城館跡の名称 | ||
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おすすめ評価 |
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埼玉県深谷市本住町ほか | |
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■名門上杉一族の城 山内上杉憲顕┳憲方...顕定...憲政=長尾景虎(上杉謙信) ┣@憲英━A憲光━B憲長━C憲信(憲長の弟)━D房憲━ E憲清━F憲賢━G憲盛━H氏憲 国史大辞典(吉川弘文館)より作成
■その後の深谷上杉氏 |
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堀跡 | |
周辺の地理的特徴 |
■下記の資料などによれば推定面積は南北600m、東西500mで約30ヘクタールにおよび、名称の通り利根川の支流の福川や唐沢川に周囲を囲まれた低湿地に築かれた平城で、主郭を中心として13もの曲輪が取巻く複雑な構造であったと推定され、数次にわたる発掘では複数の障子堀が確認されています。 |
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記録 |
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊) |
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無 | |
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2005/09/08、2005/09/15 |
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( 2005/09/08 ) |
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記念撮影 |
日本史や城郭についての知識が多少あれば、「そうか深谷城って、こうなっていたのだ」などと誤解するような方は余りいないとは思います。しかし、たしかに石垣と白壁漆喰風のコンクリート製の城壁は戦国時代の深谷城とは全く相容れない印象です。公園化するに当たり堀跡や土塁の再現では「城址」らしくないと判断された結果なのでしょうか ( 2005/09/08 撮影 晴れ ) |
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訪城アルバム |
■@唐沢川沿いの城跡の東側に相当する富士浅間神社は、天孫降臨神話に登場するニニギノミコトとその妻となったコノハナサクヤヒメノミコトを主祭神とし、永享12年(1440年)深谷上杉氏により勧請されその後江戸時代の初期寛永年間の前半に当時の深谷城主酒井讃岐守により再興されたと伝えられています。
■A富士浅間神社(旧名を智形神社)の境内の南側に遺されている水路とこれに続く東側の池跡は深谷城の当時の外堀の跡と推定されています。「深谷城外濠跡」として1958年11月3日に深谷市の指定史跡とされています。
■B深谷市立深谷小学校の西側の南北方向に地図上では僅かに200mほど遺されている排水路で、その位置からすると恐らくは深谷城西側の出枡状の曲輪部分の外堀に相当すると思われるのですが。
■C深谷市の教育委員会が作成した深谷城の推定縄張り図などによると、深谷市立図書館の建物の所在する辺りとその前の市道が部分が、どちらかといえば深谷城の主郭中心部分に相当するようです。この場所に来てから思い出しましたが、同様の建物を建設する関係などもあり、20年近く前にこの建物の視察に出張したことがありました。
■D深谷城の北側にある現在の水田の用水路で越中曲輪、あるいは北曲輪付近に相当すると思われますが、当時においてはこのような用水路がが遥かに大規模な形で城を囲む水堀を形成していたと云うことなのでしょう。
■E深谷城の西側の出枡状の曲輪の南端に所在するコンクリートの塀で囲まれた高さ約2m、南北20m・東西40mほどの長方形の墓地は深谷城当時の土塁跡と推定されています。
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