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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/12/29の日記 寺尾城 宮崎城 諏訪城 鉢形城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合30
所在地
埼玉県秩父市大字寺尾字永田3600ほか
歴史と沿革

諏訪氏の居城のひとつか
 大野満穂(1814-1892)が幕末から明治初期に著した「秩父志」によると、寺尾村の項に「此村に永田と云う所あり、此に永田山永福寺と云る真言の古刹ありて...此寺地は東は荒川にして西北は小澤をまわし自然の深溝なり。南を表して長300間ばかりなる地なり。往古永田林四郎と云うもの居迹なりと云う、天正の頃諏訪七右衛門と云いし人住居せしと云う」というような伝承が記録されているだけで詳細はその規模の大きさの割には不明とされています。

確認できる遺構
土塁、空堀、小口、郭
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■付近の寺尾城や宮崎城に比べるとはるかに大きく、北東から南西方向に約300m近くの長さを有し、北西から南東方向に南西の最も広いところでは150mに及ぶ規模があります。遺構としては南西側に幅4m、深さ約2m、延長約150mの箱堀状の空堀とその内側に小口伴う堀底からの高さ約2.5mの土塁が存在します。上記の「秩父志」によると、「今に南方に土手並びに門の迹ありて、土手の下堀跡は田となれり」と記されて「永田城迹圖」も収録されています。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)「増補秩父風土記」を所収   

文化財指定
埼玉県選定重要遺跡 1969年10月1日指定
訪城年月日
2005/12/29
訪城の記録

( 2005/12/29 )
2005年の訪城は秩父22番札所で打ち止め
 寺尾城の南南東400mほどの秩父札所22番童子堂がその城館跡です。近くの宮崎城や寺尾城と比べると、北東から南西方向に約300m近く、北西から南東方向に南西の最も広いところで150mに及ぶという遥かに大きな規模です。遺構としては南西側に掘り底部分で幅4m、深さ2m程度、延長約150mの箱堀状の空堀と内側に小口伴う堀底からの高さ2.5mの土塁が所在します。
 天然の要害としては荒川の左岸に幅の狭い細長い台地が開けているため荒川の断崖に直接は繋がっていないことと、荒川よりの南東側の比高差は20m程度で、また北西側の渓谷も深さは10mから20mと城館の規模の割にはそれほど深くはなく、南東の平地に続く自然の谷の部分は傾斜も緩く比高差も10m程度とこの辺りがやや弱点となるのか...などと勝手な推測を。
 尤も、ここだけしかこなければ相応の天然の要害の地として納得してしまうかもしれませんが、諏訪城、宮崎城、寺尾城と巡ってきたこともあり、荒川などの断崖を見慣れてしまっていことによる影響が大きいのかもしれません。土塁と空堀などの遺構については荒川の断崖沿いの城郭群の中では一番保存状態が良いように思いました。
 また、有名な札所のひとつと云うこともあり、城館跡めぐりをしていて久しぶりに人と会うことの多い訪城でした。写真を撮影しながらふと遠くに目をやると、武甲山や荒川に架かる秩父ハープ橋の構造物が師走の夕日を浴びてキラキラと輝いて見えたような気がしました。

記念撮影

 
 小口脇の土塁上から見た小口・土塁・空掘りの様子ですが、撮影時間が午後3時を大分過ぎていたために太陽の位置が低くなり、写真の西日の当たる部分と影の部分とのコントラストが強過ぎる画像となってしまいました。

( 2005/12/29 撮影 晴れ )
訪城アルバム
画像クリックで山門の解説へ
■1■童子堂の山門 画像クリックで解説板へ
 山門の両側にはどちらかというと可愛らしい童子仁王と呼ばれる仁王像が左右一対安置されています。永田城についての解説はこの山門の解説板の中で僅か2行ほど記されていました。 
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■2■童子堂 画像クリックで解説板へ
 郭内の奥行きの長さなどから考えると、およその中間点にあたるこの童子堂付近にも土塁や空堀が置かれても良さそうに思いましたが、そのような痕跡は今となっては確かめようもなさそうでした。
■3■北西側の渓谷
 先端部分に近いこの辺りではおよそ20mほどの深さがありますが、空堀と交差する辺りでは源頭部としての地形の関係で数mほどとなっていました。
■4■北東の台地先端部分
 童子堂の裏側の墓地を抜けると台地の幅が次第に狭隘となり、北東の先端部分では15mほどの幅となって崖下へと続いていました。崖下との比高差は30mほどで少し無理すれば下りることもできる勾配でした。なお、この先端部分には土塁のような高まりが遺されているようにも見受けられましたが全く確信が持てません。
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■5■北西側から見た遺構 画像クリックで拡大
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■6■空堀跡 画像クリックで拡大
 空堀跡であることを示す小さな立て札がどちらかといえば余り目立たない感じで立てられていました。札所と比べると全くご利益はなさそうだし、余り一般的な観光資源とはならないかもしれません。しかし、これだけの遺構が残されていますので、もう少しアピールがあっても良さそうなものではないかと思った次第でありました。
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■7■巡礼の古道の道標 画像クリックで拡大
 けっしてご何らかの宗教的超常現象やご利益のために後光がさしているわけではなく、この古碑を利用して西日が直接カメラのレンズに当たるのを避けただけのことであります。
■8■文化財マップ
 城跡関係もほんの少しだけでも表示してくれると嬉しいのですが、城跡に関しては何の情報も記載されてはおりませんでした。。
交通案内

・秩父札所22番永福寺の童子堂が城跡
いつもガイド の案内図です 地図 

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