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アクセスありがとうございます。 学術的な城館遺構ではなく主に「素人の思い込みと勘違い」によるものです。
関連ページへのリンク '06/11/25のブログ '06/12/01のブログ 五厘沼の遺構 羽尾堀の内 谷城 羽尾城 谷津城 城原城
所在地
埼玉県比企郡羽尾中組付近
遺構まがいの地形
溝、切岸?、平場?ほか
城館遺構の可能性
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

丘陵上の方形の溝跡ほか
 東側を除いて南北50m、東西100mに及ぶ丘陵の平坦地を囲むようにして「謎の溝跡」が現存。 西側は溝跡というよりは比高差80cmから1mほどの切り落としのような地形かと推測。 北側は篠竹の藪に阻まれて確認しづらいものの、幅1間、深さ80cm、延長50mほどの溝状地形に。南側は里道との区別が付きにくいものの北側とほぼ同様の地形という印象があります。
 なお、この南側の溝状の地形は「千躰地蔵堂」北側の尾根筋に到達する手前に所在する「小口状」の地形にほぼ隣接。こうしたことから、単なる「土地の境堀」「里道」「排水路」とも思えず、まして明確に人為的な区画であることが認められることから「自然の雨水の流路」でないことは確実。 勿論平坦地には複数の墓石が所在しているものの墓所の区画を示す溝にしては巨大すぎる次第にて。とはいうものの、時代背景や歴史的経緯が全く不明なので取敢えず「謎の溝跡ほか」ということに。 また、所在地を分かり易くするなどの便宜上から、「羽尾千躰地蔵裏山」と勝手に命名...由緒のある歴史的遺構ではこのような訳にはいかず(笑)

訪城年月日
2006/11/25、2006/12/01
訪城の記録 記念撮影

( 2006/11/25 )
謎の溝跡
 「西ノ谷沼」の南東側の丘陵が目標の場所で、東側には「山屋敷」との小字名も所在する地域。 とはいうものの、今回の個所は「五厘沼の遺構」「愛宕山」など比べて明らかに地形上の優位性が劣るような比高差の少ない、かつ斜面の傾斜の緩い場所。 東側に所在する県道47号線のバス停の名称が、このあたりの小字名から「山屋敷」との名称も。あくまでも念のための確認作業のようなもの..と気楽な調子で丘陵の緩斜面を進んでいくと、さにあらず。
 平坦な丘陵の北側にいきなり幅1間、深さ80cmほどの謎の「溝状の地形」が出現してしまった..(汗) よくよく調べてみると、西側と南側にも概ね同様の地形が所在。
尤も南側の部分は現在は里道のような印象も。 しかしこの三方の溝状の地形は完全に繋がっており、南北50m、東西100mほどの平坦な杉林を取巻くように配置されている由。
なお、登ってきた東側の部分にはこれといった人為的な地形の特徴は見出せず..と、いうよりも篠竹が密生していて判別できないと表現した方が正確かと。 また、西側の部分は溝というよりも切岸に近いような印象も。
 南側は傾斜もきつく比高差は20m近くあるものの、東側は現状では県道47号線に接していて比高差10m未満の緩斜面。 北側の地形は密生する篠竹の藪に進入を阻まれて地形の特徴を見出せず、西側は幾分高度を下げてザルガヤ戸沼南側の丘陵地帯にそのまま繋がっている様子です。
 しかし、全体としてよくよく冷静に考えれば、本来は山林の境界を示していたとも想定されるような「溝状地形」なのでありました。

千躰地蔵堂の裏山 
 一方千躰地蔵堂の直ぐ北側の裏山には火伏せの神である愛宕様らしき石造りの小祠が所在。 この祠の所在する人工的な平坦地は地蔵堂より6mほど高位に所在し、幅20m、奥行き10mの広さがあり、祠の規模に対して些か広すぎる観が...さらに左側の登り道を比高差にして4mほど登り東側に辿っていくと、丘陵上にまたもや「小口」にも見えなくも無いような地形が目の前に出現してしまったのであります。
 「多分に気のせい」だと無理やり納得して先に進んでいくと..今度は大穴に遭遇。 「小口」にしては道がなく、されとて伐根跡やゴミ穴にしては余りにも巨大な規模。 サツマ芋などの貯蔵のためのムロにしては所在地としては不便かと。 加えて、その南側の部分には土塁にも見えなくも無い高まりも。 なお、この地形は直ぐ東側に所在する「西ノ谷沼南東側の丘陵」の「謎の溝状地形」の個所と隣接しているので、余計に始末に悪いのでありました。 
 
 以上の2ヶ所とも市野川北岸に所在する丘陵の東端部に位置し、ちょっとしたピークも所在するしているので訪れてみたという場所にて。 勿論遺構などの存在を期待してというよりは、丘陵地帯を虱潰しに確認する作業のようなものでありましたが思いもよらぬ地形に遭遇し、嬉ししさと困惑が混ざり合って複雑な心境になった次第であります。

( 2006/12/01 )
東側の地形を重点的に確認
 先日以来最も拘泥している丘陵地形となってしまいました。 とりわけ東側の「緩斜面の存在」に疑問が。 この日はどうせ近くを通過することと時間に余裕もあるので、この際東側を重点的に探索することに。 南側の町道から眺めると、東側には小さな谷津が所在することは以前より承知しているものの、何処からアプローチすべきかが判然とせず保留されていた案件でありました。
 さて南側から集落の間の坂道を登り、先日訪れた東側からの里道から篠竹の藪を潜り抜けると、一段下方に畑のような平坦地が出現。 その平坦地の東側には小さいながらも水の流れる谷川を確認。 谷津は県道47号線の北東側にもほぼ同規模のものが所在。
このことから東側の緩斜面は、元々はこれらの谷津により地形的に分離されていたことが判明。
 はるか後世に建設された県道の存在のために、危うく本来の地形上の特徴を見失う所にて。 かくして、本来的には独立した丘陵であるという認識を新たにし、「謎の溝跡」を始めとする一連の人工的な地形の存在は愈々もって「何時のころの、誰の手による何のための地形」なのか「悩ましい存在」となっていくのでありました。

クリックで拡大します
羽尾千躰地蔵堂の裏山(西側部分)
( 2006/12/01 撮影 )
訪城アルバム
ありふれた里道
■1■ごく普通の里道のはず
 東側に所在する県道47号線のバス停の名称が、このあたりの小字名から「山屋敷」との名称も。あくまでも念のための確認作業のようなものに過ぎないのである...と気楽な調子で丘陵の緩斜面を進んでいったのであります。       (2006/11/25 撮影 以下同様)
東側の溝跡のような地形
■2■しかし何やら様子が...
 北側は西ノ谷沼の所在する谷津に続く篠竹の藪ですが、平坦な丘陵地帯のこの北側の里道に、いきなり幅1間、深さ80cmほどの謎の「溝状の地形」が出現してしまったのであります..(汗) このあとよくよく調べてみると、西側と南側にも概ね同様の地形が所在。 尤も南側の部分はあくまでも現役の里道のような印象も濃厚。
「南側の里道」 画像クリックで拡大します
■3■南側の溝跡状地形  画像クリックで拡大
 この三方の溝状の地形は完全に繋がっており、南北50m、東西100mほどの平坦な杉林を取巻くように配置されている由にて。
 なお、登ってきた東側の部分にはこれといった人為的な地形の特徴は見出せず..と、いうよりも篠竹が密生していて判別できないと表現した方が正確かと
思われます。 しかし、全体としてよくよく冷静に考えれば、本来は山林の境界を示していたとも想定されるような「溝状地形」なのでありました。
画像クリックで拡大します
■4■南側の集落が眼下に 画像クリックで拡大
 杉の植林の間からは南側の市野川方面の様子が一望できるという意外なほどの比高差が存在。
「西側の切岸状の溝跡」 画像クリックで拡大します
■5■西側の地形
 こちらの西側の地形の場合には溝跡というよりも、寧ろ緩斜面の下方に向う「切り落とし?」に近いような印象が。 ただし比高差は現状で80cmから1mほどの規模にて自然地形の可能性もあるやも知れず。
 南北方向の長さはおよそ50mで北辺と南辺の溝跡状の地形に直角に繋がっていました。 つまりは東側を除く三方が溝状の地形に囲まれているという次第。
東側部分の南からの遠望 クリックで部分拡大
■6■南側の集落からの風景 画像クリックで拡大
 「謎の溝跡」の刻まれた丘陵地帯南側の町道からの遠景で、その比高差は目測によると最大でおよそ20mほどかと推定されます。
こちら側から見ても杉の植林部分の地形がなにやら意味ありげにも見えなくもなさそうな気配が伝わってきます。
■7■千躰地蔵堂
 子育てにご利益のあるとされる「千躰地蔵堂」は、丘陵南側の麓近くに晩秋の暖かな日差しを浴びてのどかな農村風景に溶け込んでおりました。 思わず「♪♪ぼうや〜良い子だ、ねんねしな〜」とのメロディーが脳裏に浮かぶような光景にて。
■8■2体の千躰地蔵
 この羽尾中組地区に所在する現在の堂宇は、現地の石碑の碑文によると1984年に再建されたと刻まれておりました。 資料によれば、地元では「センテー様」「子育て千躰地蔵」とも呼称されているとのこと。 当人の子育ては既に終了しつつあるもので、ささやかな浄財と共に「世界中の子供たちが健やかに育ちますように」と祈願。 財政事情逼迫の折、願いの大きさの割には、余りに浄財が乏しく..(汗)
■9■千躰地蔵堂裏手の丘陵中腹に所在する稲荷の石祠
 地蔵堂の直ぐ北側には火伏せの神である愛宕様らしき石造りの小祠が所在。 この祠の所在する人工的な平坦地は地蔵堂より6mほど高位に所在しており、幅20m、奥行き10mの広さがあり祠の規模に対して些か広すぎる観が...万が一「腰郭」だったら、どうしようなどとの病的な憶測がぼちぼち頭をもたげ始めて(笑)
一見「小口」に見えてしまう地形 画像クリックで拡大します
■10■一見すると「小口」状の地形 画像クリックで拡大
 「9」の場所からさらに比高差にして4mほど登り、これを東側に辿っていくと、またもや「小口」にも見えなくも無いような地形が目の前に出現してしまったのであります(笑) 冷静に考えれば雨水の流れや長年にわたる使用により生じた里道の窪みなのでありましょうが、右側で約2m左側で1.5mの高さがありました。 なお、この里道を東へ50mほど辿ると「1」から「5」の南側の溝状地形に接続しています。
 
「謎の大穴」 画像クリックで拡大します
■11■謎の大穴 画像クリックで拡大
 「10」の地形の北側部分には、更にこのような大穴が所在。 「小口」にしては道がなく、されとて伐根跡やゴミ穴にしては余りにも巨大な規模。 サツマ芋などの貯蔵のためのムロにしては所在地としては不便かと。 現状でも深さ2m、20uほどのL字型という、危うく「枡型..]を連想しそうな地形にて(笑)
 加えて、その南側の部分には土塁にも見えなくも無い数十センチほどの高まりも..
威厳のある「庚申塔」 画像クリックで拡大します
■12■丘陵東端に所在する庚申塔 画像クリックで拡大
 享保19年と刻まれた江戸時代中期の造立。 意志の強さを感じる「への字」に結んだ口元、三匹の「見ざる、言わざる、聞かざる」の彫り込み苔の生え具合も含めてとても印象的で味わい深い石像でした。
 昼間でも余り人気の無い民家裏手の農道脇に所在しているので、夜中に懐中電灯の薄明かりで遭遇すると心臓に悪そうなくらいの威厳を辺りに漂わせていました。 「庚申信仰」は、元来は道教の教義により平安の貴族たちによって行われていた干支でいう正月庚申の日の行事。 「庚申の日の夜になると日頃人の腹の中にいる三戸(さんし)が、天帝にその悪事を告げに行く。 このためにその人が早死にをするので、長生きをしたいならば徹宵せよ。」との教え。 その後、日待ち、月待ちの習俗と結びつき、近世には「庚申講」として全国的に流行したとされています。 密教の流れを汲む複数の腕をもつ鬼神青面金剛(しょうめん-こんごう)が本尊とされ、足元の「3匹のサル」や「頭上の月と日輪」などがその特徴。        (2006/12/01 撮影)
■13■東側は思いのほか急斜面の谷津
 南側から周囲の地形に気を配りながら集落の間の細い坂道を登り、途中上記の庚申塔の個所を通り過ぎて、先日訪れた東側からの緩い上り坂の里道へと到達。 そこから無理やり篠竹の藪を潜り抜けると、一段下方に畑のような平坦地が出現。 竹に掴まりながら数メートルほどの比高差のある斜面を下って「14」の個所へ到着。 
                    (2006/12/01 撮影)
「東端の地形」 画像クリックで拡大します
■14■東側の谷津部分 画像クリックで拡大
 平坦地の東側にはこのように小さいながらも水の流れる谷川が存在することをを確認。 また谷津は県道47号線の北東側にもほぼ同規模のものが所在。 このことから東側の緩斜面は、元々はこれらの谷津により地形的に分離されていたということが判明致しました。
                    (2006/12/01 撮影)
交通案内

・県道47号線の西側の丘陵、バス停「山屋敷」から徒歩約10分
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 


凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史 通史編」(1984/滑川村編集発行)・「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村の沼とその民俗」(1981/滑川村村史編纂室) 

・2007/01/02 HPアップ

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