( 2006/03/08 )
凸登ろうとする意欲が...失せた
さて、時刻はもう夕刻に。日没時間が大分のびてきたとはいえ山間の地方はやはり太陽が隠れるのは早くもはや訪城する時間は残ってはいません。本来この比丘尼城は最初の日の一番目に訪城する予定でしたが、天候、ルートの難しさ、登頂の困難性などから考えて訪城の直前で後回しに。所謂課題の先送りという例のやつです。それでも、秩父地方の山城4ヶ所訪城完了後に、果たしてどんな様子なのか一応見るだけでもということで麓の集落まで車でアプローチ。直接見上げることのできる場所にて道路わきに車を停めてしげしげと様子を観察。
ところがどう見ても難路を伴う登頂に成功した女部田城の状況とはあまりにもかけ離れています。もしもの時には多少の怪我程度では済まないような地形で、少なくとも単独行は相当に危険な様子がありありと。最低でも山慣れた2名以上の人員で無いと、とても歯が立ちそうにありません。比高差が250mあるだけではなく、とにかく勾配が半端ではなく、道も屹立する崖を迂回するルート探しながら進むというアドベンチャーの世界のようです。このため、思わず麓の道路で城跡を見上げて一人でニタニタと笑ってしまいました。
夕暮れ時、ただの山の頂を見上げて一人で薄ら笑いをしている中年男...どう見ても怪しい人物の典型なので、本当に怪しまれないうちにそそくさと退散をした次第。
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根古屋を連想させる城跡の南西側に所在する半根古(はんねこ)と呼ばれる4軒ほどの集落から見上げた比丘尼城ですが殆ど取り付く島がないといった印象でした。
( 2006/03/08 撮影 晴れ )
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■1■山頂の周囲は屹立した岩壁
下記の資料などによれば山頂の周囲は屹立した断崖に囲まれていて南東の斜面の一部に僅かに登攀ルートをとることができるようです。複数の山慣れた同行者の存在、ロープや下山時の目印と詳細な地形図の携行などは必須かと。
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■2■
多少角度を変えてみた所で、その険しさに全く変わりはないようです。写真の左側に一見緩やかそうにのびている尾根筋も、地形図を見ると中腹には大きな岩場が隠されているようです。また、正面に見える南西の尾根筋も地形図によると平均斜度は40度前後で道はなく、山頂の80mほど直下で切り立った岩壁に阻まれてしまいます。
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■3■県道37号線から
県道37号線からもその特徴のある峻険な山容を望むことができますが、とても標高487メートルとは思えない険しさがこの場所からも伝わってきます。
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・梅沢氏の下記の著書などによれば、出入沢沿いの山道から岩壁を迂回しつつ90分ほどで急峻な山頂をめざすらしいのですが単独行は避けるべきかと。比高約250m。
・いつもガイド の案内図です
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町)
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