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■1■ごく普通の里道のはず
東側に所在する県道47号線のバス停の名称が、このあたりの小字名から「山屋敷」との名称も。あくまでも念のための確認作業のようなものに過ぎないのである...と気楽な調子で丘陵の緩斜面を進んでいったのであります。 (2006/11/25 撮影 以下同様)
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■2■しかし何やら様子が...
北側は西ノ谷沼の所在する谷津に続く篠竹の藪ですが、平坦な丘陵地帯のこの北側の里道に、いきなり幅1間、深さ80cmほどの謎の「溝状の地形」が出現してしまったのであります..(汗) このあとよくよく調べてみると、西側と南側にも概ね同様の地形が所在。 尤も南側の部分はあくまでも現役の里道のような印象も濃厚。
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■3■南側の溝跡状地形 画像クリックで拡大
この三方の溝状の地形は完全に繋がっており、南北50m、東西100mほどの平坦な杉林を取巻くように配置されている由にて。
なお、登ってきた東側の部分にはこれといった人為的な地形の特徴は見出せず..と、いうよりも篠竹が密生していて判別できないと表現した方が正確かと思われます。 しかし、全体としてよくよく冷静に考えれば、本来は山林の境界を示していたとも想定されるような「溝状地形」なのでありました。
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■4■南側の集落が眼下に 画像クリックで拡大
杉の植林の間からは南側の市野川方面の様子が一望できるという意外なほどの比高差が存在。
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■5■西側の地形
こちらの西側の地形の場合には溝跡というよりも、寧ろ緩斜面の下方に向う「切り落とし?」に近いような印象が。 ただし比高差は現状で80cmから1mほどの規模にて自然地形の可能性もあるやも知れず。
南北方向の長さはおよそ50mで北辺と南辺の溝跡状の地形に直角に繋がっていました。 つまりは東側を除く三方が溝状の地形に囲まれているという次第。
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■6■南側の集落からの風景 画像クリックで拡大
「謎の溝跡」の刻まれた丘陵地帯南側の町道からの遠景で、その比高差は目測によると最大でおよそ20mほどかと推定されます。
こちら側から見ても杉の植林部分の地形がなにやら意味ありげにも見えなくもなさそうな気配が伝わってきます。
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■7■千躰地蔵堂
子育てにご利益のあるとされる「千躰地蔵堂」は、丘陵南側の麓近くに晩秋の暖かな日差しを浴びてのどかな農村風景に溶け込んでおりました。 思わず「♪♪ぼうや〜良い子だ、ねんねしな〜」とのメロディーが脳裏に浮かぶような光景にて。
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■8■2体の千躰地蔵
この羽尾中組地区に所在する現在の堂宇は、現地の石碑の碑文によると1984年に再建されたと刻まれておりました。 資料によれば、地元では「センテー様」「子育て千躰地蔵」とも呼称されているとのこと。 当人の子育ては既に終了しつつあるもので、ささやかな浄財と共に「世界中の子供たちが健やかに育ちますように」と祈願。 財政事情逼迫の折、願いの大きさの割には、余りに浄財が乏しく..(汗)
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■9■千躰地蔵堂裏手の丘陵中腹に所在する稲荷の石祠
地蔵堂の直ぐ北側には火伏せの神である愛宕様らしき石造りの小祠が所在。 この祠の所在する人工的な平坦地は地蔵堂より6mほど高位に所在しており、幅20m、奥行き10mの広さがあり祠の規模に対して些か広すぎる観が...万が一「腰郭」だったら、どうしようなどとの病的な憶測がぼちぼち頭をもたげ始めて(笑)
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■10■一見すると「小口」状の地形 画像クリックで拡大
「9」の場所からさらに比高差にして4mほど登り、これを東側に辿っていくと、またもや「小口」にも見えなくも無いような地形が目の前に出現してしまったのであります(笑) 冷静に考えれば雨水の流れや長年にわたる使用により生じた里道の窪みなのでありましょうが、右側で約2m左側で1.5mの高さがありました。 なお、この里道を東へ50mほど辿ると「1」から「5」の南側の溝状地形に接続しています。
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■11■謎の大穴 画像クリックで拡大
「10」の地形の北側部分には、更にこのような大穴が所在。 「小口」にしては道がなく、されとて伐根跡やゴミ穴にしては余りにも巨大な規模。 サツマ芋などの貯蔵のためのムロにしては所在地としては不便かと。 現状でも深さ2m、20uほどのL字型という、危うく「枡型..]を連想しそうな地形にて(笑)
加えて、その南側の部分には土塁にも見えなくも無い数十センチほどの高まりも..
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■12■丘陵東端に所在する庚申塔 画像クリックで拡大
享保19年と刻まれた江戸時代中期の造立。 意志の強さを感じる「への字」に結んだ口元、三匹の「見ざる、言わざる、聞かざる」の彫り込み苔の生え具合も含めてとても印象的で味わい深い石像でした。
昼間でも余り人気の無い民家裏手の農道脇に所在しているので、夜中に懐中電灯の薄明かりで遭遇すると心臓に悪そうなくらいの威厳を辺りに漂わせていました。 「庚申信仰」は、元来は道教の教義により平安の貴族たちによって行われていた干支でいう正月庚申の日の行事。 「庚申の日の夜になると日頃人の腹の中にいる三戸(さんし)が、天帝にその悪事を告げに行く。 このためにその人が早死にをするので、長生きをしたいならば徹宵せよ。」との教え。 その後、日待ち、月待ちの習俗と結びつき、近世には「庚申講」として全国的に流行したとされています。 密教の流れを汲む複数の腕をもつ鬼神青面金剛(しょうめん-こんごう)が本尊とされ、足元の「3匹のサル」や「頭上の月と日輪」などがその特徴。 (2006/12/01 撮影)
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■13■東側は思いのほか急斜面の谷津
南側から周囲の地形に気を配りながら集落の間の細い坂道を登り、途中上記の庚申塔の個所を通り過ぎて、先日訪れた東側からの緩い上り坂の里道へと到達。 そこから無理やり篠竹の藪を潜り抜けると、一段下方に畑のような平坦地が出現。 竹に掴まりながら数メートルほどの比高差のある斜面を下って「14」の個所へ到着。
(2006/12/01 撮影)
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■14■東側の谷津部分 画像クリックで拡大
平坦地の東側にはこのように小さいながらも水の流れる谷川が存在することをを確認。 また谷津は県道47号線の北東側にもほぼ同規模のものが所在。 このことから東側の緩斜面は、元々はこれらの谷津により地形的に分離されていたということが判明致しました。
(2006/12/01 撮影)
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