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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/03/08の日記 女部田城 塩沢城 要害山 鷹谷砦 寺山砦 竜ヶ谷城
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態8 探し易さ5 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯3 印象5 総合33
所在地
埼玉県小鹿野町大字飯田字城山2236ほか(飯田・藤倉・日尾の各地区に跨る)
歴史と沿革

北条氏邦の重臣諏訪部氏の居城
 「新編武蔵風土記稿」などによれば日尾城は北条氏邦重臣の諏訪部遠江守定勝が居城したといわれ、矢久峠・土坂峠方面から秩父地方に進入する武田勢に対抗する役割を担っていたと考えられています。諏訪部遠江守は「鉢形北条家臣分限録」によれば5千貫を知行され家老職をつとめたと記されています。なお、この分限録については江戸時代になってから編纂されたもので、「知行地が記されていない」「合計貫高が11万4千貫を超える」などの問題もあるために、あまり信頼できる資料としては評価されてはいないようです。また、旧両神村薄地区に所在する法養寺薬師堂の十二神将像の胎内には「天正13年乙酉10月24日日尾城主旦那諏訪部遠江守」との記名が残されています。一方、永禄年間のはじめ頃のものと推定される太田新六郎宛の北条氏政の書状には、秩父郡日尾之城が南図書助により攻略された旨が記されています。(「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」文書番号1645) 
 「秩父風土記」の日尾村の項には「日尾城 諏訪部遠江守 永禄13午2月28日 甲州武田家乱入して相戦、遠江守客入来有酒に熟酔して寝入ばなに起きても足立がたく本性つかず、奥方出て軍配をとり甲州の先陣山形三郎兵衛打負けて三山さして引退、...」という真偽のほどを判断しかねるエピソードが記されています。また三山村の項には、「...永禄13年午年の軍訪城氏邦候の方にては諏訪部遠江守、出浦式部、久長但馬守、井上三河守、三山五郎兵衛、嶋村近江守、日野二郎三郎、蒔田彦五郎、猪俣能登守、三千人出浦式部抜馳にて甲州勢敗北、然れども軍例を背候に付北条家追放薄村に居住す、斉藤新左衛門討死す、合戦の地今に軍平という信玄落行し所を法師落という」と記されています。
 この二つの記述が具代的にどういう繋がりを有するのかは不明ですが、これとは別に、永禄12年7月の三山谷における武田勢との合戦において、北条氏邦が発給した在地武士の山口總五郎、出浦左馬助、多比良将監、斉藤右衛門尉五郎、朝見伊勢守らに宛てた感状などが伝えられています。 

確認できる遺構
郭、腰郭、物見台、土塁、堀切
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■4段の階段状の小郭から構成される主郭を南北から挟み込むような形で、北側に八幡郭が南側に出郭と物見台が所在するという構造で、その収容可能な兵力は建物の建築可能な主郭部分を中心にして最大でもおよそ200人程度が籠城できるかどうか思われるくらいの広さです。現在の登攀ルートは牛首峠の南北の谷筋からのルートと観音山からのルート、それに北麓に所在する「倉尾ふるさと館」からのルートが存在しますが、どのルートにせよ急峻な岸壁に囲まれた天然の要害であることに違いはありません。
 幕末から明治期にかけて編纂された大野満穂(1814-1892)の「秩父志」には、現在の状況と殆ど変わらない詳細な絵図が各郭の名称とともに記されています。原本は秩父市の指定文化財となっていますが、原本をコピーしたものは秩父市立図書館にて請求すれば閲覧が可能とのことです。なお、「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)では、「東西に小規模な郭が並ぶ...」との説明がなされていますが、これは残念ながら縄張りの特徴を正しく表現している記述であるとは思われません。

文化財指定
小鹿野町指定史跡 1962年9月20日 、 埼玉県選定重要遺跡 1976年10月1日 指定
訪城年月日
2006/03/08
訪城の記録

( 2006/03/08 )
まさに要害堅固
 結果的には4か所の山城の中でもっとも見所が多く、しかも道がとても分かりやすい訪城でした。彩の国国体の時の標識などが随所に残されているし、登山道もしっかりと整備されているし...したがって転んだのは1回のみでした。ただし、登口に行き着くまでにこともあろうに、道路を間違えて土坂峠方面へ向ったりしていたので、ざっと1時間近くのタイムロスとなりました。
 さて城跡へは麓の集落から牛首沢沿いの程よく整備された山道を登っていきます。あちこちに砂岩と思われる巨大な岩壁が点在するダイナミックな光景を見ながらどんどん高度を上げていくと30分ほどで、地殻変動の断層後といわれている大きな岩の割目が特徴の牛首峠に到着します。どこの山城もこのくらい道が整備されていると楽なのですが。したがって麓からの比高差が210メートルほどあるにも拘らず、体力的にも余り負担にはなりませんし、峠の稜線部分の位置が見当をつけられるので心理的にもプレッシャーがありません。
 肝心の城跡は4段の建物が所在してもよいよいな平坦地と出郭、八幡曲輪、物見台と幾つかの腰郭などから構成されています。又遺構の所在する周辺は西側の牛首峠の所在する痩せ尾根と東側の観音山の側を除いて切り立った岩壁に囲まれた正に要害の地です。
 さて、城跡からの下り道もうすぐ麓にさしかかろうとしたとき、何故か突然「北国の春」(イントロ-ONEコーラス-間奏)の曲が流れたので、よくある役場の「防災無線 夕方のお知らせ」かと思っていたところ、実は生活用品販売の1.5トンほどの移動巡回車なのでありました。横目で積載している商品を見ると漬物、菓子、飲み物、調味料、洗剤、雑貨に至るまで少量多品種な商品を積載していました。余り珍しいので少しはなれたところから記念撮影させてもらいました。
 以前にはこのあたりだけでも30戸ほどの集落ですので商店が所在したものと思われます。おそらくは過疎化や後継者難を含む経営上の問題があって廃業するに至ったのでしょうか。居住されている方の平均年齢も高いようで集まってきたお客さん数名も70歳台前後。「北国」ではないにしても、山間の集落にはぴったりの音楽と移動販売車なのでありました。

記念撮影
日尾城 手前の建物付近が根古屋地区

 「倉尾ふるさと館」の建物が山麓に所在する日尾城 ( 右側の山 ) の夕景で、吉田川上流のこのあたりの開けた谷がちょうど根古屋地区に相当するようです。
 午後4時15分頃に撮影したので北側の山麓ということもあり大分薄暗くなっていましたが、たいへん落ち着きのある佇まいを見せていました。根古屋地区からの比高差はおよそ230mほどです。なお、「秩父・合角ダム水没地域調査概報」によれば、この建物の上方に小口郭の跡が遺されているとの記述がありました。

( 2006/03/08 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■合角ダム
 合角ダムの堰堤の上から日尾城方面が望めるかなと思ってダムのの東側の方まで歩いてみました。しかし、写真左側に所在する標高698mの観音山のその特徴のある岩尾根を望むことができるものの、肝心の日尾城は手前の尾根筋の影になってしまい殆ど眺望することができませんでした。
 また日尾城の山上からも上吉田の中心である塚越地区方面を望むことはできないようです。したがって、女部田城の土坂峠からの往還を監視するというその役割がより明確となります。
■2■吉田川の上流に架かる橋の上から
 右側のやや標高の低い山が標高567mの日尾城。左側の高い山は観音山で右奥に少し霞んで見える山は鷹谷砦からみえた赤平川沿いの標高998mま白石山(毘沙門山)から東へ続く標高700mを超える岩尾根の迷路と難路が続く尾根筋。したがって、赤平川の三山地区から山越えで攻め寄せることはなかなか難しそうですので、あくまでも北側の土坂峠方面の防衛拠点であるという印象がします。
■3■殿谷戸の集落へ
 日尾城には群馬県境の矢久峠へと向かう県道282号線と別れて、倉尾デイサービスセンターのあるバス停の所から吉田川に架かる橋を渡って30戸程の殿谷戸の集落に向います。左側の標識には「カタクリの里、牛首峠」と書かれています。
■4■日尾城への標識
 「山野草の里・カタクリの自生地」「牛首峠・日尾城」と記されたこの牛首沢沿いの細い道を南東の方角へむかって上っていきます。
■5■よく整備されたルート
 城跡へは麓の集落から牛首沢沿いの程よく整備された山道を登っていきます。一昨年に開催された「彩の国国体」の登山道となっていたようで、全体としてルートが大変良く整備されていますのでまず間違えようがない登り道だと思いました。
■6■巨岩
 さて、あちこちに砂岩と思われる巨大な岩壁が点在するダイナミックな光景を見ながらどんどん高度を上げていくと30分ほどで、地殻変動の断層後といわれている大きな岩の割目が特徴の牛首峠に到着します。どこの山城もこのくらい道が整備されていると楽なのですが。この砂岩質の巨岩の脇を左側から回りこんでルートは次第に高度を上げていきます
■7■両側から迫る巨岩
 地元の倉尾中学の生徒が設置した自然保護の立て札が各所に配置され色々と工夫がなされていて飽きません。
■8■牛首峠から西へのびる岩尾根
 念のため耐加重800sの60mのロープとヘルメットは持参したものの、両膝に疾患を抱えている身では自重するのが妥当なようです。この光景はロッククライミングあるいはフリークライミングの世界ですので、ため息をついて眺めただけでこの岩尾根を踏破してまで200mほど西側に所在する出郭を探しに行こうという気持ちには全くなりませんでした。
■9■モアイ像?
 一瞥しただけでイースター島のモアイ像のイメージが浮かぶようなオブジェも存在している牛首峠直下の奇岩群。
■10■土坂峠方面
 城峰山と両神山の中間に所在する標高700mほどの、永禄12年から元亀年間に武田勢の秩父侵攻のルートとなった土坂峠方面の眺望はたいへん優れているようです。
 しかし、日尾城の山上からもこの牛首峠からも上吉田の中心である塚越地区方面を望むことはできないようです。このため、女部田城の土坂峠からの往還を監視するというその役割がより明確となります。このため現在でも国土地理院の2万5千分の1の地形図に一部記されているように、当時は女部田城から観音山を経て直接日尾城へと向う山道が存在したものと思われます。
 
■11■牛首峠の断層
 田戦争を下方から見上げた構図です。日尾城は麓からの比高差が220メートルほどあるにも拘らず、道がたいへんしっかりしているので体力的にも余り負担にはなりません。また峠の稜線部分の位置が概ね見当をつけられるので心理的にもプレッシャーがありません。やはり道のしっかりしている山城はだいぶ気が楽なようです。
■12■牛首峠の階段
 この階段を登り左手の岩の上から日尾城へと進んでいきます。太古の地殻変動による断層とはいえ、垂直な5mほどの岩壁なので人工的な堀切以上の要害となっています。
■13■牛首峠岩壁の上部
 写真「12」の左側の岩塊上部の様子で長さはおよそ10mほどありましたが先端部分の幅は2mもないような狭さです。この上に陣取って攻撃されたら全く防御のしようがない鉄壁の防御ラインです。
■14■小口?
 狭い尾根筋を少し上っていくと転落防止の柵が左側に設置され、道が右に折れるとこの坂小口状の個所に到達します。
■15■石積みではなく炭焼き窯
 更に幾分平坦な山道を進むと、こ炭焼き窯の跡に到達します。左手前の上方の尾根筋には樹木のために隠れて見えませんが、3段の腰郭がこのルートを見下ろしています。正面の左奥が主郭方向で、右手前方にも腰郭のような整形地が確認できます。
■16■出郭
 主郭との比高差は最大で20mほどもあり、北側の八幡郭と共に南側から主郭を挟み込むような位置に所在します。
■17■出郭の先端部分
 出郭の規模は幅約10m、長さやく45mほどの長方形で概ね平坦な地形をしています。また、この数メートルほど下方に直径6mほどの半円形の腰郭が所在しています。
■18■物見台から眺めた根古屋方面の様子
 樹木が多いの現状ではそれほどの絶景とはなりませんが麓の根古屋方面だけは見下ろせます。しかし、元々合角ダム方面も手前の山があって見えませんし、東側は観音山のために全く眺望が利きません。また南側には150mほど標高の高い尾根筋が続いているので、そちらの方も見通しはそれほどにはよくありません。
■19■物見台の土塁
 手前の出郭へと続く腰郭部分からの比高は3、4mほどの高さのある壁を形成しています。
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■20■主郭部分 画像クリックで拡大
 4段ほどの小郭から構成される主郭部分で、よく見てみると上段にすすむほど郭の幅が広がっていきます。およその大きさは下方から、@幅10m×長さ20m、A幅12m×長さ100m、B幅15m×長さ4m、C幅20m×長さ16mという規模で各郭の比高差は約1.5mほどでした。3段目を除いてそれぞれに小屋掛けされていてもよいような環境です。
■21■南側から見上げた八幡郭
 主郭最上部の通路部分からでも4mほどの比高差を有しますので、主郭の所在する辺りは西方を除いて三方が高い壁に囲まれているような構造となっています。この八幡郭の右手の方から「倉尾ふるさと館」の谷筋に向かって下るルートもありました。
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■22■八幡郭の土塁 画像クリックで拡大
 北側部分に物見台のような高さ2m、長さ15mほどの細長い土塁が築かれています。この先に堀切があるのですが、岩のルートがよく分からず膝の具合もそろそろ限界に達していましたので今回はパスしてしまいました。
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■23■八幡郭 画像クリックで拡大
 広さは平坦部分で幅約8m、長さ約20mほどで西側の先端がやや飛び出しており、また樹木のためにやや分かりにくくなっていますが、その下方に三段の腰郭が形成されています。
■24■日尾城山八幡
 八幡郭の名称の元と思われる「」の石祠ですが、気のせいかも知れませんが全体的にやや向かって右側に傾いているように見えました。
■25■「北国の春」
 すぐ麓にさしかかろうとしたとき、何故か突然「北国の春」が流れました。よくある役場の「防災無線 夕方のお知らせ」かと思いきや、実は生活用品販売の1.5トンほどの移動巡回車なのでありました。横目で積載している商品を見ると漬物、菓子、飲み物、調味料、洗剤、雑貨に至るまで少量多品種な商品を積載していました。
 余り珍しいので、少しはなれたところから記念撮影させてもらいました。居住されている方の平均年齢も高いようで集まってきたお客さん数名も全員が70歳台。「北国」ではないにしても、山間の集落にはぴったりの音楽と移動販売車なのでありました。
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■26■幕末の絵図と寸分違わぬ光景が 画像クリックで拡大
 日尾村絵地図(天保7年加藤漢山筆/関口和夫家所蔵)にも村境の南端部分に「古城跡」として記されてますが、まさにこの光景とほぼ一致していましたので概ね同じような位置から描いたものと思われます。
交通案内

・牛首峠からのルートで上り50分、下り30分ほど。
・比高差は約220mありますが、ある程度整備されたハイキングコースなので道に迷うこともありません。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「小鹿野町の文化財」(1984/小鹿野町教育委員会)
「秩父・合角ダム水没地域調査概報」(1990/合角ダム水没地域総合調査会) 

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