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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/09/08の日記  大沼弾正忠館 庁鼻和城 東方城 皿沼城 曲田城 人見氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態4 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯3 印象2 総合27
所在地
埼玉県深谷市本住町ほか
歴史と沿革

名門上杉一族の城
 深谷上杉氏は14世紀後半南北朝時代に、庁鼻和(こばなわ)に城を構えた上杉憲英(のりふさ)に始まるとされています。始祖である憲英は、上野国守護、蔵人大夫、奥州管領などに任ぜられ、河越氏や高坂氏を中心とする平一揆の討伐や上野国の南朝方新田一族の平定になど活躍したとされています。その後、管領上杉氏の一族として憲光、憲信と3代にわたりこの地を本拠地としましたが、折りしも享徳の乱の発生により康正2年(1456年)第4代の房憲の時に古河公方足利成氏との軍事的緊張関係から、庁鼻和の西側に位置し唐沢川により東側を遮断されたより防御性の高いこの深谷城を築城して移り住んだとされています。
 また、新編武蔵風土記稿」にはその際に一時的に築いたと伝えられている城が伊勢方仮城(上杉仮城)であるとの伝承が記されています。当時の状況から考えると、関東管領上杉氏と古河公方の争いのさなか管領方に属し古河公方足利成氏の勢力の圧力をまともに受ける地理的環境にありますので、小河川の福川などにより北側と西側が守られたさらに安全な西側地域への一時撤退を意味することになるのでしょうか。

深谷上杉氏の系譜
山内上杉憲顕憲方...顕定...憲政長尾景虎(上杉謙信)
          ┣@憲英━A憲光━B憲長━C憲信(憲長の弟)━D房憲
           E憲清━F憲賢━G憲盛━H氏憲
国史大辞典(吉川弘文館)より作成

その後の深谷上杉氏
 深谷上杉氏は天文21年(1552年)に関東管領上杉憲政が越後に逃亡したのち、後北条氏の軍門に降ります。 しかし、永禄4年(1561年)関東管領を承継した長尾景虎が関東に侵入したあたりから、当主上杉憲盛は同族の好で他の関東諸将らとともに後北条氏に一時敵対します。その後関東に対する謙信の影響力が低下すると、元亀4年(1573年)には再び後北条氏の傘下に戻り北条氏邦の城代として深谷城を引き続いて支配しました。その後、天正18年(1590年)に後北条氏が滅亡した際に小田原城に篭城していた当主上杉氏憲は浪人となり200年を超える深谷上杉氏の歴史は途絶えましたが、奇しくも9代氏憲の名は15世紀の始めに足利持氏と対立し滅亡した同族の祖先上杉禅秀(氏憲)と同名でした。
 なお深谷城はその後、徳川氏の支配下に置かれ松平氏、酒井氏と城主が変わりましたが、寛永元年(1624年)に酒井氏の忍城への移封により廃城となり、正保元年(1644年)に廃棄されたといわれています。
 深谷に関東管領の系譜につながる名門上杉氏の一族が存在したなどことは余り知られていないようです。山内上杉氏、扇谷上杉氏そして犬懸上杉氏、越後上杉氏あたりまでは知られていますが、深谷上杉氏(庁鼻和上杉氏)となるとローカルな存在となるようで、「日本史諸家系図人名事典」(講談社)では系図上に「上杉憲英」(のりひで)の記述はあるものの、深谷上杉氏についての記述はおろか、上杉憲英自身の記述もなく、いずれにしてもかなり謎に包まれている模様です。
 そうした背景には、深谷上杉氏が後北条氏の没落後に徳川氏に仕えることもなく、一地方領主としての地位さえも失ったことと、深谷上杉氏に関する古記録、伝世品の一切が文政2年(1820年)の国済寺本堂の火災により灰燼に帰していることなどがあるようです。

主家の滅亡後に栄えた秋元氏 
 また「深谷記」によれば、重臣の秋元越中守は深谷城の無血開城に貢献したといわれ、深谷上杉氏滅亡後、秋元長朝は徳川家に仕えて関ヶ原合戦時には上杉景勝の帰降に貢献するなどを評価され上野総社1万石の大名となりました。さらに秋元氏の子孫は異例の移封・加封を重ねて長朝から4代目・喬知7代目涼朝は老中に列するなど幕閣の要職をつとめるまでになり、他家との養子縁組もありましたが秋元氏の家名は最終的に上野館林で6万石の中堅大名として幕末まで続きました。

確認できる遺構
堀跡
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■下記の資料などによれば推定面積は南北600m、東西500mで約30ヘクタールにおよび、名称の通り利根川の支流の福川や唐沢川に周囲を囲まれた低湿地に築かれた平城で、主郭を中心として13もの曲輪が取巻く複雑な構造であったと推定され、数次にわたる発掘では複数の障子堀が確認されています。
 しかし、経済の高度成長期の市街地化や耕地の整理などによって、当時の面影はほとんど残されてはいません。城址公園の建設に当たり、一部分でも推定された土塁や堀跡の再現は困難であったのでしょうか。
 なお深谷城の周辺には、西に大沼弾正忠館、曲田城、北に皿沼城、東に庁鼻和城、東方城、南に人見氏館、秋元氏館などの支城や重臣の居館が取巻くように配置されています。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「第38回遺跡発掘調査報告会 発表要旨」(埼玉考古学会ほか)
「深谷市のHP」  

文化財指定
訪城年月日
2005/09/08、2005/09/15
訪城の記録

( 2005/09/08 )
深谷上杉氏の本城
 云わずと知れた深谷上杉氏の本城。戦国期の深谷上杉氏の歴史等を理解するに当たり、まず武士の館跡を含む周辺部分の支城などから着々と攻略していく予定でしたので、深谷市の城館でわざわざ最後にここだけ残しておいたという経緯があります。
 これぞ城攻めの正攻法ということでもないのですが、石垣と白塗りの城壁まがいの「復元」された史跡公園については確かに歴史的な経緯を無視したもので、いろいろな批判も多いようです。しかし、全く何もしないということに比べれば、史跡公園内の説明版には分かりやすい解説も示されていますので、一応それなりに評価してもよいのではないかとも思いますがやっぱりかなりの違和感も。
 社会通念としては、公共施設としての公園内は本来は誰でも一定のルールに従い自由に立ち入りできることになっています。けれども、日中の史跡公園の東屋はホームレスの昼寝場所と化していたという光景を目の当たりにしたりすると、こうした公共施設の現実的な管理運営の難しさを痛感します。出入りを制限したり管理を厳しくすると使い勝手は悪くなる一方で運営コストは上昇することになります。
 ところで障子堀の現地説明会には是非とも行きたかったのですが仕事の都合で断念し、発掘調査が完了したと思われる地点では城跡の北の方角に向って現在市道の工事が進行中でした。

( 2005/09/15 )
土塁跡の再確認とはいってみたものの...
 深谷城址で唯一遺されている土塁状の遺構を前回はその前を歩いているにも拘らず通り過ぎてしまったというドジを踏んだため熊谷への途中ということもあって再度立寄りました。
 現地が墓地となっていることについては前回も確認済みでしたが、まさかそこが本来は土塁状の遺構だったとは露知らず不勉強の報いがここでも露呈しました。墓地としての広さは南北20m・東西40mほどの長方形で、高さは周囲と比べて2mほど高くなっていますが、墓石全体を見渡してみて比較的最近のものが多いということは、ずっと後世になってから墓地として利用されたということなのでしょうか。

記念撮影

 日本史や城郭についての知識が多少あれば、「そうか深谷城って、こうなっていたのだ」などと誤解するような方は余りいないとは思います。しかし、たしかに石垣と白壁漆喰風のコンクリート製の城壁は戦国時代の深谷城とは全く相容れない印象です。公園化するに当たり堀跡や土塁の再現では「城址」らしくないと判断された結果なのでしょうか
 ( 2005/09/08 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■@唐沢川沿いの城跡の東側に相当する富士浅間神社は、天孫降臨神話に登場するニニギノミコトとその妻となったコノハナサクヤヒメノミコトを主祭神とし、永享12年(1440年)深谷上杉氏により勧請されその後江戸時代の初期寛永年間の前半に当時の深谷城主酒井讃岐守により再興されたと伝えられています。

■A富士浅間神社(旧名を智形神社)の境内の南側に遺されている水路とこれに続く東側の池跡は深谷城の当時の外堀の跡と推定されています。「深谷城外濠跡」として1958年11月3日に深谷市の指定史跡とされています。

■B深谷市立深谷小学校の西側の南北方向に地図上では僅かに200mほど遺されている排水路で、その位置からすると恐らくは深谷城西側の出枡状の曲輪部分の外堀に相当すると思われるのですが。

■C深谷市の教育委員会が作成した深谷城の推定縄張り図などによると、深谷市立図書館の建物の所在する辺りとその前の市道が部分が、どちらかといえば深谷城の主郭中心部分に相当するようです。この場所に来てから思い出しましたが、同様の建物を建設する関係などもあり、20年近く前にこの建物の視察に出張したことがありました。

■D深谷城の北側にある現在の水田の用水路で越中曲輪、あるいは北曲輪付近に相当すると思われますが、当時においてはこのような用水路がが遥かに大規模な形で城を囲む水堀を形成していたと云うことなのでしょう。

■E深谷城の西側の出枡状の曲輪の南端に所在するコンクリートの塀で囲まれた高さ約2m、南北20m・東西40mほどの長方形の墓地は深谷城当時の土塁跡と推定されています。
交通アクセス

・JR深谷駅より徒歩15分以内 MapFan Web の案内図です  

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