( 2005/05/07 撮影 )
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■「城山公園」の入口にある雉岡城跡看板。もう一つコンクリート製のものがあるのですが、古いのと光線の加減で文字がはっきりとは写りませんでした。 入口には公衆トイレもありますが、駐車場所が狭くかつ駐車スペースが区分されていないので、6台止めたら満車という状態です。訪れた時間が午後1時前ということもあり昼休み休憩中の車が駐車していて、駐車場所を決めるのに苦労しました。 また、当日は初夏の陽気で丁度よいのでしょうか、昼寝をしている人があちこちに点在していました。当方はそうした中をデジカメを首から提げ、必需品など一式を収納したリュックを背負い、鉛入の安全靴を履いて辺りをキョロキョロ。加えてなにやら意味不明の独り言をつぶやきつつ縄張り図などを挟んだボードを片手にメモなどを取りながらうろついているという状態で、実に全く風景になじまない周囲から浮いた格好でありました。
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日本名 | シャガ |
科/属 | アヤメ科アヤメ属 |
学名 | Iris japonica |
開花時期 | 4月中旬から5月中旬 |
特徴など | 草丈は40センチぐらいで、やや日陰の場所がよいようです。一つの花の命はたった一日限りですが、結構次から次へと開花していきます。三倍体の植物のため、実は結ばずに根茎からランナーを出して増殖する常緑多年草。 |
別名 | コチョウカ(胡蝶花) |
■撮影場所は生育環境に合致したやや日陰になった塙保己一記念館に近い南の郭の一角で、数十株ほどの花が2か所に分かれて元気に咲いていました。 内側の花びらには模様がなく、外側のやや外縁部にギザギザのある3枚の部分に清楚な青紫と黄色の模様が入ります。花の印象からは一見ひ弱そうに思えますが、結構天候の変動や寒暖の差に強い植物です。
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■公園の西端の一角には、「群書類従」の編纂で著名な塙保己一(1746年〜1821年)に関する資料を集めた記念館があります。 江戸時代の川柳だったと思いますが、「番町で目明き盲人に道を聞き」という有名な句がありますが、目の不自由な分だけ心眼とその記憶力は常人とは比べることができないほどに研ぎ澄まされていたのでしょう。 |
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■塙保己一は児玉郡保木野村(現在の児玉町)の豪農荻野家に生まれ7歳で失明。音曲、鍼医術、歌文、神道、律令を学び、1779年(安永8年)から「群書類従」の編纂に着手し41年の歳月を費やし全670冊の刊行を完了しました。また、「大日本史」の校正に加わると共に、和学講談所を設立。さらに、六国史以後の史料を編纂し後の「大日本史料」に繋がる先駆的業績を残しました。 写真は記念館の建物でご覧のとおり大変小じんまりとしていますが、この国書編纂のお蔭もあって、こうして城跡めぐりなどができるのであります。 |
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■「雉岡城」と書いて「きじがおかじょう」と読むようで、別名を八幡山城ともいいます。もっとも地元では、ご多分にもれず「城山」と呼ばれているようです。 右側の推定復元図の左中央部分が本郭であると推定されているのですが、だとすると西を除く三方の郭配りからすれば、更にその西側に何らかの構えがなければおかしいはずですが。「新編武蔵風土記稿」に記されている二の丸が、それに該当するようにも思うのですが。 また、梅沢氏は上記の著書の中で、三方の郭が後の時代に拡張されていったことを記しています。これは恐らく後北条氏の時代、北条氏邦の指示による普請でしょうか。何れにせよこの推定復元部分だけでも南北400m以上、東西250mぐらいの規模があり10ヘクタールを軽く超える広さがあります。 |
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■著作権法上やや問題がありますが、黄色の線の内側部分が現存する遺構部分です。 こういうような表示をしてくれると非常に分かりやすいのですけど(^^; |
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■南の郭の道路沿いの土塁で高さは6mから7mあり、写真の右側の道路部分は元来二重土塁の空堀跡でありました。 現状でも直接道路側から登るのは、木の枝に掴まったりしてなかなか大変でした。 |
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■西側の大手といわれている付近から左側の土塁の上部を撮影したもので、土塁の上は前方の東側に進むにしたがって、緩い下り坂になっている。 写真右側が道路で、左側が南の郭の郭内。 |
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■大手口と推定されている辺りで、南の郭の中での最高地点になります。 道路となっている部分の空堀とその反対側の土塁の存在を考えると、その間を木橋で渡れるようになっていたと考えるべきなのでしょうか。 |
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■上の写真の土塁の内側部分で、土塁の傾斜はご覧のとおり緩くなっていて、最も高い所でも比高4m程度。 |
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■向かって左側が南の郭の西側部分で右側手前が本郭の東側の土塁部分に相当します。 右奥に見える斜面は本郭の南側の小郭の土塁部分です。 |
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■同じ場所を右側の本郭側に近づいて撮影。現在この水濠は奥の方では空堀になっていますが、当時もだいたい同じような状態だったのでしょうか。 |
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■「夜泣きき石」と名づけられたいかにも曰くのありそうな大石。 児玉町に伝わる民話によれば、「昔この城主の夕餉に針が混入し、それを怒った奥方が側女の小夜のせいにして、生きたまま井戸に沈めた。すると、夜になると死んだはずの臨月の小夜の啜り泣きが聞こえる。遺体を引き上げてみると小夜は大きな石に変わって子どもの石を抱いていた。不憫に思い悔い改めた奥方はこの石を堀端に祀って慰霊した。」という話です。 三方が土塁に囲まれた閉塞感のあるこの空間は、間違っても夕方以降には余り近づきたくない風情が漂っていました(^^; |
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■何故か城跡に商売繁盛の金比羅神社が鎮座していました。商いには余り縁がないもので、僅かばかりの浄財と略式の参拝( 鈴・賽銭・二拍手---自分で勝手に考えた方式ですが、これが本当に礼を欠く訳で(^^; )を。 |
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■本郭の東側の土塁の向こう側は、このように児玉中学校の校舎が建てられています。 本郭の南側の小口の右側部分だけが、辛うじて遺されているのが分かります。 |
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■ひときわ高く眺めのよい本郭東側土塁の上で、大手口の方は樹木が繁っているので見えませんが、多分同じぐらいの高さではないかと。右側に児玉高校のグランドのフェンスが見えます。 なお、膝を痛めているため、この先を下るのに少々の難儀を余儀なくされました。 |
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■東の郭の東側の土塁を南側から撮影したもの。土塁の先の方に出枡が見えますが、何とそこに普通の民家が建てられています。 出枡の上にある住宅というのも珍しいのでは(^^; |
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■東の郭の南側土塁を東側から撮影したもの。土塁の先端は本郭との間の水濠となります。 |
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日本名 | キショウブ(黄菖蒲) |
科/属 | アヤメ科アヤメ属 |
学名 | Iris pseudacorus |
開花時期 | 5月から6月 |
特徴など | 草丈は80センチから1mぐらいで、この水濠のような水辺に生育します。ヨーロッパ原産の多年生の帰化植物。根元に幾分模様のある大きく垂れ下がったものは外皮片で、内側の小さい3枚が花弁ということですが、どうみても外皮片の方に目が行く。 |
別名 | キバナショウブ(黄花菖蒲) |
■上の写真の土塁の場所を右下の水堀の方に降りていくと、あたり一面の黄菖蒲が生育していますが、未だ時期が早いこともあり花の咲いているのはこの部分だけでした。 |
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■東の郭の南東の角部分。東の郭は南の半分ぐらいが城址公園として保存されていますが出枡部分を含む北側の半分には民家の敷地となっています。 しかし、その境目がかなりアバウトでよく分かりませんでした。 |
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■上の写真の黄菖蒲が咲いている水濠で、先端の方に出枡部分が見えます。 したがって水堀は90度の角度で東側に屈曲しているので先の方が見えません。なお、右側に少しだけ見えている石垣は民家の宅地部分です。 |
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■南の郭の出入りのために後世に設けられた断ち切られた土塁部分。知らないとここが大手口か、小口かと思ったりします(^^; この部分が公園の入口です。 |
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■公園の入口を入ると南の郭の正面中央部分に高さ3mほどの小山になった部分が見えます。郭の中にもう一つ郭があるような感じがします。 |
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■県立児玉高校の校門脇にある東の郭の出枡土塁に続く北側の土塁部分。写真を撮りに堀底に下りていったら、実は途中の場所に体長1m以上の超大型犬の犬小屋があることに気がつきました。 さて、帰りは仕方なく眼を飛ばしてゆっくりと引き上げたのですが、鎖の長さが予想以上に長く後方から追ってくる気配がしたものの、膝を痛めているため走ることもできず慌てず急がず撤退しました(^^; |
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