アクセスありがとうございます。 最初はホームページづくりの日記のようなもので始めたのですが。 時々ネコも出てきます。 もちろん、城跡めぐりも出てきます。 早い話、身辺雑記のようなものです....はい。
 
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・2005年5月30日(2)    本庄市五十子陣再訪ほか
           

(はじめに)
 今日は天気予報では曇で、関東の南部では多少雨が降るかもしれないという予報にもかかわらず、早朝より完全な雨模様。しかし、午後ぐらいからは晴れてきそうな予報も出ていたことと、東京電力サイトの降雨状況を示す雨雲の動きを確認して、少なくとも荒川を越えれば雨は降っていないはずと願望的確信。はたして降りしきる冷たい雨の中、また冷たい視線を背中に感じる中、県北の本庄方面の訪城へ出発。
 川越市を過ぎ入間川の橋を渡る頃には雨はやや小降りに変わり、小川町を過ぎた頃には小雨程度に。さらに、美里町を通過している頃にはほぼ完全に雨域から脱出に成功。しかし、上空は相変わらずどんよりと重たい雨雲が停滞。デジカメは雨に弱いので傘は用意しているものの、傘差して、デジカメ下げて、資料を挟んだボードを持って訪城するというのはあまりに非現実的状況。雨が降り出さないことを願いつつ五十子陣とその周辺を訪城。

■栗崎館
 本庄氏の本庄城に移る前の本拠地の一つとされている館跡で、西側の堀が予想以上によく残されています。現在は幅約5、6m、深さ40センチほどのかつては水田をかねたと思われる浅い空堀跡になっていますが、当時は水田の水路もかねた水濠であったと考えられます。また、北西側の一部に堀に沿った土塁と思われる地形を認めることができますが、季節的にヤブが酷く民家の敷地内でもあり外側からの観察にとどまりました。なお、よく気をつけないと畑と藪の間の叢に細いけれども深さ1mぐらいの水路もあったりして、下手に踏み込むとえらい目にあうので要注意。館跡の規模は北側と西側の遺構の状況から判断して、およそ200m四方に及ぶともの思われます。
■北堀堀ノ内
すぐ南側にある栗崎館と異なり残されている堀跡の規模は100m程度と小さいようで、同様に平行している土塁が一部残されていることが確認できますが、道路沿いの生垣の間からチラリと拝見するような状態なので詳細は不祥です。
■東五十子城
五十子陣(城)に西側に位置する遺構で、所在地としては明らかに西五十子になるのですが、「埼玉の中世城館跡」などでは「東五十子城」と記載されているので訳が分からなくなります。また、地図上にマーキングされている個所は明らかにJR高崎線の北側の場所となっていますが、何故か所在地が五十子陣の辺りの地番が記載されていたりして混乱に拍車をかけます。
 目視できる遺構はもちろん何もありませんが、南側に残る高さ5m前後の崖線は僅かに当時の面影を遺しているように思えます。
■五十子陣(城)
 前回5月25日に訪れた時には事前の準備が不足していたのと、あまりに変わり果てた状況となっていたことなどがあり観察不足を露呈してしまいました。今回は都合1時間20分をかけて、それなりに念入りに周辺地域を含めて回りましたので、朧気ながらも全体の状況が飲み込めてきたように思います。
■牧西堀ノ内
 堀ノ内という地名が残ることから城館後であると推定される地域です。現地には幅2m、南北に伸びる長さ100メートルほどの直線の堀跡と見られるコンクリートの蓋がかけられた排水路のようにものが遺されていました。しかし周辺は民家が立ち並び当時の面影を感じることは難しいようです。
■小島氏館
 真言宗長松寺の西側に空堀と土塁が残されています。空堀の深さはもっとも深い部分では2mを超えますが、全体として保存状態は余り良好ではないように見えました。この遺構に沿って細長く神社の境内と参道が所在しているのですが、その部分が二重土塁の外側であったようにも見えるのですが定かではありません。また本堂の北側にもそれらしいものが見えるのですが、土塁というよりも古墳のように見える高まりがありました。
■岡部六弥太忠澄館
 岡部六弥太忠澄のものとされる五輪塔が大切に保存されている場所の西側にほんの少し土塁と思われる遺構があります。これとは別に、東側のやや離れた菅原神社の南側に稲荷神社が鎮座するするひときわ大きな土塁跡があります。戦国期の物見台、櫓台を思わせる高さ5メートル以上、長さ約20mの規模で道路わきの畑の中にぽつんと残されていました。こちらの方にも何か説明のようなものがあると嬉しいのにと思いたくなるほどの大きさです。
(おわりに)
 五十子陣でたっぷりと時間をかけたため、時刻はすでに4時30分を回り厚い雲に覆われた曇天は何時降り出しても可笑しくはない状況。途中で軽く夕食を摂ることも予定に入れて、蕎麦屋を探しながら深谷市内を通過。しかし、3軒当たって定休日または準備中の表示が。前回も全く同じことがあり、よほど深谷では蕎麦に無縁なのか。川本町に入り小雨模様に。やっぱり雨は荒川で踏みとどまってくれていた。天候を安定させてくれた荒川に感謝しつつ道を急ぐ。ようやく、小川町の奈良梨で蕎麦にありつくが、季節のせいもあるのか値段はともかく味の方が...



■ 岡部氏の館跡に所在する戦国期と思われる土塁の一部で、その上に見える建物は稲荷神社の社。
( 2005年5月30日 撮影 )



・2005年5月30日(1)    子ネコ捜索隊出動
           

 昨日の10時過ぎに生後6週間の5匹の子ネコのうち一匹が二階のベランダ伝いに1階の屋根に下りて地面に転落するという事件が発生。弱々しい鳴声を聞きつけた次男が第一次捜索隊を編成して捜索するもその姿を発見できず。しかる後、再び第2次捜索隊が派遣され、泣き声の方向からその所在を確認するも救出に至らず。
 ま、早い話がかなりのネコ好きで未だにアレルギー体質の息子が、子ネコの泣き声があらぬ方向から聞こえてくるので、不審に思って一人で二度ほど探しに行っただけのことですが。
 そしてついに、母ネコの度重なる要請に基づき、救出機材と陣容を整えた第3次捜索隊が速やかに結成され、3分後には無事縁の下から救出に成功。パチパチパチ。
 ま、要するに母ネコのポミがニャアニャアと娘に訴えかけたらしく、飼い主の娘が懐中電灯をもって縁の下で怯えている子ネコを誘い出して連れ出してきただけのことですが。さて、2m以上の高さから落ちたにもかかわらず、全く怪我もない様子でやっぱり流石に猫の子でした。この間の所要時間約20分、ご近所の皆様大変お騒がせいたしました(^^; また、引き取り先も概ね内定してじゃれ合っていた子ネコたちのお別れが近づいてきています。少し遠方に引き取られる子もいますので、ほぼ半永久的なお別れとなるようです。



落ちたのはこの子かと思ったのですが、よく似た別の子の方でした。
よく見ると首をやや右に傾けてポーズをとっているようにも思えるのですが。
2005年5月31日 撮影



・2005年5月29日    絵葉書も売れた
           

 先日開始した展示会の著者の方の本と絵葉書が、なんと昨日1冊と2点売れました。来月の6月にはタウン誌、地域情報誌の掲載三本と三百人程度の団体が来館する予定があるので在庫の補充問題がにわかに懸念され始めました。当初においては著者の方には大変申し訳ないのですが、書店などのリスクを考慮して出版物については同一出版社のものを五種類、各五点ずつという形での委託販売ということに決定したのですが。
 ところが、このような微妙な売れ行きになってくると現時点では今後の売れ行きの見通しがつかなくなるのです。現実には梅雨の季節に入る前の土日しか売れないとは思うのですが、一時に大量の購入希望が殺到して欠品が発生しても困りますし、かといって分不相応の大量在庫を抱えるというわけにも行かず...暫く様子を見て補充発注するということにする以外に方法はなさそうです。もっともこれでは何の解決・対処にもならないのですが...そして、今日も1冊売れましたが、ますます以って補充発注の是非について悩んでしまいます(^^;



ナデシコ科の越年・多年草のウシハコベ。
ハコベよりも花が大きく草丈も長く、雌しべの白い花柱は5本ある(ハコベは3本)。
2005年5月16日 撮影



・2005年5月28日    HPの更新捗らず
           

 昔学校で勉強した日本の歴史では十四世紀から十六世紀の関東の戦乱などは殆ど取り扱っていませんでした。なんといっても応仁の乱からいきなり豊織政権にワープするのですから。それも畿内の範囲だけで。
 ところで城跡めぐりをしているとその歴史的な背景についても感心を持たざるを得なくなります。それにしても、鎌倉公方だの、上杉禅秀の乱だの、古河公方だの、長尾景春の乱だの、結城合戦だの、享徳の乱だの、長享年中の大乱だのといった東国の戦乱や政治史に関する知識が殆どなかったことに改めて驚きました。昨年の今頃埼玉県史の該当部分を読んでいて何とか理解できたのは鎌倉幕府の成立辺りと、承久の変、鎌倉幕府の滅亡の辺り、ずっと時代は下って後北条氏の滅亡の頃ぐらいであとは人物も、背景も、地理的なことも全く分からずという手探り状態でした。
 しかし、最近ようやく繰り返して各市町村の地方史を斜め読みするにつれて、やっとどうにかごく初歩的な通史的理解が得られてきたような気がします。以前では一世紀も間隔があいているにも拘らず南北朝期の関東の騒乱と山内扇谷の両上杉氏の相克の時代的な区別がつかないでいましたから。そんなレベルの知識ですので、歴史的な背景を理解し城跡めぐりの説明としてHPに掲載するまでにはとんでもない時間と労力がかかり、極端に言えば一行記載するのに50頁本を読んで、不明個所を日本史辞典で調べて...というわけで相変わらずHPの更新が捗りませんです(^^;



大勢力の狭間で翻弄された本庄氏の居城本庄城北辺の天然の要害となっていた元小山川の流れ
2005年5月25日 撮影



・2005年5月26日    展示会の本が売れた
           

 先日開始した展示会の著者の方の本が、なんと昨日1冊、本日1冊売れました。先週の21日の土曜日からスタートしたのですが、火曜日までの3日間は全く売れる気配もなく、結局最終的には1点ずつ自腹で購入することになるのだろうかと思っていたもので...。当方は元々利益ゼロの取り扱いですけれども、書店や出版社の経費のことを考えるとあまり迷惑はかけられず、このまま、順調に推移して最終的に10冊ぐらいは売れてくれると助かるのですが。1点ずつの自腹でも全部で2万円位にはなってしまうので、まずはタウン誌に展示会の情報が掲載される6月が勝負かと(^^;



東方城の郭跡と思われる辺りに生っていたヘビイチゴ
2005年5月25日 撮影



・2005年5月25日    訪城は本庄から深谷方面
           

(まえがき)
 振替の休みをもらって殆ど土地勘のない本庄、深谷方面へ城跡めぐりに出かけました。地元である入間郡方面を離れると土地勘のあるのはあとは比企郡ぐらいで、道路も分からなければ地理的な方向も殆んど分かりません。今回の訪城でやっと本庄市と深谷市の位置関係が頭に入ったくらいですから...。ところで、寄居方面よりも北の方面は関越自動車道を利用したほうが時間の節約になることは分かっているのですが、たかが趣味のために高速道路を利用してはいけないという妙な拘りがあります。いずれにせよ、ガソリンは消費するし、自分の走る分だけ道路は混むことになるので全く同じことなのですが何故か、高速道路を利用することが生理的に憚られます(^^; さて、埼玉県に居住して43年であるにもかかわらず、道路知らずの方向音痴の自分ではありますが、なんと本庄市の手前までは道路地図を確認しなくとも行けるようになりました。人間いくつになっても経験が累積すると、ほんの少しは進歩する場合もあるものだと我ながら感心しました(^^)
■古郡館
 前回の訪城で時間などの関係からかなりいい加減に観察したので、どうも何か引っかかるものがあり本庄方面の通り道なので再訪城をしました。結果は再訪して正解で、館跡の西側には立派な高さ平均2mで、延長100mはありそうな土塁がしっかりと遺されていました。ただ、訪城の時期としてはやはり晩秋から早春までの方が妥当なようで、せっかくの遺構が生育し始めた雑草などにより隠されていました。また、北側部分にはコンクリート製の蓋が設置されているものの堀跡と推定できる連続した窪みが館跡に沿って100mほど続いていました。方形館の場合やはりぐるっと一周して観察することが必要だと、改めて思い知ることとなりました。
■本庄城
 本庄市役所の東側の辺りが城跡だそうですが、築城当初は更にもっと東側に位置していたようです。遺構らしいものは神社付近に残る台地と斜面の切岸らしき存在ぐらいです。あとは、しいて言えば市役所の駐輪場の隣家とのネットフェンス越しに目に入る土塁のような連続した土の塊があります。いずれにしても双方ともに近世初期の遺構のようで、市役所の西側の正面や川沿いの元小山川の護岸に施工された現代的な石垣を目の当たりにすると、何故かいいようのない白々しさを感じてしまいました。
■五十子城
 山内上杉氏と古河公方の戦いの場となった陣城のようなものらしく、城跡とされる辺りの東側には国道17号線が縦断し、西側は本庄市の清掃センターや水処理施設などが建設され、目にすることができる遺構は殆どなさそうです。南西の方角から城跡を目指したのですが、最初に目に付いたのは市営のスーパー銭湯のような施設。清掃センターがその東側にあり、そこに地面の起伏を認めたのですが、公園化に伴う築山と修景池でした。付近に大規模な変電所もあり高圧線の鉄塔がやたらに存在感を示していました。ビジネスホテルの所在する場所は城跡の東端に相当するようですが、その名称のみが城跡であったことを伝えています。
■庁鼻和城
深谷市の中心部にある国済寺の境内の北側に土塁の一部がL字型の状態で遺されています。高さは西側の角部分で外側で2m、内側で1.5mを測りますが東に行くほどだんだんと低くなっていきます。長さは北側の部分で東西方向に約100m、西側の方は南北に40mという規模です。山内上杉氏から分かれた深谷上杉氏の本拠地だそうですが、どう土塁と空堀を備えても要害の地としては不十分な平坦地であることから、後に西側の唐沢川西岸方面ににより本格的な深谷城が築かれます。なお、本堂裏の竹林の場所に古墳とおぼしき高さ2.5mほどの地面の高まりが残されています。
■皿沼城
 田んぼの用水堀に僅かに曲折する堀跡らしきものが確認できるだけの城跡ですが、よく辿っていくと堀跡の一部は東側の諏訪神社の向側の民家の敷地と道路の境にコンクリートの蓋をされた下水溝として残っています。しかし、現地で確認できるのはここまでで、それ以上の収穫はありませんでした。
■東方城
 今回の城跡めぐりの中では一番収穫があった場所です。始めは地図の見方を勘違いして国道17号線の北側600mの辺りと目星をつけておいたのですが、現地に赴いて地形を観察した所実際には更に600mほど北側の利根川の支流の福川のそのまた支流の大きく崖線に沿って蛇行する農業用水のような小河川の南側に位置していました。多少は地位を見る目も養われてきたというべきか、単に地図が読めないというべきなのか(^^;
 さて、肝心の城跡の方は事前の情報としては、熊野大神社というかなり立派で格式の高そうな神社の境内に南側を除く三方に土塁が残されているということでした。しかし、残念ながら内側から見る限り土塁の高さは1m未満の所が多く、東側は空堀跡が確認できるものの土塁自体については余りはっきりしなくなってきていました。ただ崖線の上に位置しているので、北側部分については下の道路部分からは約7m程の高さを有しているので、小規模ながらも当時かに水路があったとすれば一応の備えの形にはなっているのでしょう。
 このほか城跡の遺構としては直線にして600mほど東側の県道263号線の東側部分の水路が大きく90度に屈曲する個所にはかなり嬉しくなるほどの土塁と空堀の遺構が確認できます。切通の道路の北側に土がむき出しになった高さ3m以上の崖が土塁跡そのもので、水路に沿う形で屈曲していることがよく分かります。また西側の土塁の外側には低いながらももう一つの土塁が残り、二重の土塁であったようにも見えました。土塁の内側での高さも2m近くもあり土塁に囲まれた一角は郭跡といってもよいぐらいですが、季節柄草木の叢生が夥しく蜘蛛の巣もあちこちにあって一応土塁の上には道があるとはいうものの見通しが利かないことが残念でした。さらに、この場所には更に東側の端には100m近い直線の土塁が確認できます。
 このように遺構が全体的に部分的にしか遺されていないので、城跡の全容が掴みづらいのですが少なくとも東西方向には1kmほどの長さを占めていたと思われますが、地形状の弱点としてはやはり高低差の殆ど存在しない南側の防御ということになると思われます。
(あとがき)
 帰路は遅めの食事を摂りながら、愛用の「でか字」の埼玉道路地図を穴の開くほど眺めて、無理やり頭に収納。深谷市のど真ん中辺りから国道17号線を横切り、どうにか幹線の県道伝いに小川町方面に出たので、あとは安心して通いなれた国道254線を辿り家路にとつきました。それにしても帰りの道路が驚く程に空いていて、一般道で行程60キロをたった1時間40分前後で帰ってこれるとは夢にも思いませんでした。決してスピードを上げていたわけでもないのですが、深谷から小川町の254線に出るまで信号と交通量の少ないこともあり所要時間僅か20分足らず。いつも渋滞には慣れているので、時速に換算して36㎞というあまりの帰路の速さにやや拍子抜けがしてしまいました。



ぼちぼち刈取りの時期を迎える小麦かと。
2005年5月25日 撮影



・2005年5月24日    ニワゼキショウ
           

 図鑑を調べていたら、名前の由来は庭に咲くセキショウに似ていることから付けられたとあり、セキショウを調べるとこれが掲載されていない...ほかの図鑑を調べて分かりましたけど、不親切というか間が抜けているというか。
 植物の画像が少しだけ溜まってきたのと、名称などを調べる幾つかの手がかりが掴めるようになってきたこともあり、ハルジオンとヒメジオンの違いがやっと分かる程度なのに、植物の図鑑のようなものを作ってみようなどど、とんでもないことを考え始めています。



竜谷山城への途中の道端に咲いていたニワゼキショウ。花が小さく風もありなかなか焦点が合わず...
2005年5月16日 撮影



・2005年5月23日    ドクダミの花
           

 殆ど手入れをしていない自宅の庭というか僅かな隙間にドクダミが2坪ほど蔓延り、初夏にふさわしいの「白い花」を咲かせました。葉色が赤みを少し帯びた濃い緑色なのでよく目立っています。
 現在自宅に蔓延っている雑草のうちで、花らしきものをつけているのは、このほかにハルジオン、オニタビラコ、トキワハゼ、アメリカフウロ、セイヨウタンポポがあります。今年は草むしりをしないで、できるだけそのままの状態で観察しよう...そのほうが楽なので。



ドクダミの「白い花」に見えるのは、中央にある黄色い頭状花を囲む総苞片です。
2005年5月23日 撮影



・2005年5月22日    子ネコの目ヤニ取り
           

 ネコの飼い主の娘が出かけてしまい、少し早起きをして猫たちの様子を見に行くと一匹の子ネコの左目が目ヤニですっかり塞がっていました。仕事の時間が迫っていましたのでトイレの後始末と食料の確認だけして、帰宅してから面倒を見ることに。仕事をしながらも、目ヤニをとるにはまず柔らかいガーゼをぬるま湯につけて、少しずつそっと剥がして上げよう...あっそうだ、確かテーブルの上に殺菌ガーゼがあったような気がするなどと対処方法を考えていました。
 夕方、少し子猫用の餌とミルクなどを購入して様子を見に行くと、少しは目を開けているものの目ヤニがかさぶたの様になっていました。ついでだからと風呂場につれて行き小さな洗い桶の中に入れて体も洗いながら、殺菌ガーゼをぬるま湯につけて少しずつ拭き取ってやりました。体格が一番小柄なために、餌を食べるときも顔を突っ込めないでいるので少し心配です。
 ホームセンターで子猫用のペットフードを探したのですが余り種類が多くなくモンプチのドライタイプのペットフードと子猫用ミルクを購入。早速与えてみると真っ先に母ネコが食べ始めましたが、説明を読むと1歳までは子ネコ扱いらしいので生後8ヶ月の母親のポミはやっぱり子ネコなのでありました(^^;



生まれたときは耳も垂れていてハムスターにも見えたのがちゃんとネコらしくなりました。生後5週目。
2005年5月22日 撮影



・2005年5月21日    原画展開催
           

 仕事先の方で今日から原画展をオープンしました。画集・著書、ジグソーパズルなども同時に販売しますので、多少なりとも売れてくれるといいのですが。初日は広報宣伝の掲載スケジュールの関係などもあり、来館者は午前中にパラパラときたもののその後は静寂の時に包まれました。この場所は鉄道の駅から遠く公共交通機関もないに等しく交通アクセスの利便性に大きな問題があり、あわせてかなり分かりにくい場所に所在しています。このように集客力に乏しい条件下での開催のため、公的施設で入館料無料とはいえ長期的な視野にたったバランスの取れた経営の実現が非常に難しい状況です。
 従って当然のこととして本日の販売成績はゼロという結果で。販売の単価設定もかなり高めなので、かなり厳しいかもしれませんが6月の三百人の団体が来館するときが狙い目かと(^^;



埼玉県入間郡毛呂山町 毛呂氏館のある長栄寺 遺構は裏山の中腹の林の中に
2005年5月16日 撮影



・2005年5月20日    城跡で検索すると
           

 アクセス解析開始してから3ヶ月が経過しました。その中で初めての訪問者の方が非常に多いことが分かります。また、この間に100回以上もご覧いただいている方が何と157人もいらっしゃるようです。更にブックマークからのアクセスが一日平均15件以上も。こんな貧弱なマイナーなサイトにおいでいただき誠に恐縮する一方で、ものすごく感謝しております(^^;
 おかげさまで、アクセス件数も一定の重複を制御しながらもすでに1万5000件を超えました。アクセス件数が増えてきた理由のひとつにGOOGLEで「城跡」と検索すると38万4千件中4番目に表示されていることも関係しているようです。しかし、なぜ上位に表示されているのか非常に不思議なのですけど(^^;



埼玉県入間郡毛呂山町 毛呂城(山根城)の石碑近くの風に揺れるヤグルマギク 
2005年5月16日 撮影



・2005年5月18日    自宅で療養
           

 昨日は仕事中に次第に右ひざの痛みが増幅し通勤の帰りがけに整骨院に立寄って必要な処置をしてもらい、ついでに松葉杖も借りてくるという事態になりましたので、本日は溜まっている振替休みを取って一日中養生ということに。できるだけ歩かないのが早く治癒するとのこと。一日中殆ど動かなかったおかげで大分痛みも弱まってきた感じですが、仕事に行くとそうも行かないので、結果的に休んでおいて正解だったようです。
 そういうわけでHPの更新がやや捗る結果となりましたが、今後の訪城計画の立て方には足に負担をできるだけかけない工夫が必要となってしまいました。まさか松葉杖を突いて山城に登るわけにもいかず(^^;



埼玉県入間郡毛呂山町の斉藤実盛の子孫とされる斉藤氏の館跡の北側の土塁と空堀 
2005年5月16日 撮影



・2005年5月16日    毛呂山町方面の訪城
           

(まえがき)
 前回の訪城の続きだと中仙道を次第に南下していく予定でしたが、ひょんなことから毛呂山町の文化財の資料が入手できたので急遽入間郡の毛呂山町に目的地変更。一応念のため前日に地元の資料館に電話を入れて状況を確認し、資料と所在地に関する情報をしっかりと頭の中に入れて事前の準備だけは珍しく完璧に。いつもこのようにしていれば問題がないのですが、ついつい面倒で行き当たりばったりのことが多く困ったものです。
 訪城に先立って旧鎌倉街道上道と推定されている遺構を見学。毛呂山町の資料館西側の掘割遺構を北に向かって暫く歩いていくと、古墳のような遺構があちこちに散見されるので、よくよく資料を見てみると「川角古墳群」と書いてありました。近くの保育園の子供たちが古墳の上を散歩中でしたが、説明版が設置されていると嬉しい所です。このあと古墳の上に建てられた高さが3m近い延慶期(14世紀初頭の鎌倉時代末期)の板碑を見学して毛呂山町の中世城館めぐりを開始。
■村田和泉守館
 予定通りに中央公民館の駐車場に車を止めさせてもらって、徒歩にて訪城...といっても、ものの数分で到着しましたが。始めは民家の低いブロック塀の内側に僅かに残る土塁だけかと思い、こんなものかと納得してましたが、よくよく観察してみると更に隣家の敷地の方にも延びているようで、竹林の手前を西側に迂回してみた所、あるわあるわ見まごうことなき方形館と思しき土塁が一直線に100m近くも、更に90度折れて南側にも100mほど続いていました。東側の様子がはっきりとはしないのですが、どうやら南北西の三方向の土塁が遺されていて高さは1.5mから2m程度ですが、とりわけ西と南の部分の状態がいいようです。もっとも、全ての方角でで住宅と接していますので、これだけきれいに遺されているというのは非常な驚きです。
■斉藤氏館
 直線距離にして村田和泉守館の西側200mに位置する城館跡で、土塁の状態はこちらの方がより適正に管理され整然と残されているという印象です。戦国時代においてこの目と鼻の先の関係にある近接した二つの城館はどのような相互関係にあったのでしょうか。北側の土塁に外側には深さこそ30センチ程度ぐらいですが空堀跡もしっかりと残され土塁の高さも外側で2mを越えると思われる部分も部分もあります。周辺が宅地化される中であるにもかかわらず、極めてよく残されている事例ではないかと思います。このあと、公民館まで一度戻りスーパーの「いなげや」り蒸しパン2個という簡単な昼食を摂りつつ次の訪城ポイントの確認を。
■毛呂城
 中央公民館の駐車場にそのまま車を置かせてもらって、徒歩で八高線の線路脇の城址石碑のある場所を目指していくと、なにやら記憶のあるところに出ました。道路が整備されて途中の景色が変わっていたので、すぐには分からなかったのですが家内の妹の嫁ぎ先のすぐ近くの場所で比較的著名な出雲伊波比神社(いづもいわい神社)の近辺でした。子どもたちの小さい自分にはよく来ていたのですが、以前訪れたのはもう15年ほどになるのでしょうか。
 さて、肝心の城址の石碑はというと...八高線の線路際との事前の情報ですがどうも見当たりません。しかし、踏み切りの手前にある植え込みに隠れた一角をよく見てみるとありました、ありました。植え込みに隠れるようにして思いのほか小さな城跡の石碑が。これでは車で通過したら絶対に見落とす可能性があり、結果的に徒歩での探索がまずは役立ちました。予め情報は得てはいましたが、周辺には八高線の線路と畑と住宅以外には何の見るべきものもなく、ここが城館跡であったといわれても「はあ、そうですか」というような印象ではありました。
 それにしても東側の出雲伊波比神社の鎮座する臥竜山と呼ばれる小山の方が地形的にはよっぽど中世城館の所在地らしく見えました。文献・資料・伝承などの裏づけは全くありませんが、もしかするとある時期にはそうした役割を担っていても不思議がないというほどの独立した丘陵を形成していました。
■毛呂氏館
 さて、このあと八高線の踏切を渡り県道30号線を南へ向かい、埼玉医大の先にある長栄寺にむかいました。長栄寺へ曲がる場所がよく分からなかったことと、毛呂城からさほど離れていないこと、埼玉医大の前の道はよく渋滞するなどの事情もありましたので、膝の心配も少しはありましたが敢えて徒歩にてそのまま行くことに。長栄寺の裏山が毛呂氏館のある場所との情報ですが、間違えて少し手前の道を曲がってしまいました。しかし、徒歩ですので埼玉医大の職員駐車場を縦断していくと山の中腹に寺院らしき姿が見えました。大きな墓地も付属しており、ほかに間違えようもない東側に景色の開けた場所なので、跡は寺への参道を探して真直ぐ境内へと向かいました。
 館跡は本堂のあるすぐ北側の15mほど高い平場ですが、この季節かなり雑草が蔓延り始めており土塁や空堀の状況を確認するのにはやや問題もありました。けれども、なんとか観察できなくもないという程度ですし、未だやぶ蚊がうようよしていない分だけ良しとしなければいけません。土塁は東側の平地に向かって開口した南北60m、東西35mぐらいの規模でコの字を形成し、開口部の東側は3mから4mほどの切岸で、西側の尾根続きには空堀が施され堀切のような格好となっています。また、南西側には小規模に腰郭状の平場も確認できます。
 全体としての規模で考えると長栄寺の建物のある境内を含み縄張りが構成されていたと考えるほうが自然な地形ですが、それらを含めても1万平方メートルに満たない小規模な山城であったように思います。
■竜ヶ谷城
 さて一旦公民館まで徒歩で戻り、改めて車で阿諏訪地区にある竜ヶ谷城を目指しました。この城跡は何が有名かといえば、築城者でも、歴史や合戦でもなく、ゴルフ場の中にぽつんと取り残されているということでしょうか(^^; 以前からどのようにして閉鎖された私有地であるゴルフ場のなかに入っていくのかが分からず訪城を先送りしていましたが、地元の資料館で立派に公道であるとの情報を確認したので安心して南側の雷電神社の参道から侵入。
 さすがに公道がコース自体と錯綜しているようなことはなく、一部ゴルフカートの通路と重複している部分があるものの、すぐに神社への参道が分岐しています。それでも麓の集落からの比高は80mぐらいあり、最後の本郭への登りになるとまだ着かないのかい...と独白が出るような感じになります。山頂からの眺望がよいとの情報もありましたが、樹木の成長や季節の関係もあるのでしょうが、北東側を除いて殆ど眺望はありませんでした。本来は阿諏訪川の流れを挟んで約1km東側の毛呂氏館の裏山が確認できるはずなのですが、折からの樹木の枝葉に視界をさえぎられて何も見えず。
 遺構そのものとしては、本郭、二の郭、三の郭を始め幾つかの小さな腰郭も残されていますが、全体として木が繁っていることもあって縄張りの特徴を掴みづらい状態でした。また、心配されるようなドライバーショットのゴルフボールが飛んでくるような危険も殆どないようですが、ゴルフ場のオープンしていないときには公道からの入口フェンスが閉鎖されるようで訪城の日時には注意が必要かもしれません。

(あとがき)
 先月からの膝の故障で多少の不安があり、できるだけゆっくりと歩いて膝への負担を考慮してはいたのですが、最後の上り下りが効いてきたのか、またもや鈍痛が再発し体力の衰えを痛感しました。年配になるとよく膝や腰が痛いなどという話を耳にしますが、まさかこの年でこのような事態になるとは...これから暫くは訪城先の吟味が必要です(^^;



 毛呂山町資料館西側の旧鎌倉街道上道と推定される古道と道端に咲いていたミツバツチグリ
2005年5月16日 撮影



・2005年5月14日    右の膝は思いのほか重症で
           

 昨日は仕事で会議があり飯能市まで出かけましたが、会議室の席上から名栗川沿いの新緑の稜線が目に入り、おっ、そうだ、そうだ中山家範の屋敷跡はこの近くだったなどと思い出したものの、時間も、資料もデジカメもないので訪城はまたの機会ということに。
 今日は予約していた足のむくみのMRI検査の日。12時の予約なので時間が中途半端なためどこにも出かけられず、午前中に整骨院へでかけて右ひざの様子を見てもらい関節の間の部分が少しつぶれているというような状況が判明。完治するまでには、あと1ヶ月ぐらいはかかりそうです。道理で2週間ぐらいの間は階段の上り下りもままならなかったはずで、先週の土曜日に訪城したときも膝に全く力が入らなかった訳です。
 さて、肝心のMRIの方では血管そのものには異常が認められないとのことで、あとは血液検査の結果まちということに。なお、MRIの画像では膝に見事なぐらいまでに水が溜まっていました(^^;




・2005年5月12日    ちょこまかと動く子ネコたち
           

 前娘の部屋、現ねこ部屋となっている、元自分の部屋にネコどもの様子を窺いにいくと、部屋の前に人が近づいた時点で母ネコのポミが不審者かどうかの検問のために待機しているようです。さて、子ネコたちはというと母ネコが動くものだから一緒になって移動するらしく、白と黒の固まりになってすぐに足元にまとわりついてきます。好奇心が旺盛なようで、くれぐれも踏まないようによく注意して部屋に入らなくてはなりません。
 一匹ずつ抱き上げてというよりも、摘みあげて顔を観察しようとすると、未だろくに生えてない爪を立てて体勢を入れ替えようとします。その様子をポミは心配そうに見上げていて、床におろされるとペロペロと体を舐めてやっています。なんだか結果的に悪いことをしているようにも思えてきました。



 全員で部屋中を動き回っていますが、小走りに走る子も。生後ちょうど3週間。
2005年5月12日 撮影



・2005年5月9日    足のむくみも発症して
           

 膝の痛みに加えて、以前からの足のむくみも余りよくなく連休も明けたので早速医者通いに。結局、足の血流と血管の状態を調べるためにMRIを受信することに。軽い脳血管障害の方で以前に3回ほど受信しているので、別にどうということもないのですけれども、連休の直前には足首の踝が見えなくなるぐらいにむくんだりして、いやもう痛切に年齢を感じています。むくんだ足を時々眺めつつ、久しぶりに訪城記録の整理を行い雉岡城をUPしました。



 自宅玄関脇のアメリカフウロ(ゲンノショウコの仲間)で、夕方には小さな花を閉じていました。
2005年5月9日 撮影



・2005年5月8日    乗馬姿の北条氏邦
           

 下の写真の北条氏邦の乗馬姿の像はおぼろげな記憶を辿るとたぶん三十年前ぐらいからあったような気がします。ただ、写真から見ても分かるようにかなり綺麗ですので、二代目あるいは化粧直しをしていると思われます。また、説明の看板も新しいようです。世間一般では、北条氏といっても鎌倉時代の方が有名かもしれません。天正十八年の秀吉の関東侵入の時の攻防についても鉢形城の戦いはどちらかといえばローカルな部類にふくまれているようで、決してそれほどよく知られているというわけでもありません。
 伝わっている合戦の様子についても「新編武蔵風土記稿」の記述による伝承が中心であり、どの程度の規模の攻防戦であったのかは不明な部分が多いようです。しかし、いずれにしても氏邦の鉢形城開場の裁断によって、当時の多くの人々の命が救われることとなったことは確かかもしれません。



 寄居町の国道254号線沿いにある北条氏邦の乗馬像。
2005年5月7日 撮影



・2005年5月7日    児玉町の城跡--雉岡城ほか
           

(往路の独り言)
 午後から天候が回復するという予報でしたが、朝方には雨もやみどんどん天気がよくなる兆しがありましたので足を伸ばして埼玉の北端の城跡めぐりに出発。川越の北の入間川の橋を渡るときには、どんどん高気圧が張出して晴天が広がり、この時期としては珍しく一時は奥多摩、奥秩父、奥武蔵、浅間山、榛名山、赤城山、日光男体山方面が麓に断雲を従えてくっきりと浮かび上がり、こういう光景を目にしただけでも出かけてきた甲斐があったというものです。
 さて目的地は埼玉の最北部の児玉町方面。美里町までは前回来たばかりなので地理はある程度見当がつきますが、児玉町自体は25年ほど来ていないので殆ど地理不案内な地域です。途中で寄居町の北条氏邦の像を撮影して、あとは国道254線をひたすら北上して児玉の雉岡城を目指しました。雉岡城には途中で国道がバイパスに分かれるところで道を間違えたものの、別の道を通り真直ぐ遺構がある場所に無事到着。元来、かなり方向音痴の自分も、少しは経験値があがってきたということで。
■雉岡城
 いつものことですが資料をよく読んでいなかったために遺構としてどの部分が残っていて、現在位置がどこなのか掴むのに時間がかかり、城跡のあちこちをうろうろと。それでも、やっと北側の三の郭が児玉高校の敷地で、本郭が児玉中学の敷地になっていることを理解し、現在位置も把握することに成功。しかし、せっかく案内図があるのですから、現在位置の表示ぐらいしてくれても良さそうなものですが...などと八つ当たりを(^^;
 土塁などの遺構が保存されているのは南側の郭と、東側郭の南側の一部、本郭東側の土塁周辺であることを確認。水堀、空堀なども水がやや濁っていることを除けばよく残されています。しかし、どう見ても出枡状の土塁の上に普通の民家があるのには驚きましたけれども。あと、その出枡土塁の北側部分が児玉高校東側の正門脇にしっかりと残されていることも分かりました。
 推定される遺構全体から見ると南東側の郭を中心として全体のおよそ3割程度が保存されているようです。南側外郭土塁の高さは優に6メートルはあり、本郭の土塁の高さも約7メートル前後、本郭南東の空堀の深さも深いところで7メートル以上はあります。水堀の幅も意外に広く水面部分で15m前後はあるようです。
 それにしても、城跡に到着した時間が午後1時前ということもあり初夏の陽気の中昼寝をしている人が異常に多く、城跡を見学しているのは自分だけで、もう少し城跡に関心を持つ人が多くても良さそうに思うのですが。いずれにしても、駅から700メートル、国道から300mという市街地に所在することを考えるとよく実に保存されていると言うべきかと。
■金窪南城
 雉岡城の北方約五キロメートルぐらいにあり、国道十七号線のすぐ北側の陽雲寺の北側に土塁と空堀の一部らしきものが残されています。特に北東側の土塁は高さこそ1.5mもありませんが、「角落とし」が思いのほか綺麗に残されています。寺や民家の通路により分断されていますが、南朝の畑氏の墓石やその子孫とされる畑俊六の墓石などもあったりしますので、殆ど期待しないで訪城したぶんだけ思いがけない収穫ではなかったかということに。
 ただし、南東側に豚舎があり、五月の上旬でもやや厳しいものがありましたが、夏季は嗅覚の敏感な方は特に避けたほうが宜しいのではというようなちょっとした問題がありますけど。
■金窪城
 合戦にまつわるエピソードなどもあり、歴史的な事実もある程度わかっている城跡ですが、残念なことに遺構らしきものが、民家の北側に所在している僅かな土塁を除けば殆どないという状態です。それに反比例して、説明版、石碑、標柱だけはしっかりしている城跡で、城跡の隣接地が結構広い児童公園になっていてややくたびれかけたフィールドアスレチックなどの施設も設置されています。
 北側の小河川を天然の要害とする城ですが、北側にゆるい傾斜をもつ殆ど平地状態の地形に築かれているので、当時の縄張りを想起することはできませんが、堀や土塁をどのように工夫しても防御性の高い堅城には至らない限界を感じる立地条件ではないかと。したがって神奈川の合戦でたちまち落城したというのは頷けます。
■古郡館
 帰路に時間があれば立ち寄ってもいいかなという程度の場所でしたので、そろそろ時間もなくなり夕方の混雑を考えると直接帰宅するほうに傾いていたのですが、たまたま信号待ちで停止した交差点が、そこへの近道の場所だったのでついでによっていくことに。
 場所は美里町役場の北側のところで、「美里町史」の二十年以上も前の情報を基にしていたので、場所を確認する程度のつもりで全く期待はしていませんでしたが、結果としてはわざわざ行かなくてもよかったのではないかという状況でした。民家の北側の境界に土塁らしき草木が叢生した茂みと、堀跡と思われるU字溝の下水設備があっただけで、どう工夫しても写真の撮影の仕様もない状態でありました。寄っていって良かったことは国道254線の渋滞を迂回できたということぐらいでしょうか(^^;
(帰路の独白)
 というようなわけで、今回の訪城はだんだんとテンションが低下していく結果となった次第です。さて、次はやはり国道十七号沿線を北部から攻略していくことになるのではないかと思っていますが、季節柄城址公園のような場所が中心となりそうです。右足の膝の具合も完治していないようですので、あまり足に負担のかかる所は避けないといけないようです。
 二週間ほど訪城のブランクのあったせいか、車窓からの風景は次第に緑が濃くなり始めて、何時しか初夏の趣に変わっていました。



 雉岡城(八幡山城)。城跡の中に何故か鳥小屋があり、チャボとシラコバトとそして雉もいました。
2005年5月7日 撮影



・2005年5月6日    連休ボケの頭
           

 20年ぶりぐらいの完全な5連休。膝の調子もいまひとつで、左のアキレス腱にも違和感が出てきて、加えて頭が仕事モードに切り替わらず、ひたすらボーッとしているうちに一日が終わってしまいました。一応それなりに仕事はしたつもりですが...休みは精々連続2日までがいいようです。元に戻すのに相当の時間がかかるようで...(^^;
 冷静に考えれば、如何に日頃から惰性で仕事をしているかということの証明のようなものである訳ですが、この年になって今更変えることもできず、多分このまま定年を迎えていくのでしょう。明日の天候次第ですが、足に負担のかからない訪城を考えています。



 クヌギ、コナラの平地林。
2005年5月5日 撮影



・2005年5月5日    近くのお寺の藤の花を観賞
           

 2週間が経過して子ネコたちがちょこまかと動くようになりました。昨日の時点ではそれほど動きが早くなかったのですが、今日は全員で動き回るようになり、気をつけないと踏みそうになるので、座るときは数を数えてから出ないと危ない状態です。
 さて、近くのお寺の藤の花が満開のはずなので、ちょこっと写真を撮りに出かけた成果が下の写真です。まだ、右足の膝に違和感があり、結局連休中の外出はここだけという非常に寂しい結果に終わりました。



 何とか花の盛りに間に合った藤の花。
2005年5月5日 撮影



・2005年5月4日    ようやくよちよちと歩くようになった子ネコたち
           

 ポミの産んだ子ネコたちがようやくよちよちと歩くようになりました。まだ、自由に歩けるというわけではなく、後ろ足を震わせ少し怖がりながら母ネコの周囲50センチぐらいの範囲で動いています。
 出産後まだポミは風呂に入れていなかったので風呂に入れようと、抱き上げたら部屋の入口の柱に爪を立てて抵抗をされました。ただ、今までの風呂嫌いの抵抗とは、少しだけ様子が違うようです。やはり子どもたちの方を真剣な表情で見つめていたことからも、どうやら子どもたちから引き離されると勘違いして必死の抵抗を試みたような気がします。



 授乳中のポミと5匹の子ネコたち。動きが早いもので残りの2匹は何れまた...
2005年5月4日 撮影