から読む日本の歴史」(2000年/講談社学術文庫)より)
 従って16世紀中頃の戦国時代では、どう多く見積もったとしても秩父郡の石高はこの半分程度と考えるのが妥当であると思われます。これに明治期に陸軍参謀本部が算出した1万石あたり250人の兵力を動員できるととする算式を当てはめると2万9600石×0.5×250人/1万石=370人となり、この数値が当時の秩父郡現地での動員兵力となります。(「日本の戦史」(1965年/徳間書店))
 また、佐脇栄智氏の後北条氏の軍役に関する研究によれば、およそ永楽銭5貫文に対して1名の軍役が課せられていたとされ(「後北条氏と領国経営」(1997年/吉川弘文館))、これを石高に換算すると大体35石程度となるものと思われますので、2万9600石×0.5/35石=422人と概ね大差ない数値となるようです。
 なお、天正10年(1582年)の「北条氏邦印判状」(「彦久保文書」)によれば、鉢形城主北条氏邦の秩父郭にその名をとどめている有力家臣の秩父孫二郎は139人の秩父衆を率いていたことが記されていますが、この軍役状の内容から考えても当時の秩父郡地方の兵力の動員数は400人前後であったものと推定されます。したがって、秩父郡の兵力を総動員したとしても数千人に及ぶ武田勢の侵攻を正面から食い止めることは難しく、短期的には山岳ゲリラ戦を含む籠城戦となっていたものと推定されます。 

確認できる遺構
土塁、堀切、郭
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■標高629メートルの小峰山から南東にのびる標高約340mの尾根筋に堀切により区画された3か所の郭から構成される長さにして200mほどの連郭形式の山城です。城跡南東部の岩塊を利用した堅固な堀切や二の郭の東西にそれぞれ折のある土塁が構築されている個所などのように縄張りと普請に工夫の跡が見受けられます。しかし、北西側先端の三の郭ではあまり積極的な防御意図が感じられない直線的な堀切と土塁による簡易な構造を有していることなど、全体としてはやや平板なつくりという印象が否めず、「埼玉の中世城館跡」では築城中の放棄、短期間の築城などの可能性を示しているように、仮にこの地が「吉田の盾」に相当するとするならば、それに相応しい要害としての規模や堅固さを欠いているようにも見受けられました。
 また、城郭としての立地の点では兵力を温存する消極的防御とはなりえても、進軍する武田氏などの軍勢に奇襲や側面攻撃をかけるなどの攻撃的な防御を企てるには麓の往還からやや離れ過ぎているとも考えられます。

文化財指定
訪城年月日
2006/02/22
訪城の記録

( 2006/02/22 )
あの尾根筋目指して
 登口に関する情報が不十分でしたが、南側の別荘地の上部から東側尾根筋目指して九十九折で直登。稜線上は岩塊が点在していたため、斜面が緩やかで樹木の多い南側から迂回してすすむうちに思いのほか早く東側の最初の堀切部分に到達。そのあとは主郭、二の郭、三の郭とその間の折のある土塁や堀切を一直線に縦断して城跡の西端に到達。梅沢氏によれば「乱雑なつくりである」というようなことが指摘されていますが、確かに折のある土塁の部分を除くと小口などもはっきりとせず郭内もやや整形が不十分な感は否めないようでした。
 さて、西側からの道がどうもはっきりとしないのでそのまま、帰路は往路と同様のコースをとることに。ただし少し意地になってひたすら稜線上の岩塊を攻略。そして尾根筋の東端の樹木の伐採により眺望の開けた岩場まで進み、道は無いものの南側の別荘地の給水タンクの場所を目指して降下。

登山ルートは
 梅沢氏の「中世北武藏の城」や「秩父・中世吉田の城’01」によるともう少し西側から登る旨が記されていました。しかし現時点では、残念ながらそのルートは現在では確認できないように思えました。また、城跡の西側方面は踏み跡も余り定かではないので上方の尾根筋からアプローチするというのも現実的ではないようです。したがって現状では、寧ろ東側の別荘地の給水タンクの個所から見通しのよい尾根筋を目指して這い上がり、岩尾根伝いに西側の城跡を目指したほうがベターかもしれません。ただし尾根筋には多少進路を阻む岩塊が所々に点在しますので慎重にこれを乗り越え、時には南側から迂回するなどの工夫が必要です。このため、多少岩尾根などの山道を歩きなれているような経験が求められるかもしれません。

記念撮影


 近くの寺山砦と比べると、遺構としてははるかに大規模なつくりですが、城峰山方面へと続く北西側の尾根続き部分に対する防御がどうも完全ではないようにも見受けられます。特に城跡直下の北東側斜面の勾配は決して急勾配ではないにも拘らず、堀切の普請もやや中途半端な状態に見えました。「吉田の盾」として文献に登場する、この地域の中核的な防御拠点としては確かにやや物足りないような印象もありました。

( 2006/02/22 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■給水タンク
 別荘地の一番上の方に設置されている給水タンクでこの裏側に山道が続いています。山道はそのまま尾根筋の先端を迂回して北東側の谷筋に下っていく模様なので、取り敢えず「2」の岩場を目指して尾根筋を這い上がりました。
■2■岩場
 給水タンクの裏側からこの岩場のある個所を目指して尾根筋を直登します。といっても比高差は30m足らずなので、それほど体力的にきつくはありません。
■3■岩場の上からの眺め
 城跡そのものは遠景の画像からでも分かるように、冬季でも叢生する樹木のために現在の所眺望は余りありません。吉田地区様子を眺望できる個所は樹木が伐採されているこの岩場付近くらいのようです。
■4■進路を阻む岩尾根
 このようなちょっとした岩場が数箇所ほど所在しますが、トレッキンクシューズなどを装備し且つ歩きなれている場合であればこのまますすんでもそれほど問題はありません。もし、仮に岩場を避けるようならば、向って左側(尾根の南側)の斜面の勾配が多少緩い樹林帯の中を進む方が安全です。
 またこの尾根筋はこの写真からでも分かるように、人間一人が辛うじて通ることができる程度の痩せ尾根となっていますので同時に多勢の人数が列をなして通行することは不可能です。
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■5■城跡の南東部分の堀切 画像クリックで拡大
 現在の深さは左側ではおよそ1m程ですが、右側の本郭寄りでは4m以上を有し然もこのような岩塊となって攻め寄せする敵の動きを阻んでいます。念のため迂回ルートを探してみましたが、この岩塊の両側に関してはほぼ迂回することは困難な模様でした。したがって正面突破すべく岩場足を掛け木の枝にしがみ付いて攀じ登ることとなりました。
■6■同じ堀切の南西部分
 堀切を下って斜面を登ろうとも考えましたが、ルートをとるのが面倒で先のように正面突破と相成りました。
■7■堀切上部
 堀切の上部は小郭のようなやや細長い平坦地となっています。堀切の岩場を攀じ登るのが精一杯の寄せ手側にとって、ここで城側から長鑓や弓矢などで狙われたとするならば勝敗の帰趨は明らかなようです。
■8■主郭西側の土塁
 主郭とされる平坦地を東側から撮影したもので西側土塁の郭内での高さはおよそ1.5m前後ほど。
■9■堀切
 「主郭」と西側に所在する「二の郭」との間の堀切を北側から撮影したもの。左側の主郭部分の堀底からの高さは最も大きな所で5m近い個所も見られますが、それほど傾斜が大きくは無いことと二の郭側の高さが2mほどであるためにその比高差の割にはあまり威圧感を感じません。
■10■堀切
 同じ堀切を南側から撮影したもので右側の主郭側の高さに比べると左側の二の郭部分の低さが際立っています。
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■11■二の郭と三の郭の間の折のついた土塁と空堀 画像クリックで拡大
 折のある土塁は「9」「10」の堀切部分にもあるのですが、遺構としてより明確な形なのはこちらの方になりますが、堀底からの土塁の高さは1.5mから2mほどとなります。写真の@の個所で一度折れて6mほど手間への方向に伸びてAの個所で右方向に折れ曲がっていいます。
■12■三の郭北西側の堀切
 城跡遺構の北西部の先端で、右側が三の郭の土塁部分で左側は緩やかな尾根筋に続いています。現在の堀切の深さは1.5m前後と大分埋まってしまっているように見えましたが、尾根続きの城郭の境界部分とは思えないほどの直線的で簡易な構造です。
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■13■竜ヶ谷城と寺山砦の遠景 画像クリックで拡大
 こうしてみるとこの2か所の城砦は北西に当たる背景の破風山(八峰山)などの山岳よりもはるかに標高が低く、「久長」を中心とした周辺の限定的な防衛のための施設であるような気がします。なお、両者とも左奥の標高629メートルの小峰山から派生する尾根筋にあたります。               (この写真のみ2006/02/27撮影)
交通案内

・「道の駅龍勢会館」より北東に約1.5km、鶯の里という別荘分譲地北側の山上。
・比高150mほどで、往復所要時間50分以内。尾根筋は岩場が散在し、やや難路のためトレッキングシューズ装備で。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)・「埼玉叢書」-「増補秩父風土記」を所収、「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町) 

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