アクセスありがとうございます。  HP日記、訪城記録、猫との平穏な暮らしなどの雑記帳のようなものです。 
menu
トップ頁ヘ HP趣旨 訪城覚書 HP日記 参考資料 リンク集
日記の目次 工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想 工事中
・2006年2月27日    私用のはずが仕事もしなくては
           

 本日は前日が雨天だったので山城方面は足元がおぼつかないと判断しきっぱりと断念し、秩父地方に所在している平地の城館跡の探索に切り替える事としました。ただし休日とはいうものの、高齢者の団体を引率するという仕事の段取りの関係で、訪城したついでに何ヶ所か立寄って打ち合わせなどを行うという欲張りな予定。

小柱堀ノ内(埼玉県秩父市)午前10時40分から午前11時30分まで
 荒川と赤平川が合流する地点に所在する城館跡で、赤平川の流れている北辺部分の崖の高さは軽く30メートルほどはあり、ものの見事に切り立った地形のため枯れ草のある崖の縁でうっかり体のバランスを崩すと真っ逆さまに落下していきます。諏訪城の時もそうでしたが、まさに自己責任ということなのか転落防止などの設備や注意書きなどの類は全く見られません。もっとも秩父地方ではあちこちにこのような断崖があるので、とてもその全てに安全施設を設置することなどはは事実上不可能なのかと思われます。
 さて、館跡といわれている個所は諏訪神社や薬師堂そして琴平大権現などの祠ヶ存在するほかは大半は畑や宅地となっていました。また一部ですが土塁の名残のようなシシ垣と思われる石塁が散見されるものの明確な遺構は存在していません。帰りがけ地元の方がいらしたのでご挨拶をしたところ「何の調査ですか」との質問が。「神社やお寺のことを調べています」と回答。たしかにそういう側面もあるわけで、経験的にはこれが一番理解されやすい説明のようです。

大淵氏館(埼玉県皆野町)午後11時40分から正午まで
 始めは「屋敷の入口に所在している石塁がもっとも目立つ存在らしい」との情報をたよりにそれらしいお宅を探してみたもののなかなか見つからず、集落沿いの道を北西に向っていくと金室姓の多い墓地が道の左側に所在し、暫くすすむとやがて山裾に所在する旧家の手前付近に漸くそれらしい石積みを発見。しかしどう見ても玄関先の正面にあたる場所のため、お家の方に事情を告げて撮影する旨の許可をいただきました。折のつけられた石塁は年代も明確ではなく、それほど大規模なものではありませんが遺構には違いない模様です。
 
 さてこの後はまず、旧吉田町の秩父事件の秩父困民党旗揚げの地である椋神社に向かい、バスの駐車場やトイレなどの設備を確認。続いて「道の駅龍勢会館」で必要なパンフレットをかき集め、団体見学の下見と申し込みを行い、昼食予定の龍勢茶屋にて昼食を摂りつつ団体利用の申し込みと座敷の広さ・設備などの確認。その後、地元の酒造メーカーである秩父菊水酒造に立ち寄り団体見学の申し込みなどの手続きを行い、釜の上農園村にてイチゴ狩りの内容・料金・設備などを確認し団体利用の申し込みを行い合計3時間ほどで取りあえず仕事の部分を無事終了。予定よりも大分時間を費やすこととなってしまったものの、ガラッと気持ちを切り替えて後半の訪城を開始。

小暮城(埼玉県秩父市-旧吉田町)午後3時00分から午後3時30分まで
 前回余りの枯れ草や笹薮のため奥深く立ち入ることができなかったことなどもあり再訪した次第。しかし、今度も笹薮と枯れ草に加えて荊や桑の枝に進路を阻まれ古墳とされる高さ2mほどの塚の上まですすんでみたものの見通しはさほど変わらず、更に前日の雨の影響で足元はグズグスの状態のため、結局は北側の谷の様子を確認できた程度で実際には余り得ることもなく退却の憂き目に。それこそ大規模な草刈でもしないことには、とても遺構全体を目にすることはできそうもありませんでした。
 
奈倉館(埼玉県秩父市-小鹿野町)午後3時45分から午後4時30分まで
 どこと無く見覚えのある地形だと思っていたら、以前に何度か訪れたことのある小鹿野町指定天然記念物である新世紀第三紀堆積層の「ようばけ」のすぐ近くでした。館跡は北から西へと大きく蛇行する赤平川に面した左岸の段丘上に所在していて延長にして70メートルほど、高さ1m前後の川原石などの石塁が崖の先端部分にL字型に遺されていました。西側のほうには小口らしい石塁の切れ目や崖下からの小道なども所在していてますし、枯れ草が蔓延って視界を妨げるようなこともありません。また、現地には大変ていねいで詳細かつ頑丈な解説板が立てられ、皆野町の千馬山城訪城以来のことなので嬉しさが募りました。
 
 しかし、考えてみると20ヶ所ほど秩父地方の城館跡を巡ってきましたが、かなりの遺構が現存している割には現地解説板が所在していたのはこの「奈倉館」(小鹿野町)、「小池氏館」「千馬山城」(皆野町)、「仲山城」(長瀞町)ぐらいしかなかったように思われます。諸般の事情が介在するとは思われますが、これだけの文化財を有しながら、その社会的啓発活動がやや低調であるようにも思えてなりません。 




■椋神社社殿


■龍勢会館・秩父事件資料館

 竹製のロケットで有名な旧吉田町(現秩父市吉田久長)に所在する龍勢会館は現在は道の駅として拡張され、最近は「秩父事件」を題材にした映画「草の乱」のロケーションに使用された建物なども所在する観光スポットとして大規模に拡張されていました。なお、この北東に所在する三角形の裏山が戦国期の寺山砦のある場所です。
 椋神社は明治17年に起きた「秩父事件」ゆかりの場所ですが、数千人の農民が集合したというにしてはやや境内が狭いように思われます。もっとも境内から周辺の道路まで集合していた人々が溢れ出していたとも考えられますが。

■秩父事件資料館■
埼玉県秩父市吉田久長

撮影月日:2006年 2月27日
撮影場所:秩父市にて   

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年2月22日    道が無くても地形さえ把握できれば
           

 本日の行動予定は@旧吉田町の寺山砦A竜ヶ谷城B秩父氏館C小暮城と、訪城した後に秩父市立図書館などに立寄って史料収集というメニュー。

寺山砦(埼玉県秩父市-旧吉田町)午前10時45分から午後12時15分まで
 とりあえず旧吉田町の龍勢会館を目指して午前8時前に自宅を出発。途中思いのほかの交通渋滞で現地到着は2時間30分後に。さて、この龍勢会館は十数年ほど以前に吉田町のキャンプ場に行ったついでに立寄った場所。当時はそれほど広い場所ではなかったのですが、現在は「道の駅」となり映画「草の乱」のロケーションに使用された建物も所在する観光スポットとして大規模に拡張されていました。
 当時は山城どころか城跡などには余り興味が無く、随分ととんがった形状の裏山があったようなという程度のおぼろげな記憶しか残っていません。さて、それから十余年が経過し城跡めぐりで再訪することとなろうとは全く夢にも思わないことで。当時はどこへでかけるのも必ず子どもたちがぞろぞろとついてきて恰もミニ子供会のような状態。しかし、いまや声をかけどもついてくる気配さえなく、血縁関係のある居候のような存在になってきました。
 砦跡への道は、天徳寺の手前西側にある細い道路を北西方向にすすみます。砦跡の城山自体は天徳寺の北西の裏山として特徴のある三角形の山容で聳えていますのでまず間違いようがありません。舗装された道路は小川を渡り終えた山裾で終わり車1台分ぐらいが通行できる程度の幅の砂利道となります。砂利道を200mほど山裾に沿って谷筋をすすんで行くと右手にいくらか開けた感じの小さな沢があります。沢に向ってその左側に沿って細い山道の踏み跡があるのでこれを沢沿いに直進すると一端道は沢の右側に移りまた左側に戻ります。すると目の前に進路を阻む格好で谷筋一杯に比高2mから3mほどの段差のある地形が現れます。この地点は沢に入る分岐から約100mほどの地点です。沢の水量は渇水期のため歩行に支障がないものの、水分が豊富な土質のためにかなり滑りやすい状況なので要注意です。山裾に土石流の危険がある旨の表示が出ていたことを今更のように納得。
 さて、その段差を乗り越えると谷を東西方向に横断している小道にぶつかりますので、これを右手の東側にすすみ小さな斜面を登りきると意外なほどに広大な平場に行き当たります。平場は梅沢氏の「中世北武藏の城」や「秩父・中世吉田の城’01」に2か所所在していることが掲載されていますが、実際には手前の南側から北側の尾根筋に向けて3段ほど存在しているに見えました。さて、平場の中は道らしいものはありませんが見通しが比較的良いので北側の稜線に向って100mほど直進します。すると稜線の鞍部に斜めに踏み跡が見えますので、これを登って稜線上から南に所在する城跡へと向います。
 100mほど緩やかな尾根筋を登っていくと目前に手前に堀切をもつ大きな岩塊が出現し、少しすすむと更にもうひとつの岩塊の個所も堀切となり、その先にまさにネコの額ほどの小さな郭が所在します。頂上に所在する三角点の座標の所に腰をかけ持参した握り飯2個を平らげて少し早めの簡素な昼食を。頂上付近の岩塊が所在する尾根筋は下方には植林帯などがあるので何十メートルも落下することは無さそうな感じですが、尾根幅自体が非常に狭いので体のバランスにとりわけ注意を払い慎重に行動しました。
 また、最初の平場から主郭のある尾根筋が見えるので近道をして登れるかというと、途中から傾斜が厳しくなり、また荊などの棘のある植物も生えていたりするので遠回りの様に見えても北側の尾根筋から迂回するのが賢明なことが判明。いずれにしても、この山の地形から見てこの北側から登る以外にはルートは無く東西の斜面は頂上に近づくほど50度前後と傾斜がきつくなります。また南側も頂上付近は40度ほどの傾斜となっているため登攀困難です。城跡自体の遺構は小規模なものですが、岩塊を上手く利用した鉄壁の堀切や城跡下部に展開する謎の広大な平場などが所在し実に楽しい訪城でした。

竜ヶ谷城(埼玉県秩父市-旧吉田町)午後12時50分から午後2時20分まで
 登口に関する情報が不十分でしたが、南側の別荘地の上部から東側尾根筋目指して九十九折で直登。稜線上は岩塊が点在していたため斜面が緩やかで樹木の多い南側から迂回してすすむうちに思いのほか早く東側の最初の堀切部分に到達。そのあとは主郭、二の郭、三の郭とその間の折のある土塁や堀切を一直線に縦断して城跡の西端に到達。梅沢氏によれば「乱雑なつくりである」というようなことが指摘されていますが、確かに折のある土塁の部分を除くと小口などもはっきりとせず郭内もやや整形が不十分な感は否めないようでした。
 さて、西側からの道がどうもはっきりとしないのでそのまま、帰路は往路と同様のコースをとることに。ひたすら稜線上の岩塊を攻略しながら尾根筋の東端の樹木の伐採により眺望の開けた岩場まで進み南側の別荘地の給水タンクの場所を目指して降下。梅沢氏の「中世北武藏の城」や「秩父・中世吉田の城’01」によると西側から登る旨が記されていました。しかし城跡の西側方面は踏み跡も余り定かではないことから、寧ろ東側の別荘地の給水タンクの個所から尾根筋を目指して這い上がり、岩尾根伝いに西側の城跡を目指したほうが楽なような感じがしました。ただし尾根筋には進路を阻む岩塊が点在しますので慎重に乗り越え、或は南側から迂回するなどの工夫が必要ですので、ある程度岩尾根などのある山を歩きなれているような経験が求められるかもしれません。

秩父氏館(埼玉県秩父市-旧吉田町)午後2時40分から午後3時00分まで
 城館跡の遺構が小学校の敷地そのものとなっているため、あまり近くでウロウロするのも躊躇われる昨今なので、思い切って南側の谷の対岸から見学することに。しかしよくよく他の方のHPや資料の写真を見てみると自分が見学した場所と寸分違わぬ辺りから撮影している様子でした。この場所は吉田町の街中でありながら予想外に深い谷が刻まれているために南側の守りは鉄壁かと。おまけに撮影している足元の崖も急傾斜で体を乗り出さない限り斜面が見えないほどでした。

小暮城(埼玉県秩父市-旧吉田町)午後3時10分から午後3時30分まで 。
 「釜の上」という地名と台地上の周辺の景観に見覚えがあり、よくよくおぼろげな記憶を辿るとやはり十数年ほど前に2度ほど「ぶどう狩り」に来ていたことを思い出し、小暮城跡はなんとその場所から僅か南へ1kmも離れていない場所に所在していことに驚きと感慨。城跡へは自動車修理工場の方からも行けそうでしたが、北側の沢に架かる橋から失礼しました。橋が架かっている個所は郭内部でも道路となっているため北側の土塁はその部分で切断されていました。何分にも立ち枯れた草丈が高く、また池などの湿地帯も点在しているので迂闊に枯れ草の中に踏み込めず、墓地の所在する南側の行き止まりの通路まですすんで再び丈の高い枯れ草に進路を阻まれ退却することに。
 さて、この城跡に関してはまず城跡とは無関係の2つの疑問が。ひとつは郭内には墓地とかつての耕作地しか所在しないにも拘らず、立派なコンクリート製の橋が架けられていること。もうひとつは西側の台地続き以外は深さ十数メートルほどの深いい谷が刻まれ、さほどの広さがあるわけでもないにも拘らず池などの湿地帯が所在することです。なお、城跡そのものと思われるような土塁が台地の縁に明確に所在しながら、その事実がごく最近まで明らかにはされてこなかったこと自体も大きな謎のひとつです。
 
 さて、訪城終了後まず旧吉田町役場の図書に寄り郷土史料のコーナーを一瞥したあと、教育委員会の事務局で「秩父・中世吉田の城’01」などを入手。「まだ吉田町の名称のままなんですけど...」とすまなそうに応対する職員の方。当方としては中身が必要なので古かろうが或は市町村の名称がどうあろうと全く拘りはないのですが。事実上の秩父市による吸収合併を背景にどことなく滲み出している感触として全体としてあまり活気の無い様子に見えたのは穿ちすぎでしょうか。それに比べて秩父市の市街地は人口が多いこともあり気のせいか活気があるような印象が。
 その後、市立図書館で必要な資料のコピーを始めたものの思いのほか作業に手間取り閉館時間までに完了することが困難であることが確実に。カウンター担当の臨時職員の方の気をもませても仕方が無いので後日再訪することとしてキリの良い所で中断。とはいえ、往復の所要時間がおよそ5時間前後はかかるところが辛いのでありました。
 行政の効率性や経済性のみの視点から推進された平成の大合併の功罪に関する総合的評価は後の歴史が証明するかもしれません。残念ながら歴史的背景、地域性あるいは文化的視点で議論された事例はそれほど多いとは思われないのですが。少なくとも明治の大合併以降において蓄積されてきた郷土の歴史・文化とこれに対する誇りを失う可能性が内在することに留意すべきかと思うのでありました。




■たまにはメニューも撮影

韃靼蕎麦 画像クリックで拡大
■韃靼とろろ蕎麦大盛880円也

 秩父市内で食事をしようとも思ったのですが敢えて嵐山町の韃靼蕎麦の看板が目立ったこのお店にて定番の夕食を。最近やっと両膝の状態は回復して今回ぐらいの場所でしたらさほど問題なく訪城できるまでになってきました。しかし、足の歩幅の減少もさることながら、どうしても体のバランスをとるのが以前よりも難しくなってしまいました。体重は正月と比較すれば何とか2キログラムほど減量されたものの平衡感覚がかなり低下しているようです。
 せめて「ルチン」の効果で血流を改善して平衡感覚を取り戻さなくては...左上の写真のメニューにはありがたい「ルチン」の効用が縷々書き連ねられていました。

■お店の所在地■
埼玉県比企郡嵐山町

撮影月日:2006年 2月22日
撮影場所:嵐山町「増田屋」にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年2月14日    義理チョコ2つ
           

 バレンタインデーということで義理チョコを2つ獲得。ひとつは家内からの500円相当のもので、もうひとつは18歳で独身の女性から...といっても娘ですけど。娘のバイトしたお金で購入したもので多分800円か1000円ぐらいの洋酒入のもの。娘の小さい自分も含めて、この日に義理チョコをもらったのは初めての画期的な出来事かと。
 時のたつのは本当に早いもので、その娘もこの春には公立高校を卒業したあと都内の専門学校への進路が決定ずみ。娘とは一時は余り口を利かないような時期もありましたが、ネコを飼い始めてからは日常的によく会話をするようになりました。


義理チョコ2つ
■大切な義理チョコ■

 いずれは食べるつもりですが、勿体無くてなかなか手が付けられず開封すらしていないという馬鹿親父そのものです。一方、家内からのものは数日前にもらったので今や空き箱のみに。上段が娘からのもので、下段の中身は数日前に胃袋に入りました。

撮影月日:2006年2月14日 撮影場所:自宅にて        

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年2月13日    足元は万全、しかし
           

 本日の予定としてはまず@天神山城の東側の尾根筋に所在する出郭の探索。A根岸城B加治氏館C山田館そのほかというメニュー。
 さて、話は変わって月曜日の公共図書館は殆どが休館なので本当に不便かと。仕事の関係で自分も月曜日が定休のため資料集めに相当支障をきたします。自分が通算13年間ほど勤務していた時にはそれほど現実的な問題としては認識していなかったのですが、立場が変わると身勝手なもので通年開館とまではいかなくとも蔵書整理などの月末休館程度にとどめて、休館日はできるだけ少ないほうが利用者としては便利かと今更のように思うのでありました。勿論月曜休館の理由や諸事情については十分に熟知しているつもりですが。何れこの辺りの公共図書館のサービス体制に関する問題については別途集約して行かなくてはと考えます。

天神山城(埼玉県長瀞町)午前10時25分から午後12時30分過ぎまで
 前回の訪城時に三の郭付近から出郭方面へ足を伸ばそうと道を探したものの、思いのほか足場が悪く断念。スニーカーであったことが最大の理由でありました。今回は足元はトレッキンク仕様で万全かと。しかし今度は必要アイテムである腕時計を忘れ、ついでに途中でデジカメのレンズキャップを紛失...
 今回は二の郭東側の比較的緩やかな傾斜の尾根筋に築城されている出郭の探索がメインですが、攻城する側に立って敢えて骨の折れる東側の谷筋からアプローチすることとしました。さて、思いのほか幅の広い見通しの良いかつては水田地帯であったと思われる谷あいの小道を南下していきます。道は途中で東側の尾根筋を登るルートを分岐しますがそのまま谷に沿って直進します。少し進むと谷あいの道は消滅しますので、西側に所在する主郭を過ぎた辺りで頃合を見計らって湿地帯を横断し、南北に流れる小さな谷川を横切り尾根筋に取り付き木の枝にしがみ付いてとにかく上へ上へと這い上がります。今回はやや南に行き過ぎたものの無事出郭の南端部分に到達。驚くほどの規模と良好な状態で空堀、郭、土塁、土橋、堀切など多くの遺構がが遺されていることにある種の感動を覚えました。
 所要時間は上り25分で下り20分ほどですが途中から道がなくなります。単に楽に訪れるとしたら、二の郭の小屋を解体したトタンなどの廃材が放置されている辺りから東側へ降りるのが最短ルートのようです。ただし斜面に生茂る潅木の枝などのために上部の二の郭から見ても、出郭東側の麓から眺めても出郭自体を直接目にすることは困難です。したがって、念のため二の郭から降りる辺りの木の枝に黄色のテープを目印代わりに何ヶ所か装着しておきました。これを辿っていけば暫くの間は出郭到達間違いなしかと。ただし急斜面なので登るのも降りるのも少し疲れます。しかし、岩場が露出しているわけではないので生命にかかわるような危険は殆どありません。

根岸城(埼玉県秩父市)午後1時26分から午後2時40分まで
 秩父34ヶ所の札所めぐりの番外岩井堂がルートの途中に所在し、城跡自体もハイキングコースとして至れり尽くせりの状態で整備されています。所要時間にして上り40分、下り30分程度ですが、途中に300段以上もある石段、様々な石仏、観音像、謂れのある岩塊、修験堂、鉄製の階段といろいろ城跡以外の見所も多く退屈しません。また、眺望もよく威圧感のある武甲山は目の前で反対側の西方は秩父盆地が一望できます。このため40分程度の登り時間はさほど長くは感じませんでした。この城跡自体が武甲山から西側に派生する尾根筋の先端部分なので武甲山の一部のようなものです。
 遺構自体は規模はそれほど大きなものではありませんが、主郭を始めとする複数の郭、堀切、腰郭などがそれほど大きく改変されずに存在していました。仮にマイナス要因を敢えて挙げるとすれば、城跡に行くのに昭和電工の会社のゲートを通過しないといけないということぐらいでしょうか。

加治氏館(埼玉県秩父市)午後3時10分から午後4時00分まで
 所在地が余り定かではなく「秩父郡内の城館」さんのHP情報などを頼りに訪城。県道11号線と大槻沢が交差する個所を大槻沢に沿って東方向へ遡っていくと、大槻沢の南側に「馬場」とよばれる土塁跡のようにも見える斜面が遺されている場所の確認に成功。更にその東側の小さな沢をはさんだ丘陵地帯がどうやら館跡の模様。以前は耕作されていたと思われる畑と疎林のある50m×100mほどの比高約10mの平坦地は人気も全くなく、勿論由来などを記した設備などもなく暖かな西日の日差しを浴びて静まり返っているだけでした。



「大名なんとか」 2200円  画像クリックで拡大
■「大名何某..」2200円也

店内から鉢形城の笹郭が見えます。 画像クリックで拡大
■店内から鉢形城の笹郭が見える

店内から鉢形城の笹郭が見えます。 画像クリックで拡大
■笹郭側から見た店舗玄関

 予定していた幾つかの秩父方面の蕎麦屋さんが軒並み定休日などのため入店できず、帰宅コースの途中に所在することもあり2度目の入店を。
 前回は確か辛味蕎麦でしたが、今回は思い切って「大名」と名のついた割子そばを注文。西の山入端に次第に沈んでいく夕日と暮れなずむ鉢形城の笹郭の風景を眺めつつ、具が異なる5種類の蕎麦を堪能してきました。以前は海老の天ぷらは全く食べることができなかったのですが、最近は加齢と共に食の嗜好も変わり美味しくいただきました。

■お店の所在地■
埼玉県寄居町鉢形字城2650-1

撮影月日:2006年2月9日
撮影場所:寄居町「鉢形茶屋」

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年2月9日    足元が...
           

 今月に入ってから、体調不良などの事情もあり今だ未訪城。ようやく、振替休暇で早速秩父方面に出動。その前に兼ねてからの懸案であった金尾要害山の遠景を撮影すべく荒川に架かる寄居橋の上から撮影。大型車が通過すると体に感じる大きな立て揺れが。20mほど下は玉淀ダム湖の上流でいかにも水温が低そうな黒みかがった緑色の深い澱み。気温もプラス1度程度で北風が冷たく目が眩んで落ちないうちにとっとと撮影を切上げ一路天神山城へ。

天神山城(埼玉県長瀞町)午前10時10分から午後1時30分過ぎまで
 今もなお観光開発が挫折して廃墟となった模擬天守が麓からよく見えるある意味有名な城跡。登口となる白鳥神社からの比高差は僅か90メートルほど。ついうっかりして足元を確認しないままスニーカーで登頂開始。奥の院に当たる祠までは道幅も広く至って楽な登り道。しかし、その場所を過ぎた途端に道は狭くなり木の枝が道に張出し、間伐材が道を塞ぎ...もっとも道自体ははっきりとしているので全く問題はなし。大きな岩の塊の上に乗る本郭はもう目の前に。
 構堀や大きな腰郭を過ぎ坂小口状の坂を上ると荒れ果てた模擬天守の所在する本郭へと到達。なるほど目の前の模擬天守は相当に荒れ果て、床板が抜け、根太も腐食、東側の屋根の一部は崩落し歴史的には3度目ぐらいの落城(自落というべきかも)。体重が軽くフットワークが良ければ腐食していない所を探して内部に入れないこともなさそうですが、長期にわたり放置されているとはいえ建造物には相違ないので記念撮影だけに止めて不法侵入を断念。
 まず本郭北側の堀切と腰郭を探索。大怪我をするほどの比高差ではないものの枯葉の斜面は予想通り滑りやすく、トレッキングシューズに履き替えなかったことを後悔。下りも滑るが上りでも滑るため作業用の特殊手袋であちこちの木の枝にしがみついてやっと本郭に復帰し、この北側斜面からは攻め寄せることの難しさを体感。
本郭と二の郭の間の堀切を確認後、二の郭西側の腰郭から見ることができる二の郭石積みを観察して、三の郭へ。観光開発したものの廃業後放置された建物が残骸となって所々に点在しているのをみると遺構が破壊されてしまったことに更に加えて痛々しさが倍加。三の郭の鉢巻城の堀跡は思いのほかしっかりと遺されていて意外な印象が。
 この跡三の郭付近の井戸跡といわれている個所から出郭方面へ足を伸ばそうと道を探したものの、思いのほか足場が悪く断念。スニーカーであったことが再び悔やまれ、後日、再度北側の谷沿いから攻め上ることとしリベンジを期すことに。

根岸山砦(埼玉県皆野町)午後2時00分から午後2時50分まで
 宝登山山頂から東へ荒川に向って張出す尾根筋の先端部分が戦国時代の砦跡と推定されているようで。岩壁の存在が示すようにその南側の峻険な地形と比べ北側は緩やかな斜面となっていることが対照的な山容です。さて肝心の遺構はどうかというと、400年以上も前のものかどうかというとそれほど古いものではなさそうな石塁が1ヶ所、腰郭状の平坦地が2か所ほど東側の谷沿いに遺されていました。状態から見て時代背景がかなり新しいように思えるものばかりなのですが、新しいものと考えると自分の乏しい知識では何のために普請されたのかがよく分からない「遺構」でした。ことによると木材や石材の切出しのために構築されたものかもしれません。素人が見てもすぐに分かるような状態ですので、これが歴史的な遺構ならば当然近世の地誌などに掲載され、最近の城館関係の書物などにも掲載されていて良いはずかと。

金崎殿館(埼玉県皆野町)午後3時00分から午後3時20分まで
 「五輪塔」を目印にして、根岸山砦に向う前に金崎神社付近の該当しそうな場所を探したものの見つからず、先に根岸山砦の方を探索。下山後、金崎神社西側の長興寺付近を探索するもそれらしい個所が見当たらず。
更に西側に進んでいくと道路のカーブミラー脇に小さな標識発見。矢印に沿って道を北上すると立派な構えの屋敷門があり、東側に伸びる細い道の先になにやら存在する気配が。「五輪塔」の存在を示す小さな文化財の標識の中に「金崎殿館」の文字が...。説明によればこの当り一体が金崎殿館跡ということのようで、まずはめでたしめでたし。

長尾城(埼玉県秩父市)午後3時50分から午後4時30分まで
 秩父市の図書館へ立寄ることも本日の重要な目的なので、時計の針とにらめっこをしながらの訪城。こうした事情にも拘らず「美の山」への南側からの道路の入口を間違えるなど更に時間を浪費。結局瑞岩寺側からしか登れそうもないことが分かり夕方の寒風吹きすさぶ小さな岩山をよじ登ることに。登口には危険個所を改修するための工事予告の看板が設置されてはいましたが、足回りさえしっかりしていれば全く問題もなさそうでした。肝心の城跡はゴルフ練習場の建設などにより消滅している模様で、詰の城となる背後の岩山だけが屏風のような地形で残されていました。
 さほど標高があるとは思えない山頂からの眺望は視界をさえぎる樹木などが少ないこともあり思いのほかの絶景で、城峰山、両神山、武甲山方面がよく見通せます。また眼下の荒川沿いの街道を監視する役割としてはまさにうってつけの立地条件かと。こういうことは登ってみないと体感できないことで、時間が余りない状態でしたが比高差80m足らずの岩山に残り少ないエネルギーを消費して大正解でした。

 本日の行動予定は@金尾要害山の遠景撮影A天神山城B金崎殿館C根岸山砦D長尾城E時間があればその他F秩父市立図書館で郷土史関係の資料を漁るF夕食は秩父市内の蕎麦屋にて、という内容でしたがABCで予想以上の時間を要してしまいEは見送りFはぎりぎり滑り込みとなりました。
 秩父市の図書館でまず懸案となっていた明治初期の地方地誌である「秩父志」のコピーをゲットしたあと、何冊か目に付いた資料をざっと目を通し時間のあるときに再度来館することとして夕食へ。
 夕食を終えると時刻は既に6時30分近く。通常自宅までは距離にして65キロメートルなので通常は所要時間2時間20分ほど。真っ暗となった国道140号線をひた走り何時ものように花園城麓の寄居町末野の交差点から県道に入り鉢形城のど真ん中を抜けて国道254へと向いました。秩父方面も今回で6回目となり以前のようにルート確認のために途中で停車することもなく自宅へ直行。それほどスピードを出していたわけでもありませんが1時間50分で到着。やっとこのあたりの道筋も大体頭の中に入ってきたようです。



まいたけ大ざる 1530円  画像クリックで拡大
■舞茸天ざる大盛1530円也


■落ち着いた佇まいの店内

 最近では訪城中には通常昼食は摂らずに水分補給のみとし、訪城終了後に遅い昼食(早い夕食かも)を摂るというパターンが出来上がってきました。この日は、もともと夕食を予定していた蕎麦屋に行き見ての通りの山盛りの舞茸天ざるを腹いっぱい食べることに。
 久々に、お絞りつき、蕎麦茶つきの環境で食事を。平日の日没後のためか客は自分ひとりだけ。日没が大分遅くなってきたとはいえ2月の秩父盆地の冷え込みはまだまだ真冬。そんな中暖房がよく効いた店内で、ゆったりと「秩父志」のコピーなどを眺め疲れを癒しつつ、好物の蕎麦を味わうなどという贅沢なシチュエーションが完成。ガイドブックにも掲載されている「舞茸の天婦羅」は確かに評判どおりからっとしていて美味。自宅にも調理師はいるのだが...(内緒)

■お店の所在地■
埼玉県秩父市下影森810―1

撮影月日:2006年2月9日
撮影場所:秩父市「田中屋」

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ

・2006年2月3日    節分の夜のネコ騒動
           

 昨日の夜何時もの通りせっせとHPの更新作業を行っていると、あらぬ方角からどうも聞きなれたネコの鳴声が聞こえたような。さて、本日仕事を終え自宅に戻ると、娘の飼い猫の「いちごみるく」が昨晩からお隣の2回の屋根に上ったきり下りられずに鳴いているとのこと。そうか道理でどこか聞き覚えのある鳴声だったということで真相判明。
 ネコ好きの次男が長いダンボールの空箱を差し出して呼び寄せようとしたものの、少し長さが足りないことと人見知りの激しい性質のネコなので近寄ろうとはしなかったとのこと。このままでは厳冬期の屋根の上で飲まず食わずの2日目は流石に命にかかわることは必定かと。
 やむを得ず近くのホームセンターで長さ3.6メートルの板材を購入し自宅の2階のベランダから救出を試行。しかしいくら板を差し伸べても、却って怖がってしまい近寄ろうともせず。肝心の飼い主である娘はバイトに出かけているため呼び寄せることも不能。親猫のポミと兄弟の「あんみつ」をベランダに出して呼びかけさせたものの、鳴き合うだけで架設の橋を渡ってくる気配は毛頭なし。今晩は極寒の強風が吹きまくっているので何時までもベランダにはいられず、仕方なくベランダの手摺にしっかりと荷造り用のテープなどで固定して娘の帰宅を待つことに。
 娘が帰ってくると、珍しく(^o^)という表情をして礼を言う。はて、どうしたのかと訪ねると当事者はどうやら架設の橋を渡って地面まで下りてきた模様。さて、そのあと「いちごみるく」はというと、娘の話によればパッ缶の餌を貪り食っている最中に母ネコのポミに再三頭突きを食らっていたとのこと。もっとも昼間は母ネコのポミは娘と一緒に能天気に昼寝をしていて、気のいい「あんみつ」が一人でウロウロと心配そうにベランダから呼びかけていたらしい。



騒ぎの張本人 生後2ヶ月半
■騒ぎの張本人 生後2ヵ月半

 「...すまん」(「いちごみるく」談)

 考えてみるとこのネコは同様のことが今までに2回ほど。一回目は生後1ヶ月くらいの時屋根から落ちて縁の下にもぐりこんだ事件。二回目は生後3ヶ月ぐらいの時に車庫の屋根から地面に下りたものの2階に戻れず庭で一泊。とにかく世話の焼けるネコです。

撮影月日:2005年6月4日
撮影場所:埼玉の自宅にて

PAGEの先頭へ PAGEの最後へ
menu
トップ頁ヘ HP趣旨 訪城覚書 HP日記 参考資料 リンク集
日記の目次 工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想 工事中