工事中
PAGEの先頭PAGEの最後管理人へmail工事中

アクセスありがとうございます。     素人の趣味ですので不備や間違いなどが相当にあると思います。     もしお気づきの点がございましたらご指摘ください。  
雉岡城(八幡山城)
関連ページのリンク  2005/05/07の日記  鉢形城  花園城  白井城  猪俣城   円良田城  用土城  金窪南城  
おすすめ評価
訪城季節5 遺構状態7 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合33
所在地
埼玉県児玉郡児玉町大字八幡山字城内410付近
歴史と沿革

■遺構の状態のよさと規模の大きさの割には歴史的な経緯が余り明らかではない模様である。「新編武蔵風土記稿」の記述によれば児玉郡八幡山町の項に「雉岡城蹟」としてその経緯が記されている。それによれば当時の伝承や「上野國志」などから、当初山内上杉氏が居城として築城したが地形が狭かったので上野の平井城に移動した。そして、赤松円心の穎裔孫と伝えられる藤岡に在城していた有田豊後守定基が入城し夏目氏と称して上杉氏の支城となった。
 しかしその後、永禄年間の後北条氏の攻勢により落城し、鉢形城主北条氏邦の支配下に置かれ家臣の横地左近忠春が城代となった。そして、天正18年(1590年)の秀吉の関東侵入により落城した後、同年8月に松平玄蕃頭晴宗が1万石で知行されたが、慶長5年に晴宗が死去し翌年その子家清が三河に転封となり廃城に至ったという。
 なお、「福田家所蔵文書」の解説によれば城下の町並みが整備されたのは後北条氏の時代であり、横地左近の名も時代は下るが天保期の愁訴状に現れているという。また、天正18年の落城後に知行されたのは子の松平家清であるとしている。

確認できる遺構
土塁、空掘、水濠、郭
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■南側の大手口と推定される大規模な二重土塁と空堀、半円形を描く南の郭の土塁と郭、東の郭の出枡形土塁、堀底で幅10mを優に超える水濠を中心にして、市街地であるにもかかわらず城跡の南東部分の三分の一ほどがよく遺されている。台地の先端部分を利用した平城であるが、空堀・土塁の規模から見てもかなりの防御機能があったものと思われる。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「児玉町史 中世資料編」(1992/児玉町)
「福田家所蔵文書 児玉町史史料調査報告第16集」(1997/児玉町教育委員会)   

文化財指定
埼玉県指定史跡
訪城年月日
2005/05/07
訪城の記録

( 2005/05/07 )
下調べ不十分のため、暫し現在位置を見失う
 いつものことですが資料をよく読んでいなかったために遺構としてどの部分が残っていて、現在位置がどこなのか掴むのに時間がかかり、城跡のあちこちをうろうろと。それでも、やっと北側の三の郭が児玉高校の敷地で、本郭辺りが児玉中学の敷地になっていることを理解し、どうにか現在位置も把握することに成功。しかし、せっかく案内図があるのですから、現在位置の表示ぐらいしてくれても良さそうなものですが...などと八つ当たりを(^^;
 土塁などの遺構が保存されているのは南側の郭と、東側郭の南側の一部、本郭東側の土塁周辺であることを確認。水堀、空堀なども水がやや濁っていることを除けばよく残されています。しかし、どう見ても出枡状の土塁の上に普通の民家があるのには驚きましたけれども。あと、その出枡土塁の北側部分が児玉高校東側の正門脇にしっかりと残されていることも分かりました。
 推定される遺構全体から見ると南東側の郭を中心として全体のおよそ3割程度が保存されているようです。南側外郭土塁の高さは優に6メートルはあり、本郭の土塁の高さも約7メートル前後、本郭南東の空堀の深さも深いところで7メートル以上はあります。水堀の幅も意外に広く水面部分で15m前後はあるようです。
 それにしても、城跡に到着した時間が午後1時前ということもあり初夏の陽気の中昼寝をしている人が異常に多く、城跡を見学しているのは自分だけで、もう少し城跡に関心を持つ人が多くても良さそうに思うのですが。いずれにしても、駅から700メートル、国道から300mという市街地に所在することを考えるとよく実に保存されていると言うべきかと。

Best Shot?


 本郭と推定される部分の東側の土塁で高さは約7mほどもあり、手前の幅15mほどの水濠と共に元々の城郭としての規模の大きさを感じます。
 しかし、土塁の向こう側は残念ながら児玉中学校の校庭となっています。また、写真の右側の部分に少し写っていますが、北側の郭も児玉高等学校の校庭となっていて、生徒達がサッカーの練習をしていました。
 ( 2005/05/07 撮影 晴 )
交通アクセス

・JR八高線児玉駅より西へ徒歩6分で土塁の見える城山公園に到着。MapFan Web の案内図です  


( 2005/05/07 撮影 )

■「城山公園」の入口にある雉岡城跡看板。もう一つコンクリート製のものがあるのですが、古いのと光線の加減で文字がはっきりとは写りませんでした。
 入口には公衆トイレもありますが、駐車場所が狭くかつ駐車スペースが区分されていないので、6台止めたら満車という状態です。訪れた時間が午後1時前ということもあり昼休み休憩中の車が駐車していて、駐車場所を決めるのに苦労しました。
 また、当日は初夏の陽気で丁度よいのでしょうか、昼寝をしている人があちこちに点在していました。当方はそうした中をデジカメを首から提げ、必需品など一式を収納したリュックを背負い、鉛入の安全靴を履いて辺りをキョロキョロ。加えてなにやら意味不明の独り言をつぶやきつつ縄張り図などを挟んだボードを片手にメモなどを取りながらうろついているという状態で、実に全く風景になじまない周囲から浮いた格好でありました。
日本名シャガ
科/属アヤメ科アヤメ属
学名Iris japonica
開花時期4月中旬から5月中旬
特徴など 草丈は40センチぐらいで、やや日陰の場所がよいようです。一つの花の命はたった一日限りですが、結構次から次へと開花していきます。三倍体の植物のため、実は結ばずに根茎からランナーを出して増殖する常緑多年草。
別名コチョウカ(胡蝶花)

■撮影場所は生育環境に合致したやや日陰になった塙保己一記念館に近い南の郭の一角で、数十株ほどの花が2か所に分かれて元気に咲いていました。
 内側の花びらには模様がなく、外側のやや外縁部にギザギザのある3枚の部分に清楚な青紫と黄色の模様が入ります。花の印象からは一見ひ弱そうに思えますが、結構天候の変動や寒暖の差に強い植物です。
■公園の西端の一角には、「群書類従」の編纂で著名な塙保己一(1746年〜1821年)に関する資料を集めた記念館があります。
 江戸時代の川柳だったと思いますが、「番町で目明き盲人に道を聞き」という有名な句がありますが、目の不自由な分だけ心眼とその記憶力は常人とは比べることができないほどに研ぎ澄まされていたのでしょう。
■塙保己一は児玉郡保木野村(現在の児玉町)の豪農荻野家に生まれ7歳で失明。音曲、鍼医術、歌文、神道、律令を学び、1779年(安永8年)から「群書類従」の編纂に着手し41年の歳月を費やし全670冊の刊行を完了しました。また、「大日本史」の校正に加わると共に、和学講談所を設立。さらに、六国史以後の史料を編纂し後の「大日本史料」に繋がる先駆的業績を残しました。
写真は記念館の建物でご覧のとおり大変小じんまりとしていますが、この国書編纂のお蔭もあって、こうして城跡めぐりなどができるのであります。
■「雉岡城」と書いて「きじがおかじょう」と読むようで、別名を八幡山城ともいいます。もっとも地元では、ご多分にもれず「城山」と呼ばれているようです。
 右側の推定復元図の左中央部分が本郭であると推定されているのですが、だとすると西を除く三方の郭配りからすれば、更にその西側に何らかの構えがなければおかしいはずですが。「新編武蔵風土記稿」に記されている二の丸が、それに該当するようにも思うのですが。
 また、梅沢氏は上記の著書の中で、三方の郭が後の時代に拡張されていったことを記しています。これは恐らく後北条氏の時代、北条氏邦の指示による普請でしょうか。何れにせよこの推定復元部分だけでも南北400m以上、東西250mぐらいの規模があり10ヘクタールを軽く超える広さがあります。
■著作権法上やや問題がありますが、黄色の線の内側部分が現存する遺構部分です。
 こういうような表示をしてくれると非常に分かりやすいのですけど(^^;
■南の郭の道路沿いの土塁で高さは6mから7mあり、写真の右側の道路部分は元来二重土塁の空堀跡でありました。
 現状でも直接道路側から登るのは、木の枝に掴まったりしてなかなか大変でした。
■西側の大手といわれている付近から左側の土塁の上部を撮影したもので、土塁の上は前方の東側に進むにしたがって、緩い下り坂になっている。
 写真右側が道路で、左側が南の郭の郭内。
■大手口と推定されている辺りで、南の郭の中での最高地点になります。
 道路となっている部分の空堀とその反対側の土塁の存在を考えると、その間を木橋で渡れるようになっていたと考えるべきなのでしょうか。
■上の写真の土塁の内側部分で、土塁の傾斜はご覧のとおり緩くなっていて、最も高い所でも比高4m程度。
■向かって左側が南の郭の西側部分で右側手前が本郭の東側の土塁部分に相当します。
 右奥に見える斜面は本郭の南側の小郭の土塁部分です。
■同じ場所を右側の本郭側に近づいて撮影。現在この水濠は奥の方では空堀になっていますが、当時もだいたい同じような状態だったのでしょうか。
■「夜泣きき石」と名づけられたいかにも曰くのありそうな大石。
 児玉町に伝わる民話によれば、「昔この城主の夕餉に針が混入し、それを怒った奥方が側女の小夜のせいにして、生きたまま井戸に沈めた。すると、夜になると死んだはずの臨月の小夜の啜り泣きが聞こえる。遺体を引き上げてみると小夜は大きな石に変わって子どもの石を抱いていた。不憫に思い悔い改めた奥方はこの石を堀端に祀って慰霊した。」という話です。
 三方が土塁に囲まれた閉塞感のあるこの空間は、間違っても夕方以降には余り近づきたくない風情が漂っていました(^^;
■何故か城跡に商売繁盛の金比羅神社が鎮座していました。商いには余り縁がないもので、僅かばかりの浄財と略式の参拝( 鈴・賽銭・二拍手---自分で勝手に考えた方式ですが、これが本当に礼を欠く訳で(^^; )を。
■本郭の東側の土塁の向こう側は、このように児玉中学校の校舎が建てられています。
 本郭の南側の小口の右側部分だけが、辛うじて遺されているのが分かります。
■ひときわ高く眺めのよい本郭東側土塁の上で、大手口の方は樹木が繁っているので見えませんが、多分同じぐらいの高さではないかと。右側に児玉高校のグランドのフェンスが見えます。
 なお、膝を痛めているため、この先を下るのに少々の難儀を余儀なくされました。
■東の郭の東側の土塁を南側から撮影したもの。土塁の先の方に出枡が見えますが、何とそこに普通の民家が建てられています。
 出枡の上にある住宅というのも珍しいのでは(^^;
■東の郭の南側土塁を東側から撮影したもの。土塁の先端は本郭との間の水濠となります。
日本名キショウブ(黄菖蒲)
科/属アヤメ科アヤメ属
学名Iris pseudacorus
開花時期5月から6月
特徴など 草丈は80センチから1mぐらいで、この水濠のような水辺に生育します。ヨーロッパ原産の多年生の帰化植物。根元に幾分模様のある大きく垂れ下がったものは外皮片で、内側の小さい3枚が花弁ということですが、どうみても外皮片の方に目が行く。
別名キバナショウブ(黄花菖蒲)

■上の写真の土塁の場所を右下の水堀の方に降りていくと、あたり一面の黄菖蒲が生育していますが、未だ時期が早いこともあり花の咲いているのはこの部分だけでした。
■東の郭の南東の角部分。東の郭は南の半分ぐらいが城址公園として保存されていますが出枡部分を含む北側の半分には民家の敷地となっています。
 しかし、その境目がかなりアバウトでよく分かりませんでした。
■上の写真の黄菖蒲が咲いている水濠で、先端の方に出枡部分が見えます。
 したがって水堀は90度の角度で東側に屈曲しているので先の方が見えません。なお、右側に少しだけ見えている石垣は民家の宅地部分です。
■南の郭の出入りのために後世に設けられた断ち切られた土塁部分。知らないとここが大手口か、小口かと思ったりします(^^; この部分が公園の入口です。
■公園の入口を入ると南の郭の正面中央部分に高さ3mほどの小山になった部分が見えます。郭の中にもう一つ郭があるような感じがします。
■県立児玉高校の校門脇にある東の郭の出枡土塁に続く北側の土塁部分。写真を撮りに堀底に下りていったら、実は途中の場所に体長1m以上の超大型犬の犬小屋があることに気がつきました。
 さて、帰りは仕方なく眼を飛ばしてゆっくりと引き上げたのですが、鎖の長さが予想以上に長く後方から追ってくる気配がしたものの、膝を痛めているため走ることもできず慌てず急がず撤退しました(^^;
 
工事中PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想はこちらへ 工事中