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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/12/29の日記 諏訪城 鉢形城 宮崎城 寺尾城(川越市)
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態5 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合26
所在地
埼玉県秩父市寺尾3168ほか
歴史と沿革

不詳の遺構
 地元に伝わる伝承も存在しないとされていますが、僅かに大野満穂(1814-1892)が幕末から明治初期に著した「秩父志」によると、寺尾村の永田城の記述の後に、「鉢形城家士の内に寺尾彦三郎なる者あり、此地つづき一町ばかり(約100m)北に寺尾明神の祠を有せり」とのみ記されています。なお、「角川日本地名大辞典11埼玉県」の寺尾村の項には鎌倉時代の寺尾三郎太郎の館跡(寺尾三郎太郎館)が存在するという解説が掲載されていますがその所在地については不明の模様です。
 一方、「増補秩父風土記」では寺尾村の項に「寺尾城 永田長七郎居跡」と記された個所がありますが、その記述がこの寺尾城を指すものかすぐ南方の永田城を指すものなのか判断に迷いますが、恐らくは「永田氏」の名称があることから永田城のことを記しているものと考えられます。

諏訪氏と寺尾の地名の関連
 なお、 「新編武蔵風土記稿」の入間郡寺尾村の項には、後北条家家臣の諏訪右馬亮の居城として寺尾城の記述があります。、この諏訪氏は信州の名族諏訪氏の傍流で、横浜市鶴見区の寺尾城を本拠とし後北条氏5代に仕えたとされています。「小田原衆所領役帳」には諏訪三河守が久良城郡寺尾を二百貫文で知行していたとされています。 諏訪氏の関係する土地が何故か寺尾と呼ばれることの不可思議さについては「新編武蔵風土記稿」でも記述されており、当地の寺尾城の荒川北東の対岸には諏訪氏の諏訪城が所在し確かに奇妙な一致を示しています。

確認できる遺構
土塁、小口
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■宮崎城の南西荒川左岸の台地状に所在する幅10m奥行き30m程の合流点を利用してつくられた城郭で、南西部分を堀切と土塁により区画して中央に小口を置いています。ここも北西側の小さな渓谷が15mから20mと驚くほど深い谷を形成し南東側の荒川にいたっては40m前後の断崖を形成して天然の要害となっています。また北西側は中央部分が侵食により崩落していて幅の狭い部分では10m足らずしかありませんし奥行きも30m前後という規模です。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)-増補秩父風土記を所収-   

文化財指定
訪城年月日
2005/12/29、2006/01/07
訪城の記録

( 2005/12/29 )
みんな城跡に見えてきた...
 民家の裏側の台地の先端に位置していることと、台地との区切りである堀切と土塁が祠の塚と一体となっていることなどもあり、その存在が確認されたのは近年のこととされています。
 郭内には「寺尾の明神様」が祀られた祠が所在しています。また、この荒川の両岸一帯は寺尾城や諏訪城、宮崎城と同様に荒川と小河川の合流点に突き出た形態の地形があちこちに見受けられるます。そんなに簡単に新しい城館跡が発見できるわけはないとは知りつつも、それらしい雰囲気のある個所も幾つか、念のために回ってみましたが勿論収穫があろうはずもなく...至極当然の結果でした。
 この寺尾城の役割としては戦国時代の「村の城」あるいは「小規模な土豪の砦」、武田氏と後北条氏の秩父郡支配をめぐる抗争時の「秩父往還を監視する物見台」といった役割が想定されるのですが。

( 2006/01/07 )
コンパスが...
 荒川の川原で寺尾城の位置を確認するためコンパスを取り出したところ川原の砂鉄の関係か、自分の静電気の関係か磁針が役に立たなくなりました。そういえば大河原城と時も90度ほどずれていたこともあったのを思い出し、半年ほど愛用していた100円のコンパスの寿命が尽きたようです。このため写真を撮影したのが多分寺尾城のように思うのですが...ということになりました。
 なお予備のコンパスも100円のものなので、後日アウトドアの専門店で2079円のスウェーデン製のコンパスを購入しました。

記念撮影

 厳冬期の渇水のため推量は少ないものの流れは思ったよりも早く、水温は確実に10度を切っていると思われるような正に身を切るような冷たさでした。付近に比較するようなちょうど良い高さの対象物がないので、崖の上から見下ろすのと違って下から見上げるそれほどの高さに感じませんが、正面の寺尾城と思われる崖は川原からは40m前後の比高差があるようです。 画像クリックで拡大

( 2006/01/07 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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■1■小口と土塁 画像クリックで拡大
 この地域の城館跡の特徴と土塁と小口に関する一定の予備知識がないとなかなか気づきにくい現況で、特に自分などであれば完全に見過ごしてしまいそうな遺構です。写真撮影が完全な逆光となっているため、むしろ辛うじて土塁と小口部分が判別できるのではないかと。土塁の外側には空堀が遺されているとのことですが、そういえば窪みがあったようなないようなという印象でした。
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■2■北西部のV字谷と台地の崩落部分 画像クリックで拡大
 北西部の渓谷は河川自体としては延長100mほどのほんの小さなものに過ぎないのですが、浸食作用のため典型的なV字谷を形成しその深さも15mから20mの高さを数えます。
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■3■寺尾の明神様 画像クリックで拡大
 「秩父志」にも記されている地域の氏子の皆さんにより祀られてきた明神様の小さな堂宇が台地の中ほどに所在していました。
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■4■攻め手を寄付けない岩壁 - たぶん寺尾城 画像クリックで拡大
 武田氏が秩父方面を攻略していた頃は当然現在のようなダムもなく、冬場の渇水期ではないので水量も多く川幅も広く渡河自体も相当に難渋したものと思われます。3連休初日のこの日は晴天とはいえ気温5度前後の川原でバーベキューをする人間はさすがに存在しないようです。本当に人出は少なく、あくまでも見渡せる範囲でいうと釣りをする人数名、犬の散歩をさせる人2名、バードウォッチングと思われる人1名、ぶつぶつと独り言を呟きながら怪しげに断崖の写真を撮影する人1名(自分)でした。(以上、2006/01/07撮影)
交通案内

・県道72号線東側の荒川左岸で秩父札所の21番観音堂と22番童子堂のほぼ中間地点。
いつもガイド の案内図です 地図 

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