城館跡の目次 トップ頁へ戻る サイトの趣旨 城館跡の目次 HP雑記帳
参考資料等 リンク集 工事中
PAGEの先頭 PAGEの最後 管理人へメール 工事中

アクセスありがとうございます。     素人の趣味ですので不備や間違いなどが相当にあると思います。     もしお気づきの点がございましたらご指摘ください。  
城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/11/26の日記 鉢形城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態8 探し易さ4 交通利便5 体力消耗4 歴史経緯2 印象4 総合30
所在地
埼玉県秩父市荒川日野呑だ熊1825ほか
歴史と沿革

築城主は長尾景春か?
 「新編武蔵風土記稿」の日野村の項でも「城山 ...麓より頂までおよそ一里ばかり 小道曲折して雑木多く 荊棘塞がりて通うに道無きが如く...」と記されています。この記述が正しいとすれば日野城の南を通る当時の日野村と白久村を結ぶ峠道については、幕末の時点においてさえも少なくとも交通の要路ではなかったとものと考えられます。
 一方「村の城」のようにあくまでも人知れず山奥に立てこもるための施設としては集落の人口から考慮した場合にはあまりに規模が大げさなものであることは否めません。そうした状況が、長尾景春の事蹟がいまひとつ明確でないことと合わせて、この日野城が何時頃誰の手によりどのような戦略的・軍事的意図をもってこの場所に築城されたのかを分かりにくくさせているものと思われます。
 さて通説として、この城は太田道灌の引立て役の観さえある上野国白井長尾氏の一族である長尾景春が築城したとされ、景春一党が最後の拠点として立て篭もったものの太田道灌の軍勢により文明12年(1480年)6月24日に落城したとされています。しかし、「荒川村史」によると熊倉城が日野城として有力であるとしつつも、景春一党が立て篭もったとされる日野城の候補としてほかに「日尾城」(小鹿野町)、「高松城」(皆野町日野沢)を挙げています。

長尾景春(1443-1514)について(「埼玉県史 通史編2中世」より抜粋引用)
 文明5年(1473年)、山内上杉氏の執事長尾景信が死去したがその嫡子である景春はその職を継承できず叔父の総社長尾忠景が任じられた。このとき長尾氏には総社・鎌倉・足利・白井の各氏が存在していたが景春の白井長尾氏が最有力となり祖父景仲、父景信と山内上杉氏執事職(上野守護代を兼ねる)が続いていた。このため景春はこの処遇に不満を抱き鎌倉を退去し本拠地の上野白井城に籠ったとされる。
 当時山内上杉氏は古河公方足利成氏と関東の派遣を巡って抗争状態にあったものの武藏の大半・上野・相模・伊豆を事実上支配し、その執事職は管領の代官として鎌倉府の政務に関与し国人一揆を統率し時として主家の山内上杉氏を凌ぐ実権を有していた。しかし、越後上杉氏から山内上杉氏を継いだ上杉顕定は白井長尾氏の勢力の拡大を抑えるため敢えて景春に執事職を継承させなかったとされている。

長尾景春の乱(「埼玉県史 通史編2中世」より抜粋引用)
 文明8年(1476年)長尾景春は扇谷上杉氏の家宰太田道灌が今川氏の内紛を抑えるべく駿河に出兵した間隙を狙い同年6月鉢形城に兵をあげた。当時鉢形城は山内上杉氏の本拠上野平井城、扇谷上杉氏の拠点河越城、対古河公方戦略拠点の五十子陣などを分断する位置に所在し、その背後には古河公方との関係が深い安保氏を始めとする秩父郡内の景春与党が多く存在していた。
 景春は翌文明9年(1477年)五十子陣を急襲し上杉顕定、上杉定正、長尾忠景は上野に逃れ、これとともに相模、武藏などで景春の与党が一斉に蜂起した。しかし、太田道灌の活躍により武藏の豊島氏などを次々と平定し同年5月用土原にて景春方を破り、古河公方勢力の景春方への与同が行われたものの幕府との和睦の仲介を条件として古河公方足利成氏の介入を阻止した。
 文明10年(1478年)道灌は影春方の勢力を次々と屈服させ景春の本拠鉢形城を落としたが、景春一党は文明11年(1479年)9月頃から秩父郡で蠢動を見せたが、文明12年(1480年)6月24日に日野城の落城により景春の乱は終局を迎えた。
 なお、景春はこの後上杉定正側に帰属して、長享2年(1488年)の須賀谷原の合戦、明応5年(1496年)両上杉氏の抗争にもその名前が登場する。

足利成氏(1434または1438-1497)「あしかがしげうじ」
 父は永享の乱(1438)で幕府・上杉勢力に敗北した鎌倉公方足利持氏。幼名永寿王丸・万寿王丸の2説がある。永享12年(1440)自害した持氏の遺児春王丸、安王丸を奉じた結城氏朝、小山氏、宇都宮氏、一色氏などが幕府方に鎌倉公方の再興を掲げ挙兵。嘉吉元年(1441年)結城城の落城により結城氏朝は討死、春王丸・安王丸は美濃国垂井で殺害される。しかし2ヵ月後の嘉吉の乱により将軍足利義教が赤松満祐に暗殺され、信濃の大井持光に庇護されていた後の足利成氏が上野の岩松氏などの非上杉勢力の支援により鎌倉府の再興を画策し文安4年(1447年)鎌倉公方として復活した。その後、上杉氏との根深い対立を背景とした享徳の乱(1454年)の発生により、成氏は鎌倉を離れ下総古河を本拠としたことから古河公方と称される。以後武藏東部、下総、常陸、下野などの地に5代120年間にわたり足利氏の名族として君臨した。
 

確認できる遺構
土塁、空堀、堀切、小口?腰郭など
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■日野城は現地の解説板にも記されているように、大きく分けて3か所の郭等から構成されている模様で、熊倉山から北側にのびる尾根の独立したピーク部分を2本の規模の大きい堀切により区分した比較的分かりやすい構造でした。北側の郭は喰い違い状の小口や規模の小さい腰郭を複数ともなう形態かと思うもののハイキングコースと重複しているためやや全体の縄張りが分かりにくくなっています。中間部分に位置する本郭は南側の堀切や土橋などもはっきりとしていて、内側部分で最大で高さ2mほどの土塁も確認することができます。その南側の郭寄りの堀切はなかなかの規模であるとともに、上部の南の郭からは矢の雨を降らすことができそうな印象でした。東側の堀切部分から西側の喰い違い状の小口部分までの距離はおよそ直線で200mほどの規模で、その東西の尾根筋は細長い痩せ尾根となっていました。麓の集落との比高差はおよそ350メートルほど。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「荒川村史」(1983/荒川村)
「荒川村の民話と伝説」(1992/荒川村)
「後北条氏と領国経営」(佐脇栄智 著 1997/吉川弘文館)   

文化財指定
埼玉県選定重要遺跡 1969年10月1日指定
訪城年月日
2005/11/26、2006/03/31
訪城の記録

( 2005/11/26 )
「熊出没注意」
 日野城の現地でお城めぐりの少グループと遭遇するという予定で、前日までは中山氏館を経由して向うつもりが、もたもたしているうちに結局家を出たのが午前9時前と予定よりもなんと1時間遅れに。途中道路工事で3か所が片側通行止め、そして止めにはまたしても関越道の事故渋滞の交通情報。そんなわけで正丸峠越えで秩父市(旧荒川村)の日野城へ直行。
 秩父市内の渋滞を通過しつつも何とか予定よりも20分遅れで現地に到着。日野から白久に抜ける林道の峠にはすでに何台かの車が駐車中。そんなわけで遅れてすまんすまんと思いつつ右手の城山(日野城)方面を、年甲斐も無くハアハアしながら登っていきました。そういえば山城は久しぶりで今年の4月22日の「円良田城」と膝を痛めた最大の原因となってしまった「猪俣城」以来かと。最近は膝の具合も良くなり...そうはいっても念のため右ひざのみサポーター装着。
 さて、2本の堀切を渡り南の郭、本郭、北の郭、その先の小口、腰郭とすすみ城跡と思われる先端まで行ったものの先着グループの姿が見えず。はて、もしかして自分が場所を勘違いしたのかと思い、念のため集合場所を再確認するとやはりこの日野城で正解のよう。そうすると先ほどの駐車中の車は南側の熊倉山へのハイキングのグループのものらしいと推定。再び本郭にもどり説明板の前に佇み説明文などをおもむろに読んでいると、山道をすすんで来る複数の話し声が...ということで無事現地集合完了。どうやら複雑に分岐する林道を間違えて別の場所に出向いていた模様。

 昼食後、世間話などを交わして他の皆さんは本業の縄張り図作成モードに突入し黙々と作業開始。当方はそのような能力に欠けるため、当方のみ下山し一路飯能市の中山氏館へ。
 しかし戦いの舞台となったのが15世紀の終わりごろとはいえ、イマジネーションが貧困なせいかこの標高約650メートルの山上の小城を舞台に長尾景春と管領上杉方が戦ったとはどうも想像しがたいものが。秩父盆地の西の端の山間部で現在でも人口は少なく、甲斐へのルートに当たるにしても当時においてはそれほどの重要拠点とも思えない印象が。また、仮に篭城したとしても食料・飲料水の問題は別にしても数百人が籠れるかどうかという規模かという印象でした。やはり永禄12年頃の北武藏の支配をめぐって争われた後北条氏と武田氏の抗争時の城跡のひとつと考えるほうが自然なのでしょうか。

( 2006/03/31 )
カタクリの花
 日野城訪城の最寄り駅となる秩父鉄道武州日野駅の北側山麓にはカタクリ園があり、観光ガイドのパンフレットに誘われて訪れてみるとちょうど花の盛りを迎えていました。
 小鹿野から旧荒川村に抜ける細い県道43号線を南下し、芝原温泉を過ぎた辺りから昨日の降雪のために雪化粧した熊倉山方面の山並みが視界に飛び込んできました。やはり昨日は早めに撤退していて大正解だったと改めて納得を。国道140号線の丁字路手前辺りからは日野城方面が実によく眺望できましたので、これを数枚の画像に収めてから武州日野の駅へ。
 春の到来を告げるロウバイと福寿草の様子は、小鹿野町にてしっかとこの目に焼き付けることに成功していましたので、昨年機会を逸したカタクリの花だけは今回何としても見ておきたいと思い、どのように訪城ルートに組み入れたらよいのかと数日前からいろいろ思案していました。このような次第で昨年訪城済みの日野城(熊倉城)の遠景の画像がないこともあり、当日の天候と訪城先とを勘案してルートを決定しました。
 事前の情報によればカタクリは駅の北側に生育しているとのこと。「有料駐車場」との表示が気になったもののとりあえず駅の手前の駐車場に駐車させていただき、駅舎の前を通り過ぎ西側の踏切を渡って稲荷神社東側のカタクリ園へ。西側の手前のあたりでは一体どこにカタクリがあるのかと不安になったものの、奥にすすむにつれて綺麗に整備された数え切れない程のカタクリの群落が至るところに出現。設置してあったカタクリ園整備の募金箱に300円を投じて、これでもかというぐらいに十数枚の画像をデジカメに収め再び城館跡めぐりに復帰。しかしこの後、日野鷺橋から眺めた日野城の遠景もまた捨てがたいものがあり暫しとどまり画像に収めました。

画像クリックで拡大します
日野城遠望
画像クリックで拡大します
山麓のカタクリの花
記念撮影




 本郭と南郭の間の空堀を中間部分の土橋状の高まりが確認できる辺りから撮影したものですが、現状では左側の主郭部分の堀底と土塁上辺の比高差が3m以上あるのに比べて、右側の南郭の方は土塁が削平されたためでしょうか1mほどの差しかなかったのが少し残念な印象です。なお、堀跡の底部分は長年の樹木の枯枝や枯葉が堆積していてかなり浅くなっていると思われます。

( 2005/11/26 撮影 晴れ )
訪城アルバム
画像クリックで拡大します
■1■ 画像クリックで拡大
 いきなり「熊出没注意」の表示が目を引く「城山」(日野城)への登山口で、本郭のある場所まではものの400mほどで徒歩10分もかかりません。日野と白久をつなぐ林道の峠部分には6台分ぐらいの駐車スペースがありますので、交通アクセスが最も楽な山城めぐりのひとつではないかと思いますが、熊倉山の北側に所在する関係上降雪時や厳冬期には路面が凍結しますのでかなりの注意が必要です。
 この峠は今から40年ほど以前の元旦に雲取山方面から縦走してきたことがありましたので多分それ以来かと。そのときは城山へは登らずにひたすら白久の方向に向って林道を下って行ったように思いますが、勿論峠の周辺は今のような自動車が通ることのできる道路ではありませんでした。
画像クリックで拡大します
■2■ 画像クリックで拡大
 細長い痩せ尾根に設置された最初の堀切部分。この尾根自体にも少しばかり人手が加わっているようにも見えましたが。
画像クリックで拡大します
■3■ 画像クリックで拡大
 先ほどの堀切を越えて約50mほどそのまますすむと2番目の堀切にでます。尾根筋自体が非常に細いので一列となって進んでくるより仕方がない上に、この2段構えの堀切が施されています。この先には南郭よりも一段低い腰郭状の平地があり寄手はここでかなりの抵抗を受ける仕組みとなっているようです。
 ただ、写真撮影から少し日数が経過しているのでどちらが主郭方向だったか記憶が...
画像クリックで拡大します
■4■ 画像クリックで拡大
 南郭に設置されている現地解説板。
画像クリックで拡大します
■5■ 画像クリックで拡大
 現地解説板では南郭の南側には土塁が遺されているように記されていたのですが、斜面に切落としが施されているように見えるほかには、余りはっきりとは確認することができませんでした。
画像クリックで拡大します
■6■ 画像クリックで拡大
 本郭(右側)と南郭(左側)の間の空堀を北側から撮影したもので、堀切られた空堀の先に小さく土橋状の盛り上がりが見えます。
■7■
 本郭内側から東側の南郭へ続く土橋状の遺構のある個所に繋がる土塁の切れ目部分。
現地ではもう少し分かりやすいのですが、写真に撮影すると全く訳の分からない光景です。
画像クリックで拡大します
■8■ 画像クリックで拡大
 主郭の南側と東側に鍵の手状に遺されている内側部分で高さ約2mほどの土塁跡。日野城跡全体の中でもっともよく土塁が残されている個所ではないかと思いました。
■9■
 本郭の西側部分。
画像クリックで拡大します
■10■ 画像クリックで拡大
 本郭の西側部分に遺されている内側部分で数十センチから1mほどの高さを有する土塁跡。土塁の中央部分に括れがありますが、その先には土橋などはなく尾根筋を縦断する完全な堀切となっていました。
■11■
 本郭の西側の堀切部分ですが、東側のものと比べると大分規模が小さいように思えます。
■12■
 西側の郭の様子。本郭や南郭と違い樹木が少なくとても明るい暖かな場所なので、ここで揃って三々五々と各自昼食を摂ることに。
画像クリックで拡大します
■13■ 画像クリックで拡大
 北西部分に所在する喰い違い状の小口と思われる個所ですが、元々城山ハイキングコースと重複する場所なので自然地形か人工地形か事前の情報がないと分かりそうにもありませんでした。肉眼ではもう少し人工地形の雰囲気を感じさせてくれるのですけれども...
画像クリックで拡大します
■14■ 画像クリックで拡大
 先ほどの小口から一段下がったあたりの腰郭部分から小口方向を撮影した...つもりなのですが、写真を撮影するとただの山の斜面としか見えないような。
■15■
 腰郭のひとつかと思いますが。
■16■
 先ほどの腰郭の下はまた細長い痩せ尾根が続いていきます。左側に竪堀跡があるような無いような...城跡としての範囲がどこまでなのか少し判断に苦しむところです。
■17■
 更に西側の尾根筋で、さすがにこのあたりはまず城跡とはいえないようでしたが、細長い痩せ尾根は峠の個所まで続いています。
■18■
 右手の斜面が本郭の北側部分で写真のように帯郭のような通路がありますが、これが近年のハイキングコースの設置にともなうものか、かなり以前からのものなのか...
画像クリックで拡大します
■19■ 画像クリックで拡大
 南郭側になるとこのように高低差も縮小し、郭の斜面の角度も緩くなっています。また、この通路の北側の斜面はかなり傾斜が緩くなっていますが、そちらの方向から攻めあがってくることは道もないのでまず不可能かと。
画像クリックで拡大します
■20■ 画像クリックで拡大
 「3」の堀切部分を方向を変えて撮影したもの。
画像クリックで拡大します
■21■ 画像クリックで拡大
 峠の南側は熊倉山への登山口ですが、「熊出没注意」の看板を含めてやたら賑やかに各種の標識が林立していました。
■22■要害堅固...しかし不便な
 峠から標高にして50メートルほど下ったあたりから秩父市日野方向を望む。左側の山は日野城のある城山から派生している尾根筋ですが、この林道からの眺めでも分かるように北側の「鳩の湯」の方向を除いて荒川方向の眺望は殆どありません。したがって、現在の国道140号線方面を山上から監視するということは殆どできないものと思われます。また、白久や日野までの距離は徒歩にして下り道でもおよそ1時間ほどを要します。ちなみに、現在の日野から白久へ抜ける林道は恐らくは20年ほど前に開通したものと思われます。
交通案内

・峠の所まで車で行けば、比高わずか50m、徒歩10分少々で標高650mの城山山頂に到達できます。

いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想はこちらへ 工事中